タケルは血の味の混じった溜め息を吐く

 今ほど、自らの頭上に女神の声が降りかかることを煩わしいと思うことはないだろう。鼻血を垂らし、目尻を腫らし、汚れた灰皿の脇に座り込んだ惨めな姿を視界に晒し、じっと女神を睨み上げるしかない。


「大丈夫?」


 なにせ、受験が近いのだ。塾にも行けば、コンビニにも立ち寄る。タケルが自らの姿を見られたくないと思うならばここに来るべきではなかったし、そもそもこんな姿になるようなことをすべきではなかったのだ。

 それを悔いても、仕方ない。だから、


「ほっとけ。お前にゃ、関係ねえ」


 と掠れた声で悪態をつくしかない。

 そこへ、コンビニから出てきたハルトが再び現れた。


「おい、駄目だ。消毒液、売り切れてやがる」


 カンナに気付いて目を止め、会釈をする。カンナもまたそれに応じ、返す。


「あんた、タケルのクラスメイトか何か?ちょうどよかった、こいつん家、知ってる?」

「それより、病院に」

「いや、病院は嫌だって聞かないもんだからよ。骨は大丈夫みたいだから、仕方ない」

「でも。引きずってでも、連れていかないと」

「おい」


 タケルが、割って入った。自分のことを、自分以外の二人があれこれ決めようとしているのが嫌なのだろう。


「勝手に、決めんじゃねえ。お前にゃ関係ないって言ったろ」

「夏川くん。怪我をしてるのは、あなたなのよ。あなたに選択の権利はありません」


 ぴしゃりと叩き付けるように言うその言葉にはやはりタケルの知らぬ種類の圧力があり、思わず黙った。


「いや、選択の権利くらいはあるだろうが──」


 思わずそうこぼしたが、鞄に手を差し入れてごそごそと何かを探るカンナは聞く耳を持たない。


「腫れてるところは、ちゃんと診てもらった方がいい。血が出てるところは、とりあえず、消毒しないと」


 以前、タケルと始めて関わりを持ったときに求めた消毒液を鞄から取り出し、手当てを施すべくタケルと同じ高さに屈み込んだ。近隣の高校のそれの中でも可愛いと評判のプリーツのスカートが真っ白な脚を吐き出し、タケルの視界を掻き乱し、それから努めて眼を背けることで自らの内なる邪が湧き出してくるのを制した。

 そのまま釘で打ち付けられたように動けぬようになったタケルに、まるで化粧でも施すように容赦なく消毒液を塗り付けていく。

 鼻腔を支配するはずのその鋭い臭いよりも金木犀きんもくせいの甘苦い香りが暴れ込んできて、そのことに戸惑った。


「痛い?」


 タケルは、答えない。眉一つ動かさず、女神の思うままにされている。


「うちの弟なら、痛い痛いって叫んでるわ。夏川くん、偉いね」

「うるせーな。ガキじゃあるまいし」

「あら、これでもわたし、上級生なんですけど」


 それでもあなた、下級生なんですけど、ではなく、わたし、上級生なんですけどとカンナは言った。タケル個人の存在を指して子供であるとは言わず、タケルが子供であれ大人であれ、自分はそれの上を行っているのだという圧力である。相手のコンプレックスや不安を解消するための無意味なマウンティング行為というのはタケルの嫌うところであるが、不思議と、カンナの物言いには腹が立たなかった。


「病院は、マジでいらねえ」


 タケルが抗うことのできない、今まで彼の知らなかった種類の圧力に押し負けて病院に行くわけにはいかない。そうすれば、両親はまた騒ぎ、タケルをろくでなしであると断じ、どちらの教育が悪いとかいう不毛な言い争いになり、またメグが泣く。ここは、頑なに拒否しなければならない。

 それを、どう説明すればよいのか迷った。要らぬ要らぬでは、押し切られて病院に連行されてしまう恐れがあるのだ。

 ふと、気付いた。

 正直に、話せばよいのだと。もとより、カンナの目には自分は枕草子で揶揄されるような人間に写っていて、なおかつ今これ以上ないほど無様で暴力的な醜態を晒しているのだから、今さら、何を庇うこともあるまい。


「親が、面倒なんだ。俺が病院に行けば親は互いに争い、妹が悲しむ」

「でも、怪我が──」

「いや、怪我なんか、何日かすれば勝手に治る。だけど、妹が泣いてしまえば、それはきっと深く残る」


 だから、とカンナから眼をそらしたまま、タケルは継ぐ。


「何てことないんだ。こんな、殴られたり蹴られたりしてできたような傷なんて」


 カンナは、何も言うことができない。ただ困ったような、悲しむような顔をするのみであった。その表情を見て、タケルは自分が思った以上に正直な胸のうちを明かしてしまったことに気付き、その匙加減の難しさに舌打ちをしたい気分になった。


「しょうがねえ奴だな。おい、あんた、女の子にこんなこと頼むのもあれなんだが、こいつの家まで運ぶ。手伝ってくれ」


 ハルトの誘いに、カンナは渋々頷いて応じた。どこからどう見ても病院の夜間救急に駆け込むべきだし、なんなら救急車を呼んでもいいレベルであるが、タケルにはタケルで汲むべき事情があることも理解したらしい。

 そのまま、二人でタケルの腕を自らの肩に両側から回すようにして立たせ、ゆっくりと歩いた。

 途中、タケルのスマートフォンが鳴る。着信である。


「出ないの?お家の人かも」

「いいよ。どうせ、妹だ」

「出ろよ。心配してんだろ」

「うるせーな」


 頑なになるタケルのトラックスーツのポケットにカンナが手を差し入れ、勝手に電話に出た。


「もしもし、夏川タケルさんの携帯です」


 兄が応答せず、その声が女であったことで、メグは兄の身に何かが起きていることを察したらしい。


「兄は、どうしたんですか」


 タケルにも会話が聴こえるよう、スピーカーモードに切り替えて通話を続けた。


「ここに、います。わたしは同じ学校の、いぬいカンナです。夏川くんが怪我をしてしまったところに、偶然行き合ったもので、付き添っています」

「怪我?どうして?本人は、大丈夫なんですか」

「大丈夫だ、メグ」


 普段通りのぶっきらぼうな兄の声を聴いて少しは安心したのか、声を覆っていた緊張が和らいだ。


「帰れるの?病院行かなくて大丈夫なの?怪我って、なんで?付き添ってもらわないといけないくらい、ひどいの?」

「大丈夫」


 ハルトが、割って入った。


「俺、タケルの友達のハルトってんだけど、俺が責任持って、家まで送ります。だから、住所教えてもらっていいですか」

「──形部丘ぎょうぶおか四丁目です。住宅街で分かりづらいので、駅前のコンビニまで迎えに行きます」


 馬鹿野郎、とタケルは内心思った。責任持って家まで送る、などと言えば、普通に歩いて帰るわけにはゆかぬことが明らかになってしまうではないか。幸い、この電話越しにメグがあれやこれやとまくし立てることはなく、迎えに行く場所についての話だけをし、通話を終えることができた。


「妹さん思いなのね」


 カンナが、タケルとメグのことについて話題を向けてきた。何となく億劫で、タケルは、べつに、とだけ答えた。


「俺は妹じゃなくて姉貴だけどよ。もしかすると、うちの姉貴もあんな風に俺のことを心配してたりするのかな、何て思うと、なんか複雑だぜ」


 ハルトとはしょっちゅう顔を合わせ、しょっちゅうやり合ってきた仲であるが、どこに住んでいて何人家族で、というようなことを全く知らない。そもそも苗字も知らぬし、年齢も、たぶん十八か九ではないかというくらいで、はっきりとは知らない。なんとなく、そのようなことを思った。

 それを訊ねるほどの興味があるわけではないので、肩を借りながら無言で脚を引きずって歩いた。実際、今になってあちこちがひどく痛み出しているし、殴られた顔も熱くなりはじめている。

 病院に行った方がいい。しかし、病院に行けば、もっとひどいことになる。その意思は、変わらない。どうにかしてこの苦痛を紛らわそうという意味で、口を開いた。


「妹は、昔、いじめを受けててな。すげー頭のいい私立の中学に通ってたんだが、そのために転校もした」

「いじめが原因で?」

「いや――」


 俺が、妹をいじめていた奴らに暴力を振るったせいさ。とタケルは短く言った。苦痛を紛らわすための話題にしては、重すぎる。しかし、全身に打ち上げ花火を撃ち込まれ続けるようなこの激しい苦痛を打ち消すためには、こういう種類の苦痛をぶつけるしかないのだ。


「そのせいで、親は俺を憎むようになった。妹の未来をブッ潰した極悪人ってわけさ。親父は、まるで電車の中にたまにいる、一人で叫び声を上げている類の奴に遭遇したときみたいに、知らんぷりして、関わらないようにして、できるだけ刺激しないようにして。母親は、ことあるごとに俺を詰り、責め、俺の生きる世界を否定し、俺を否定し続けてる」


 なぜ、こんなことを。こんな、損なことを。まるで、同情を買おうとしているような。いまどんなことを言おうと、惨めになるばかりである。困難なことを抱えているのは、誰でも同じ。自分だけが特別で、自分だけが可哀想であるというような語調になってしまってはいないかと、タケルは自宅への途上、施された行為に便乗した言動を慎重に振り返った。

 

「だけど」


 言葉が、止まらない。思考の冷静さとは裏腹に、思考とは全く別の部分が、言葉を継ごうとしているのだ。それを、なぜか止めることができず、タケルは更に口を滑らせた。


「俺は、納得がいかない。じゃあ、両親は、妹があのままいじめを受け続けていた方が良かったのか、ってな。いじめを受けて惨めで、辛い毎日を過ごし、家に帰るたびに誰にも相談できずに一人で泣いたとしても、それに耐えて頭のいい私立中学に通うことが、そんなに大事なのか、ってな」

「お前は、間違ってない」


 ハルトが、静かに言った。その海兵隊頭ジャーヘッドを横目で見上げ、鼻で笑った。


「お前は、間違ってないさ。案外、優しいところがあるじゃねえか」


 うるせー、とはタケルは言わない。ただ黙って、好奇の眼で見送っているすれ違う人々を睨み付けている。


「あそこに、俺の生きるべき場所なんて、ない」

「夏川くんの、生きるべき場所――?」

「家なんて、ただ眠るだけの場所さ。俺の生きるべき場所は、地下の、安っぽい防音扉の向こう」

「ライブハウスのこと?」

「その暗いホールの隅っこで、スポットライトを浴びてる奴を見上げ、羨み、指を咥えてるしかない、負け犬ルーザーさ」

「でも」


 カンナの声が、さらに透き通った。


「そのライブハウスに通うお金は?夏川くんのお父さんやお母さんが、あなたと妹さんを養うために働いてくれているお金なんじゃないの?」


 声が透き通り、光り、言葉に変わって刺さった。親の金で親から逃げ、妹に心配をかけるような真似をしている自分がこの世で最も恥ずかしい種類の人間であることは、薄々分かっている。分かってはいるが、それを認めてしまえば、タケルはどのようにしてこの世に存在すればよいというのか。

 答えはない。カンナが、教えてくれるわけがない。当のカンナは自分の言葉がタケルの肺をえぐり、呼吸ができぬようにしてしまったことに気付き、ごめんなさい、と謝った。


「いいさ。お前の言う通りだ。我慢ならないんだろ。俺みたいな自分では何もできない甘えた奴が、偉そうなことばっかり言うのが」

「そんなこと、言ってない」

「そうかよ」


 最悪だった。カンナを攻撃して何になるというのか。タケルの全身を覆っている刃は、向ける相手すらも選べぬというのか。


「タケル。やめとけ。この子は、お前を心配して付き添ってくれてるんだぞ」

「そんなこと」


 分かっている。

 だが、夜も遅い。カンナこそ、自分になどかまわず、さっさと家に帰った方がいいのだ。何の責任感なのか、自分を家まで送るなど、はっきり言って時間の無駄だ。そう思ったが、言えばまた刃になる。


「乾さん、って言ったな。こいつん家まで送ったら、ちゃんと家の近くまで俺が送るから。形部丘だったら、けっこう遅くなっちまう」

「でも」

「ああ、だいじょうぶ。俺、明日休講だから」


 そのまま、二人で会話を続けている。タケルはその内容に興味を持つことなく、今この場で意図せず手にした己の姿の俯瞰図について苦い思いを抱き続けた。

 ふつうに歩けば、これほど時間がかかることはなかっただろう。それだけ、自分の身体は傷ついているのだ。自分の言ったことに間違いはないと、今改めて思う。身体の傷など、時間が経てば勝手に治る。だから、大げさに肩を借り、脚をひきずって歩くようなことでもないのだ。

 それよりももっと面倒なことが、今から起きるのだ。


 目障りな灯りと、見慣れたロゴマーク。

 駅前のコンビニが、視界に入る。


「お兄ちゃん!」


 待ち受けていたメグが、駆け寄ってきた。タケルは、血の味の混じった溜め息を禁じ得ない。

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