タケルはいたずらに心を乱される

 翌日、宣言の通りタケルは学校に行くべく身支度をした。何か言いたそうで、言いにくそうにしているメグとは眼を合わせない。母が顔の怪我についてしつこく訊ねてきたが、転んで電信柱にぶつかったの一点張りで通した。


 嫌な子。そう言って、メグは涙を流した。なぜ、そう思うのか。

 ――あたしが、いつもどれだけ心配しながら待ってるか。どんな気持ちで、待ってるか。

 そう言って、さらに泣いた。

 ――自分が何のために枕草子を読むのかも分かってないし、なんであの人がわたしに突っかかるようなことを言ったのかも分かってない。

 とも。


「分かるわけねーよ」


 逃げるようにして閉めた玄関のドア越しに、そう呟いてみた。どうせなら、面と向かって言うべきなのだろう。だが、泣き腫らした瞼の妹には、どうしてもそれを言うことはできなかった。


 三本ラインのトラックスーツの上着と不似合いな制服のズボンが、タケルを学校へと運ぶ。いい加減、暑い。

 なぜ、これを脱がないのか。

 これを着ることで、何から何を守ろうとしているのか。

 俺は、人とは違う。

 俺は、特別なんだ。

 勉強じゃない。友達づきあいでもない。部活でもない。誰でもできるようなことを何もかも捨てた代わりに、誰にもできないことをする。

 そういう気概の表れなのだろうか。だとしたら、ずいぶんと安っぽい表現である。

 カンナに教わった、枕草子の意味。そこにも、自分は達観していて、世の人の浅ましさを嘆くようなものがあった。それを揶揄する別の人間もいたという。遥か昔の時代においても、そういう連中とは代わらずに存在するものらしい。


 清少納言が、人のことを指差して笑ってたとして、自分自身が人に笑われぬような生き方をしていたかどうかは、分からぬではないか。そう開き直るような気持ちもある。それを、カンナにぶつけてみようと思った。

 ヒップホップに浸り、常に頭の中で言語を去来させているタケルの感受性は、その性格や行いから想像できるものよりも遥かに繊細である。しかし、回りくどく搦め手から攻めるような方法を取ることができる類の人間ではない。

 絆創膏やガーゼだらけの顔で他の生徒に避けられながら、昼休みに図書室を目指す。


 いつものように不機嫌そうな顔をして、乱暴にドアを開く。その向こうには金木犀の香りを振りまくカンナがいて、手にしていた本を閉じ、少し笑って会釈をするのだ。

 だが、この日は、その姿はなかった。

 待っていると言ったはずなのに。内心、ひどく不満であった。なぜか、不安になった。思案の末、図書室をあとにしようとしたところに、足音。

 来た。そう思った。しかし、顔を覗かせたのは、カンナではなくハルであった。


「なんだよ」

「やっぱり、ここにいた」


 ハルはずいずいとタケルのパーソナルスペースを侵し、こめかみのガーゼをつついた。


「痛ぇな。なにすんだ」

「珍しいのね。あんたに限って、喧嘩に負けるなんてさ」

「うるせーな。転んだだけだ」

「はい、ダウト。空手黒帯の相手の突きも見切ってかわし、特撮ヒーローみたいに宙を舞って脳天を蹴飛ばすタケルに限って、転んで怪我するなんて、ありえない」


 からからと笑うハルを睨み付け、図書室を出ようとした。


「カンナ先輩、多分来ないわよ」

「なんで」

「さあね。直接聞いてみれば?」


 意味ありげな微笑を残し、ハルはタケルを追い越して駆け去ろうとした。その腕を目にも止まらぬ速さで捉え、詰め寄った。


「なんで、来ないんだよ」

「ちょっと、やめなさいよ」

「なんで、来ないってお前が知ってるんだよ」

「嫌。痛い」

「言え」

「放して」


 ハルの目線が、ふと移った。無意識にそれを追うと、その先にはカンナの姿があった。ちょうど歩いていた動作を停止したような、安定感のない姿勢で。


「おう」

「夏川くん、ごめん、枕草子は、また明日ね」


 そう言ってきびすを返し、早歩きで立ち去った。呆気に取られたようにして見送るタケルの縛めから腕を振りほどき、ハルが得意げに笑う。


「ほらね、言った通りでしょ」

「来たじゃねーか。来たけど、帰ったんだろ」

「揚げ足を取らないの。とにかく、カンナ先輩は、あんたのことなんて屁とも思ってないんだから、諦めなさい」

「なんだよ、それ」


 凄むタケルなど全く怖いと思わぬのか、ハルはミルクティー色の髪をすこし触りながら、国家機密でも明かすような小声で言う。


「カンナ先輩、大学生と付き合ってるのよ」

「だから、何だよ」


 タケルがその言葉の通りの心境であったか、どうか。ただ、ハルがその続きを明かそうとするのを、拒みはしなかった。


「夜、かなり遅い時間に、大学生風の男の人と歩いてるのを見たの。かなり親密だったわ。そのまま、二人はネオン街の方に――」

「馬鹿か、お前」


 一笑に付したいところであるが、もしかすると声が裏返りそうになったのを感付かれたかもしれない。とりあえず冷静になって、それが何かの間違いであったことを証明しなければならない。夜遅い時間。大学生。思い当たることがある。


「それ、いつのことだよ」

「いつも何も、昨日のことよ。ホットニュースってやつね」

「ああ、それなら」


 タケルは、昨日起きたことを説明してやった。完全なるハルの勘違いで、早とちりだとあざ笑ってやるつもりだった。


「それが何?」


 こんどは、ハルがタケルのようなことを言い、鼻で笑った。何、と言われても、と困惑するタケルの急所に鋭いきりでも突き立てるようにして、まくしたてた。


「あんたに付き添って知り合ったんだとしても、それがきっかけで親密になったと思わないの?出会ったその日にそういうことするの、男の人は歓迎だろうし、女の人だってまんざらでもない、って人もたくさんいるんだから」

「馬鹿野郎。あいつはな――」

「あんた、カンナ先輩の何を知ってるの?どうして、無いって言い切れるの?」


 言葉に詰まった。ステージの上と同じである。頭の中に渦を巻いているものを、言葉に変換するのが追いつかないのだ。


「あんた、カンナ先輩の彼氏?」

「いや、ちがう」

「じゃあ、先輩がどこで誰と何をしてようが、あんたには何も言う権利はない。違う?」


 その通りである。べつにカンナが誰と付き合い、どこで何をしようが、タケルにはそれについて何を述べることもできない。

 だが、この心のざわつきは。大地震の前に獣が一斉に逃げ出すような異様な騒がしさは。それすらも、抱く権利がないというのだろうか。

 タケルが絶対にそんなことは無いと言い切れぬように、ハルもまたそう見て取れる状況を目にしたというだけで事実を断定することはできぬはずである。それが、せめてもの救いであろう。

 ――ホテルに入るとこを見たわけじゃねーんだろ。

 そう訊いてしまえば、自分が何を気にしているのかを歪んだ形で提示することになり、よりハルは勝気になってとどめを刺しにくるだろう。


「どうして、カンナ先輩は、あんたを見て引き返してったんでしょうね。よーく、考えてみて」


 自分の怪我の付き添いで知り合ったハルトと、そういう仲になったからか。それで、気まずくなったのか。

 そんな女だったのか。いや、そもそも、どんな女なのか、知りもしないではないか。知ろうとすればもっと色々と知ることもできたのだろうが、つとめてそれを避けてきたのは、自分ではないか。

 枕草子というものは目で読むことができても、清少納言という人間が何者で、どんな女であったのか、誰も知ることはできないのだ。

 それと同じだ。そう思うことにした。

 要らぬことで喧嘩になり、怪我をし、ステージで負かされ続けてきたハルトに助けられ、カンナにその無様な姿を見られて介抱され、メグには泣かれ、ハルには事実かどうかも分からぬようなことで心臓をえぐられた。

 最悪だった。


 ハルトに、確かめてみるか。しかし、どうやって。事実であったから、どうだというのだ。事実でなかったとしたら、どうだというのだ。


「まあ、気にしないことね。カンナ先輩は確かに学校イチの美少女で生徒会長で文武両道の才色兼備だけど、もともとあんたみたいなガチャ蝿の手が届くような人じゃなかったってことよ。年上の大学生なんて、お似合いじゃない」


 タケルは、声を発することができない。ステージの上で言葉に詰まるのに似ていると思ったが、それとは全く別質のものであることに気付いた。


「さ、失恋祝いよ。学校終わったら、カラオケ行こ」


 ハルの誘いを無視して立ち去り、校舎を出てそのまま帰路につき、自宅を目指した。

 午後の授業をパスして帰宅すると妙な感じがするが、もともと熱心に学校に行っていたわけではなく、成績どころか出席日数の時点で進級が危うい学生生活であったことに気付いた。

 ――何も、分かりゃしねえ。で、何も、変わりゃしねえ。あるべきところに、戻ってきただけさ。

 手握りしていた枕草子を机の上に放り投げ、大音量で重低音のシーケンスを流し、ベッドの上に転がった。

 音楽ビートに合わせ、様々な言葉が去来する。

 やはり、それを上手く表すことはできなかった。

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