第三段 なつやすみたるもの
タケルは悪魔にKO負けする
雨が終わったということは、もう夏休みが近いということである。その前にテストがあるわけだが、そのことについてタケルが関心を払うことはない。
メグなどは毎日全身をハリネズミのようにしながら机に向かっていて、忙しいらしい。メグほど日頃一生懸命勉強をしていても、テスト前にはまたこうして詰めて机に向かわねばならぬのならば、もしかすると勉強というのはおおよそ人間の持ちうるキャパシティを超えた大業なのではないかとさえ思えてくる。
いや、おそらく違うのだろう。
誰もが、同じことをしているのだから。たとえばカンナは学校でも
自分の高校受験のときは、どうだったか。
特別、勉強をした記憶はない。出された問題になんとなく答えて、今の高校に受かった。そもそも、それほど学力の高い高校ではないのだ。
ふと思う。では、カンナはなぜこの高校に入ったのだろう、と。カンナほどの知性があれば、たとえば東京の有名な私立の進学校にも行けたはずである。
中学生の頃はそうでもなかったが、高校に入ってから奮起して勉強に勤しみ出したのか。どのみち想像しても分かるはずはないから、やめた。
あれ以来、メグと積極的に言葉を交わすことは少なくなっている。夜になって兄の所在を心配するようなメッセージも来なくなった。
それでいいとタケルは思っている。メグは勉強をせねばならず、目指すべき方に行かねばならぬ。メグが私立の有名中学から公立に転校したのは、自分のせいなのだから。無論、メグの代わりに勉強をしてやることなどできないから、なるべく自分のようなロクデナシに関わることなく、彼女自身のことに集中した方がいいのだ。そう思っている。だから、タケルからは何も言わない。ただ、机に向かうために二階の部屋に上がってきたメグと、
「また、勉強かよ」
「うん」
「そうか。頑張れよ」
というやり取りをしただけである。それを受けたメグは何も返さず、部屋に入っていった。
あれから、図書室にも行っていない。
テスト期間になれば、学校は昼休みを待たずして終わる。そのあと生徒は帰宅してまた明日のテストの科目についての復習をするわけであるから、このテスト期間中にカンナが図書室を利用することはないだろう。
だから、タケルは足をそこへ運んだ。
誰もいない図書室。閉まっているかと思ったがちゃんと開放されており、施錠時間の変更についてプリントアウトしたものが掲示されていた。
枕草子は、自宅の机の上。返却期限など、とっくに過ぎている。
カンナがいつも座っている席に向かい合う位置に、一人で腰掛ける。少しして立ち上がって窓を開いてみたが、蝉の雨がいたずらに注いでくるだけで
いるわけがないのだ。そして、来るわけがないのだ。だから、タケルは安心してここに来ることができた。こうして自分を慣らしてゆき、次に会ったとき、ほんとうのことを訊いてみればいい。
しかし、そのタケルの目論見は、ものの見事に打ち破られた。
「夏川くん」
窓の外に逃がしていた視線が、否応無しに引き戻された。
カンナである。咄嗟に気まずくなって席を立ちかけたが、気を入れ直して尻を椅子に縫い付けた。
「もう、来ないかと思ってた」
「来るつもりはなかった。だけど、来なきゃいけないと思っていた」
「そう」
カンナは柔らかく笑い、いつもの席すなわちタケルの向かいに座った。
「どうして、来なくなったの?」
「べつに、理由なんてない」
「そう」
沈黙。騒音よりも激しいそれは、なによりの拷問。高温注意報が発令されている苛烈な風が室内の空調を吹き流し、弔問客のようにおとなしくなっているタケルの肌に汗を滲ませた。
「彼女に、怒られるから?」
タケルはカンナが何を言っていらのか分からない。呆けたような顔をツイストパーマの奥から覗かせ、固まっている。
「彼女って?」
辛うじて、言葉を発することができた。
「ハルさんが、怒るんでしょ」
その固有名詞を聞いて、タケルはカンナが何か思い違いをしているということが分かった。どういうわけか、カンナはタケルがハルと付き合っていると思っていて、それで昼休みに二人で図書室にいるということについて何かしらのやり取りがあり、その結果タケルはハルに気を使って図書室に来なくなったと思っているらしい。
しかし、それならば、なぜあのとき図書室の前でハルと会話をするタケルに背を向けたのか。さらにその前の晩、ハルトと共にいたというのは、どういうことなのか。
「そんなわけねえじゃん。何で俺が、あいつと」
まず、ハルについての誤解を解かなければならない。そこからであろう。
「だって、前にもハルさん、図書室にやって来たじゃない。わたしと夏川くんが二人でいるのを見て、すっごく焼きもちを焼いていたわ」
「焼いてねえだろ、別に」
「あら、どうしてそういい切れる?」
この物言い。久しぶりである。見た目は風が吹けば折れる茎の高い花のようであるくせに、物言いには得もいわれぬ圧力があるのだ。いや、重力と言ったほうがよいか。それを感じるたび、タケルの全身の神経は秋のススキが揺れて触れ合うようにささやかな音を立てるのだ。
「そっか、夏川くんとハルさんは、付き合ってるわけじゃあないのね」
「そうだよ。ただの幼馴染だ」
「そっか、そっか」
とりあえず、ハルと付き合っているわけではないということは理解したらしい。タケルは一瞬解放されたような気分になったが、カンナの重力はまだ彼を捕らえて放さない。
「でも、ハルさんが焼きもちを焼いていたのは間違いないわ。わたしも、女の子だもん。ハルさん、あなたのことが好きなのね」
カラオケでのことを思い出した。どこにもそのような理由などないのになぜか赤面しそうになり、タケルはわざと大きな声を出して否定した。否定して、話を自分の方からカンナの方へと向けた。
「お前こそ、ハルトとあの後、どうしたんだよ」
「ハルト君?あのあと?わたしをバス停まで送ってくれて、それっきり。連絡先は交換したけど」
「バス停――」
それを聞いて、氷解した。カンナは確かにタケルの自宅の最寄り駅から電車で帰ろうと思うと乗り継ぎをせねばならず、少し歩いて大通りのバス停からバスに乗れば、スムーズに帰宅できる。そのバス停の通りのすぐ裏はホテル街になっているから、あまり夜遅い時間に若い女性は利用せぬものだが、ハルトがバスの到着までそこに付き添っていたのだろう。
ハルが見たのは、それだったのだ。
なぜ自分が安心しているのか、不思議に思った。しかし、安心した。
「連絡先、交換したのかよ」
「ええ、交換したわ。あなたの怪我のことで何かあったり、助けが必要ならいつでも言ってくれ、って。あの人、すごくいい人ね。とてもいいお友達じゃない。年上で、頼りになる」
それはそれで、面白くない。これではタケルが馬鹿で、ハルトは善人ではないか。それの何が面白くないのかまた不思議になったが、無視した。
「そうかよ」
「あれ、夏川くんこそ、何か勘違いしてたの?」
悪魔だ。女神だと思っていたら、悪魔だった。そんな表情を、カンナは見せた。タケルは畏れにも似た気持ちを抱えながら、蝉の声を睨みつけた。と言えば聞こえはいいが、早い話が眼を逸らしたのだ。
「わたしとハルト君に、何かあったって思った?」
「思ってない」
「嘘。じゃなきゃ、どうしてわたしがハルさんのことを言ったあと、お前こそ、ってハルト君のことを持ち出したの?」
「そ、それは」
クリーンヒットである。これがボクシングならばしたたかに打たれて朦朧とするタケルに向かって
「でも、悪くないかもね。ハルト君、背が高くて優しいし。すごく格好いい」
「ああ、そうかよ」
「なんてね、嘘。わたし、年上はちょっと苦手かな」
「ああ、そうかよ」
同じことを繰り返すタケルにカンナはくすくすと笑みを向け、金木犀の香りを振り撒いた。
「どうせ、テスト勉強しないんでしょ?駄目よ、ちゃんとしなきゃ」
「お前こそ、こんなとこで油売ってんじゃねえ」
「あたしは、いいの」
「なんだよ、それ」
「ねえ、夏川くん」
声の色が、変わった。たとえば、うるさい蝉が鳴きやんで
「この前、妹さんにひどいこと言って、ごめんなさい」
「べつに」
「わたしのこと、すごく嫌な女だと思ったでしょう?」
「べつに」
メグも、同じことを言った。嫌な子だと。なぜ自分の周りにいる女性は、同じことばかりを言うのだろう。母親も、あなたを見ていると自分が情けなくなる、と深刻な表情をしてよく言う。
「どうしてかしらね。すごく、腹立たしくなっちゃって」
「なんで」
「分からない。ただ、あなたのことをすごく心配している妹さんを見ていると、ああ、わたしの知らない夏川くんの家で、わたしの知らない妹さんと過ごしていて、妹さんはわたしの知らない夏川くんを知っているんだな、って思って」
「なんだよ、それ」
タケルの心臓の細胞が、
心臓がおかしくなりそうなのは、そのためだろう。
「こんど、機会がもらえるなら、謝りたい」
「いいよ、そんなの」
「いいえ、筋は通すわ」
「――昭和のヤンキーかよ」
またくすくすと笑い、カンナは席を立った。
「テスト期間中は、ちゃんとテストに備えて復習すること。終わったら、また枕草子の続きよ」
「でも、もうすぐ夏休み――」
それを遮り、金木犀の花弁が重なる。
「夏休みも、図書室開いてるよ」
風。カンナはぱっとスカートを翻し、ドアに向かった。
「待ってるから」
KO負けである。
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