兄妹は帰路で痛み合う

 駆け寄ってくるメグが心配をせぬよう、タケルは姿勢を正し、両肩を支える二人を振り払うようにして立った。


「やだ、何その怪我」


 メグは大きな声を出したが、カンナとハルトにまず礼をと思ったのか、


「兄が、ご迷惑をおかけしました。ありがとうございます」


 と言いながら頭を下げた。


「ああ、全然気にしないで。怪我も大したことなかったし、よかったよ」


 ハルトがことさら強調するように、大したことがないと口にした。メグはやや微妙な顔をしたが、また重ねてありがとうございます、と言うのみであった。


「何があったか、聞かないんですね」


 カンナである。馬鹿、とタケルは思った。メグはにっこりと笑い、


「ええ、聞きません。わたしは、兄に付き添ってくださったことにお礼を言うだけです」


 と答えた。

 耳元で飛んだ蚊を軽く振り払う仕草をしてから、カンナはまた笑顔で続けた。


「お兄さん思いなんですね」

「そうでもないです。ただ、兄妹だから、分かることもあるんです」

「たとえば?」

「兄はわたしに転んだなんて言うんでしょうけど、ほんとうは喧嘩をしてきたこととか。あなた方が兄を介抱してここまで付き添い、なおかつ兄が喧嘩をしたということをわたしに隠そうとしていることとか」


 棘がある。お互いに。それが何故なのかは、タケルにもハルトにも分からない。


「誰も、隠してなんて」

「ええ。いいんです。だから、はじめに言ったでしょう?わたしは、お二人にお礼を言うだけだって」

「いや、ほんと、大したことなくてよかったよ。俺たちはこれで帰るつもりなんだけど、もし必要なら家まで送っていくよ?」


 ハルトが取りなすように言う。メグは、すぐ近くですから大丈夫です、ほんとうにありがとうございました、と言って丁重に頭を下げ、タケルを連行するようにしてコンビニの明かりから遠ざけた。


「じゃあな、タケル。気をつけてな。カンナちゃんは俺が送ってくから、心配すんな」

「分かった」

「また、ステージでな」


 それには答えず、喉だけを鳴らした。カンナをちらりと見、その表情から何かを読み取ろうとしたが、できなかった。仕方なく立ち去ろうとしたその背に、声がかかる。


「夏川くん」


 また背骨に落雷を受けたかのような感覚。その感覚の名前を、タケルは知らない。


「怪我が治ったら、また、図書室で」

「ナメんな。明日には普通に動けるさ」


 カンナはなぜか悲しそうに笑い、ハルトに促されて背を向けた。



 そのまま、住宅地を照らす安っぽい街灯の明かりを踏みながら、兄妹で歩く。


「お兄ちゃん」


 ぽつりと、メグが呟く。悪かった、怪我しないよう気をつけるなどと言ってみても、選挙の公約よろしく当てにはされないだろう。

 カンナに無様で野蛮な姿を晒し続けることからようやく解放されたと思ったのに、次はメグの叱責を受けなければならないわけだから、それに備えて素早く気を入れ直した。

 喧嘩はできても、肝心のこういうことについてはタケルはてんで駄目である。

 ──我ながら、コンニャクみてえな精神メンタルだ。

 などと嘲笑ってみても、何が解決するわけでもない。メグが吐くであろう、夜出歩かぬようにとかいう類の正論を承諾するわけにもゆかぬし、そもそも健全な若者として向くべき方角が間違っているわけであるから、今さらそこに手を入れられて有り難い理屈などを頂戴しても、さながらショーケースの中の高額な宝石のようなものにしかならず、存在するということのみ知っていても実際に身に付けたり何かの役に立てたりすることはない。

 だが、メグが継いだ言葉は、タケルが身構えて備えていたようなものとは違う種類のものであった。


「あたし、嫌な子だね」

「は?」

「あたし、ほんとに嫌な子だね」

「なんで。急に、なんだよ」


 メグは、眼を伏せたままである。タケルにはそれを覗き込むような可愛げはないから、怒ったような顔をして帰路を示す街灯によって点々と晴らされた夜を見つめるしかない。


「急に勉強しはじめて、おかしいと思った。あの人のためなんだね」

「何言ってるのか、さっぱり」

「お兄ちゃんには分からなくても、あたしには分かる」

「一体何の話を――」

「あの人に、気に入られたいんでしょ」


 自らの肺をえぐり出され、それを我が目で見たときというのはこういう感覚なのだろうか、とタケルは思った。自覚はある。しかし、それだけではないし、そんなことはないと心のどこかで否定している。だから、それを口にした。


「そんなわけねえだろ。なんで、あいつのために、俺が」

「馬鹿みたい。高校生同士で、夜遅くに出歩いて。挙句、喧嘩までして。いいカッコしようとしたんでしょ。なにが、何があったのか聞かないんですか、よ。なにが、また図書室で、よ。馬鹿にしてるわ」

「おい」


 タケルの声が鋭くなり、メグが身体を震わせた。


「何なんだよ。突っかかりやがって。あいつは塾帰りにたまたま俺に会っただけだよ。図書室で話す機会があったから、そのことを言っただけだろうが」

「――なによ」


 ぎょっとした。結局、こうなるのだ。タケルが何をどうしようが、タケル自身の行いのせいで、いや、タケルがタケルであるがため、メグはいつもこうなるのだ。そして、それが己にも責があるものなのではないかと考え、その凝り固まって結晶になったものが瞳からぽろぽろとこぼれ出すのだ。


「あたしが、いつもどれだけ心配しながら待ってるか。どんな気持ちで、待ってるか。お兄ちゃんは考えたことなんてないのよ。自分が何のために枕草子を読むのかも分かってないし、なんであの人がわたしに突っかかるようなことを言ったのかも分かってない。なんにも、分かってない」

「泣くな。なんで泣くんだ」

「言ったって、無駄。なんにも考えず、動物みたいにしか生きられない人に、何を言ったって」

「お前、人を何だと」

「ハムスター以下よ。金魚。フナ。カブトムシ」


 何だその罵り方は、と辟易したが、そこを掻き回しても仕方がない。今できることといえば傷の痛みを感付かれぬよう普通に歩き、涙を夜のアスファルトに落とすメグに言葉をかけ、罵られるだけ罵られてやることくらいのものである。

 今なら、いいリリックが浮かびそうだ。この期に及んで、タケルの頭の中には、そんなことが去来している。どこまでめでたい奴なんだよ、とそれを振り払い、家へとさらに足を向ける。


 家についたときにはメグは少し落ち着いていて、父や母に感付かれぬようそっと玄関を開け閉めし、階段を上りづらそうにしている兄を気遣いながら二階まで付き添った。


「お兄ちゃん、ごめん」

「なにが」

「ひどいこと、いろいろ言って」

「べつに」

「だけど、お兄ちゃんが悪い」

「知ってる」

「あたしが、こんなに嫌な子だったなんて。つくづく、自分が嫌になる」


 それだけ言い、メグはタケルの部屋の扉を閉めた。

 この家も、親が建てたもの。ライブハウスに通う金も、親がくれたもの。腹が減れば飯が出て、服が無ければ買うことができる。トレードマークのようにしているジャージも、言ってみれば与えられたもの。そんな身分で我のみが尊しと振る舞い、血を流し、妹を泣かし、さかしらなことばかりを言って忠告を聞かず、馬鹿馬鹿しい自尊心にのみ縋って生きる自分は、非難を受けて余りあるものであると思った。


 さすがに、重低音のシーケンスを再生する気にはなれない。だから、テレビも点けずに無音の室内で、机に向かった。表紙が汚れ、折れ曲がってきている枕草子を手に取り、目で追う。相変わらず、何を書いてあるのかは分からない。だが、どの言葉も、カンナの姿で、カンナの口で、カンナの声で再生された。全てがそうであるということはなく、ときにメグの声になり、ハルトの声になり、父や母の声になることもあった。

 ――俺は、何も分かっちゃいねえ。何も、理解することができねえ。

 静かな住宅街の無音の室内のことであるから、ときおり通り過ぎる原付の音や通行人が電話で誰かと話す声が窓の外で遠く聞こえるたび、静かであると感じた。

 これくらいが、ちょうどいい。

 雑多な音に耳を澄まし、ひとつひとつの音を聴き分けることも必要なのだろう。だが、今は、これくらいがちょうどよかった。

 その証拠に、傷の痛みなどはじめからなかったかのようであった。ただし、それはタケルの、それも身体に走る痛みに限ってのことである。

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