タケルは小さな世界で少し素直になる

 また、日常だった。週のうち何度かはライブハウスに通い、負け犬と呼ばれ続けた。ハルトに会っても、


「怪我、どうだったよ。大丈夫か」


 などと声をかけてくるのに曖昧に返事をするだけで、カンナのことは聞けずにいた。ステージの上では何度か言葉リリックを交わし、その度に大敗した。

 気が向いたら、学校にも行った。昼休みに図書室に行くことはなかった。なんとなく行き、つまらないと感じれば午後をパスして切り上げた。その間、枕草子は、ずっと部屋の机の上。


 もともと、何の理由があったわけではない。殺風景で薄温いアスファルトとコンクリートを照らす雨に濡れた街灯の光にぱっと浮かんだ女神に、驚いただけなのだ。

 なぜか、それから目を逸らして逃げるわけにはゆかぬような気がしただけなのだ。

 知らなければ、もともと、いないのと同じ。そういうものだろう。


「タケル」


 ある日、午後をパスしようとしたところに、ハルが声をかけてきた。


「やっと、捕まえた。今日こそ、逃がさないんだから」


 偉そうに腰に手を当て、得意げな顔をしている。


「何の用だよ」

「カラオケ。いつ行くのよ。今日こそは、大人しく従ってもらいますからね」

「俺、もう帰るぜ。またな」


 じゃあ、とハルは詰め寄った。なぜか殺気のようなものを感じて、タケルは僅かに身構えた。


「あたしも、午後パスする。どうせ、帰ったって暇人なんでしょ」

「──べつに、いいけど」


 従う理由がないならば、断る理由もない。なんとなく、応じた。そのまま二人で午後の退屈な眠気から逃げ出し、繁華街へ。


「へへ、なんだか、悪いことしてるみたい」

「学校フケてんだ。悪いことだろ。何だよ、今更」


 喜ぶハルとは対照的に、タケルは興のない様子である。この時間でも授業のない高校生がうろついているのは不思議ではないから、街ゆく人も警察官もカラオケの受付も特に見咎める者はない。

 しかし、ハルにとってはこれは紛れもない悪事であるらしく、それがもたらす暗い小さな興奮を禁じ得ないらしい。


「何歌う?」


 タケルはソファに深く腰掛けたまま、何も言わない。構わず、適当に歌えよ。そう言ってハルの好きにさせてやり、自分は飲み放題のジンジャーエールを何杯も啜った。


「あんた、ほんとにつまんないわね。一曲くらい、歌いなさいよ」

「嫌だ」

「どうして?下手くそがバレるから?」

「うるせー、黙ってろ」

「あんた、気が付かない男ね。せっかく、かわいい幼馴染のハルちゃんが傷付いたタケルくんを慰めようと、場を設けてあげてるんだから。あんたの煮え切らない胸のうちを、吐き出してみなさいよ」


 それは、絶対に勘弁だった。ハルに弱いところを見せれば、どのような形で付け込まれるか分かったものではない。

 それから逃れるため、タケルは大慌てでリモコンをタッチし、適当に曲を選んだ。お悩み相談をしてハルに無神経な慰めをされるくらいなら、歌った方がましである。


 シーケンス。アメリカの有名なラッパーの曲で、映画のテーマソングにもなった曲。このシーケンスにお似合いの、陰鬱な青春映画で、途中で観るのをやめた。

 ビートを先導するキックの音がタケルの意識を潜航させ、ハルの前であるのに進路変更の効かぬ領域へと。脳内を閃光のように駆け巡る言葉をひとつつまみ上げ、不健康極まりないグルーヴに乗せてみる。

 無感動の反動に賛同する感度のある精神を何度言葉にしようとも、常に、それはタケルを負け犬にした。

 何が足りないのか。それをのみ、考えていた。しかし、キックと鼓動ビートの一致を既に見ているタケルには、頭で考える論理などは既に無意味なものになっている。


「──ハルは化け物」


 もともとの歌詞ともメロディとも全く違う、タケルの言葉。無意識に、それがこぼれてゆく。


「俺はけ者」


 ハルが吹き出した。目を輝かせながら、次の言葉を待っている。


「春は曙。読んでも無駄さ枕草子、全て見通す千里眼持つハルはマジで化け物。俺は獣、分かりゃしねえぜ本当の理由、口から出まかせ無理やり言う、俺たちさながら龍と虎」


 すごいすごい、とハルは大喜びで拍手をする。


「女心と秋の空、こんなところで待ち望みゃ、融けて掴めぬ生徒会長、始まる前に終わりを見る俺の心を開帳、拝聴、貴重なご意見の代償は内緒、とんだ茶番の三文ショウ」


 そこまで歌って、コーラス部分は原曲通り。間奏に入ると、タケルはマイクを置いた。


「続きは?」


 ハルが期待に満ちた眼を向けてくるが、タケルの視線は噛み合わず交わらず、ツイストパーマの奥で揺れている。


「マジ笑う。期待してたのかもな」

「なにに?」

「あいつと、どうにかなるんじゃねえかって」

「でしょうね。あんたがどれだけ否定しても、実際そうなんだもん」

「俺に分からない俺のことを見通すお前が見たものは、やっぱりほんとうなんだろうか」


 タケルとは、もともと人とあまり眼を合わせない。なんとなく眼を逸らしたり、伏目のまま話したりするものである。付き合いの長いハルはそれをよく知っているが、そのハルがはっとした。

 まっすぐにハルを見て、瞳を揺らしている。雨に打たれる小鳥のように心細そうに、いや、不安げに。


「あたしに、分かるわけないじゃない。あたしは、見たままのものから想像できることをあんたに言ったまでよ。あたしはきっとそうだと思ってる。あんたがどう思うかは、あんたが決めれば?」

「そりゃ、そうだけど」

「意気地がないのね。そんなんじゃ、誰にも相手にされないわよ。ましてや、誰もが振り返るカンナ先輩なんて。言い寄ってくる男なんて山ほどいるだろうし、その中にはスポーツ万能で顔が良くて背が高くて頭が良くてカンナ先輩と話の合う人だって、たくさん」


 まるで、釘かなにかを肺や心臓に何本も打ち込まれるようだった。自分が勉強もできないし背も低くて無気力で夜のライブハウスに入り浸ってばかりいるようなはみ出し者であることを知りすぎているタケルには返す言葉もない。


「珍しいこともあるもんね。昔っから他人に興味なんて全くなかったあんたが、そこまで人に入れ込むなんて」

「──はじめてのことだったんだ」


 ハルは、感じている。タケルの心を刺激から守るために被さっている棘の付いた鎧が、ひとつずつ剥がれてゆくのを。そして、知っている。その鎧はタケルを守らんとするあまり、些細なことにまで棘を立て、近づくものを拒絶してきたことを。その度、タケルには薄い、ごく薄い傷が重なり、そしてタケル自身がそのことに慣れてしまっていることを。


「ほんとに、はじめてだった。神様か何かが降りてきたのかと思った。背骨に、雷が落ちたみたいだった。それが何なのか知りたくて。そのために、あいつと同じ場所に立たなければならないと思って」

「正直ね。もっと、吐きなさい」

「取り調べかよ」

「カツ丼は出ないわよ」


 タケルが歌うのをやめたきり流しっぱなしになっている音楽の中、互いに少し笑った。


「それだけだったんだ。だけど、近付けば近付くほど、自分が惨めになっていて。ステージでも、歌えなくなってしまって。言葉が、うまく出てこないんだ。俺の何を歌ったって、チンケで薄っぺらなものにしかならないような気がして」


 だけど、とタケルは強く継いだ。


「そのことを思ううち、何かが見えそうで。でも、それに手を伸ばしちゃいけないように思えて。なあ、ハル。教えてくれよ。どうすりゃよかったんだ。どうすりゃいいんだ」

「自分で、考えなさい」


 ふわりと、ハルの匂いがタケルを包んだ。小さい頃とは違う、親に買ってもらった香水の匂い。思えば、この匂いを漂わせるようになってから、仲が良かった近所同士の幼馴染から別の生き物へと変態を遂げたようで、苦手になったのだ。


「あたしの知ってるタケルは、弱くて、ずるくて、カッコ悪い」

「悪かったな。お前に言われなくても、分かってる」

「だけど」


 密着したままの身体が、ハルの鼓動をタケルへと伝播させてゆく。そのまま、ハルの指がツイストパーマを一束巻き上げ、軽く引っ張った。


「あたしの知ってるタケルは、真っ直ぐで、優しくて、繊細な人」


 タケルは、言葉を失った。自分がどのような顔をしているのか分からぬし、どのような顔をしてよいものか分からぬのだ。


「タケル」

「なんだよ」

「あんたのそのままを許してくれる人じゃなきゃ、あんたは駄目」

「どういう意味だよ」

「馬鹿ね。言わせる気?」


 言わせるも何も、ハルが勝手に言い出したことではないか。そういう顔をするタケルを見て吹き出し、続けた。


「あんたがあんたじゃなくなったら、あたしは誰を見ていればいいのよ」

「ハル――」

「ねえ、タケル」


 流しっぱなしの曲のアウトロが終わり、静かになった。いや、アーティストが出演してカラオケの曲を紹介する映像が流れている。それでも、この小さな小さな世界は、静かになっていた。

 ツイストパーマを引く力が、強くなる。タケルの首がそれに誘われて動き、間近にあるハルの顔の方に向けられた。


「キスして」


 タケルは、心臓が尻から出たかと思った。驚いたのだ。そのままそっと目を閉じるハルの顔は、タケルが生まれて初めて見たものだった。ずっと、幼い頃から一緒に遊んできた仲である。小さい頃から男勝りでクラスの男子を泣かせたり、タケルと一緒に無茶な遊びをして大人を震え上がらせてきたハルとは全く違う、一人の女の顔が間近にあった。

 しかし、あの落雷はなかった。それが、タケルを落ち着かせた。

 ひとつだけだったのだ。やはり、ひとつだけだったのだ。あの落雷は、紛れもなく、ひとつだけだったのだ。だから、タケルはハルの知るタケルになることができた。


「嫌だよ。死ね」


 タケルはぱっと身体を離し、ふてくされたようにソファに腰かけた。ハルはわずかな間ぽかんとしていたが、やがて肩を震わせて笑いだし、ついには大口を開けてタケルを指差して喜んだ。


「なにそれ、なにそれ。照れてんの?そりゃそうよね、このあたしがキスしてって頼んであげてんだもん。照れて当然。タケルが男の子だったって分かって、安心したわ」


 タケルは、答えない。いつも通り無関心な表情のまま、ジンジャーエールのストローに口をつけた。

 違ったのだ。デパートで売っている高級な香水の匂いではなく、金木犀きんもくせいでなければならなかったのだ。尻から心臓が飛び出す感覚ではなく、背骨への落雷でなければならなかったのだ。ミルクティー色の巻き毛ではなく、ストレートの黒髪でなければならなかったのだ。大口を開けて笑う闊達な声ではなく、静かに枕草子を読み解く声でなければならなかったのだ。

 この小さな世界の扉を開けば、外はまたうるさい陽射しと蝉の声で溢れているのだろう。それよりも、空調がきいてジンジャーエールが飲み放題のここにいた方がいいに決まっている。しかし、タケルの女神がいるのはここではなく、あの過酷な世界なのだ。

 違ったのだ。幼い頃から共にあり、いつもタケルを見ていてその全てを赦すというハルではなく、あの女神でなくてはならなかったのだ。


「やっぱ、駄目か。いけると思ったんだけどな」


 ハルがわざと大きな声を出し、伸びをした。それが終わるとふと頬を寛げ、声の色を変えた。


「ま、あんたらしいといえば、あんたらしいけどね。いいんじゃない。勝てないと分かっていても、挑み続ける。それでこそ、永遠の負け犬ルーザーね」

「言ってろ」

「あたし、あんたのそういうとこ、好きよ。それだけは言っとく」

「――あ」


 間違えた、とタケルは思った。この音節を継ぐ先が見当たらない。口は知らず、続く音を吐く。それを止めることは、できない。


「ありがとう」

「素直でよろしい」


 間違えた、と思ったが、ハルは満足そうに頷き、ぱっと立ち上がり、タケルの背を強く叩いた。


「さ、帰ろ?メグちゃんが心配するといけないし」

「まだ、そんな遅い時間じゃねえけど」

「あら、じゃあもっとあたしと一緒にいる?」

「いや、帰る」


 ハルが大笑いするので、タケルも仕方なく笑った。

 帰るのだ。

 あのうるさく、わずらわしく、辛く、厳しく、惨めな世界へ。

 行こ、と明るく笑うハルが先に立ち、個室のドアに手をかけた。そして、あの世界へと続く扉が開かれた。

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