タケルは何かと最悪な思いをする

 夜、タケルはまた彼の世界にいた。ステージに立つときは教えてくれとカンナに言われたが、無論言わない。

 まさか週に何度もこの安普請のステージを踏んでいるとは思わないらしく、タケルの日常をカンナは特別なことのように考えているらしかった。

 自分ばかりが特別だと思いたがる様は、浅ましい。昼間の枕草子が、夜のタケルを尖らせた。


 ステージの上には、海兵隊頭ジャーヘッドのハルト。タケルよりも年上の大学生であるが、どこの大学なのかは知らない。

 それが、また鮮やかにライムを決めている。タケルは見るでもなく聴くでもなく、彼の世界に存在する日常の要素としてそれをぼんやりと捉えながら、ジンジャーエールの炭酸に舌を躍らせている。


「少しは踏めよステップ、でっぷり肥満体型どうにかしろよデブ、お前が握った片道切符、スキップしろ勝者への道」


 明らかに歓声が多い。またハルトの勝ちである。技術もそうだが、ビートに乗っかるグルーヴとパフォーマンスで観客を煽るのが上手い。ときに聴衆の方を向いて腕を高らかに上げ、ときに問いかけるように小首を傾げるたび、客席は沸き立った。

 媚びていやがる。タケルは、そう思っていた。自分のラップがウケるよう、観客のご機嫌取りをして何になるのだと。

 ハルトは歓声がようやく鳴り止んだフロアを見渡し、自らが浴びるスポットライトを手で遮り、そっと相手を探す。そして影にひそむようにして壁にもたれかかるタケルを目に止め、手招きをした。

 タケルは黙ってまた首を横に振り、防音扉を開けた。


「タケルくん」

 バーカウンター越しに、ミサキが呼び止めてきた。

「さっき、言いそびれた」

「なにを」

「すごい怖い顔して飲み物受け取って、すぐ行っちゃうから」

「だから、なにを」


 フロアからわずかに漏れるシーケンスが、土曜の朝に見る夢のようにバースペースを揺らしている。それに眼をやりながら、露骨に面倒臭そうな顔をした。


「こないだ、あの大学生から、助けてくれて」

「ああ、そんなことか」

「絡まれて、すっごくウザかった」

「ああ、そう」


 それだけ言って、立ち去ろうとした。まだ脛にできた打ち身は痛む。なんのためにこの痛みがあるのかと思うと馬鹿馬鹿しくなり、べつにミサキを助けようと思ってしたことでもないから、タケルにしてみればこの会話を続ける意味がない。


「ねえ」


 そのタケルをなおも呼び止めるミサキが、言葉を継ごうとした。それにタケルは一瞥をくれてやるのみで、さっさと立ち去ってしまった。


 路地裏の世界。

 薄汚れた看板がぼんやりと光る飲み屋から、足元のおぼつかないサラリーマン。煙草を咥えて火を点け、煙を夏の夜に流している。ライブハウスの壁に依りかかるタケルの存在など無いのと同じで、日常の苦悶から逃れることのみに専心しているのだろう。

 タケルは、それを見ても、何も思わない。彼と同じ世界に生きる者の中には、大人のそういう姿を見て、ああはなりたくない、などと口にする者もいるが、タケルには全く関わりのない世界の人間のことであるから、そもそもなりたいもなりたくないも無い。

 しばらく同じ姿勢で、サラリーマンの流す煙をなんとなく眼で追った。そのサラリーマンが何本目かの煙草を足元に捨て、立ち去ったとき、タケルもまた歩きはじめた。まだ火の灯るそれを、踏み消して。


「あれ」


 前方から、声。伏せていた眼を、上げた。


「お前、この間は、よくも――」


 例の、ミサキに絡んでいた大学生である。名は忘れた。仲間を連れている。意趣返しというわけではなさそうだが、ここで会ったが百年目、というような顔をしながら、不敵に笑っている。


「面倒くせえな。誰彼構わず絡むんじゃねえよ」

「クソガキの分際で、でかい口ききやがって」


 どうやら、またやり合わなければならないらしい。タケルは溜め息をひとつつき、それでもって垂れたツイストパーマの前髪を吹き上げた。

 仲間は、五人。やってやれないことはないが、この大学生には、格闘技の心得があった。仲間もそうだとすれば、たちが悪い。

 意味のないことをするのが、面倒だった。それならば、なぜあのときミサキに絡んでいるこの大学生を蹴り倒したのか。そういう矛盾ばかりが散乱し、ほんとうに見なければならぬものに手を伸ばす算段を狂わせる。

 べつだん、喧嘩が好きなわけでもない。しかし、絶えぬ罵声を浴びせられれば、だんだん腹も立ってくる。打ちのめすのは、簡単。しかし、その度ごとに無意味なことをしていると落胆するのもまた目に見えている。


 一人が、打ちかかってきた。

 暗澹たる気分で、それをいなす。


「危ねえな」


 交差させた腕ごしに、睨み付けた。どちらかといえば小柄で線の細いタケルを舐めてかかっていたのか、打ちかかった仲間は一瞬、たじろいだ顔をした。

 絡めた腕を解き放ちながら、渾身の力で回転を加えた肘をこめかみに見舞う。一瞬にして白目を剥いて脱力し、それは崩れ落ちた。


「次、どいつだ」

「どいつだ、なんて呑気なこと言ってんじゃねえ」


 一斉にかかってきた。幸いにも左右の狭い路地だから、残った連中を一度に相手するようなことにはならない。騒ぎに気付いた通行人が悲鳴を上げ、店からは何事かと人が顔を覗かせる。

 一人のみぞおちに膝を入れ、下がった頭を肘で殴り下ろす。

 振り切ったところに突っ込んでくる一人と、眼を合わせる。

 ぱっと踏み込み、腿に足をかけてそのまま躍り上がり、髪を掴んで鼻柱に飛び膝。

 次。

 そう思って視線をやったところから蹴りが飛んできて、横腹に入った。一瞬、呼吸が止まる。さらに前から顔面に拳を入れられ、ぐらついたところにまた腹。


「叩きのめせ!」


 あの大学生が嬉しそうに声を上げる。それを捉えようにも、視界の天地が逆転してしまっている。

 やられる。生まれてはじめて、負ける。いや、喧嘩での勝ち負けなど、どうでもいい。自らが生きるべき場所と思い定めた場所において、はじめから勝ったことなどないのだから。負ける。その虚しい日常。それでも、懸ける。タケルは、それ以外に己が己であることを知る術を知らぬ。鼓膜が裂けるような音。横面に拳を入れられたらしい。昏倒しまいと足を踏ん張り、目眩めまいなどないと身体に言い聞かせ、ブラックアウトから自らを遠ざける。

 回答。それは、ここにはない。あのステージの上でしか、得られぬもの。何も失うものなどないが、得たものもまだない。灰と散れば再度燃える道もあろうが、快刀乱麻を断つように求めるものが見えることはない。毎度毎度、苛つくばかり。そうではないと、慰める者もない。ただ暴れるしかないこの暗い夜ブラックナイトに、吠える声すらかき消えて。


「斉藤?」


 聞き覚えのある声が、覚醒をもたらした。酒など飲んだこともないが、きっと酩酊すればこんな調子なんだろうと笑いたくなるような膝で、辛うじて身体を支える。

 動作を止めたタケルを苛む者どもに注意を払いつつ振り返ると、海兵隊頭ジャーヘッドのハルトが立っていた。


「何やってんだよ、お前」

「ハルト」


 どうやら、この間コウと名乗っていた――タケルは自らの記憶容量の節約のため忘れ去っているが――この大学生の姓を呼んだものらしい。


「知り合い、かよ」


 口の中が切れているらしく、鉄の味の液体を吐き出しながら、掠れた声で弱々しく言った。


「大学で、同じゼミの奴だよ」

「ゼミだかセミだか知らねーけど、マジ迷惑なんだけどコイツ」


 悪態をつきながら、万事休すとタケルは思った。前方にひしめく者に合わせ、背後にまでタケルのが現れたのだ。


「なんだよ、ハルト。邪魔すんなよ」

「いやいや、こいつはこう見えて、可愛いワンちゃんでな」


 負け犬。ハルトの眼が、そう言って笑った。しかしタケルにはそれを殴り倒すような気力と体力はない。

 ――せいぜい、笑ってろ。このまま俺をぶちのめして、死体に唾でも吐きかけて行きやがれ。

 そう言おうとしたが、ぐらぐらと揺れる夜の中では言葉にあらわすことは叶わなかった。


「だからよ、斉藤」


 ポケットに手を入れたまま進み出てきたハルトが、タケルを軽く突き飛ばした。タケルはそのままよろめき、ゴミ箱のポリバケツに突っ込んだ。

 ――俺には、お似合いだ。

 そう自嘲しながら、歪んだ視界で状況を捉える。この体勢なら、浴びせ蹴りなどを食らえば、ほんとうにまずい。どうにかそれを避けないと、と思った瞬間、ハルトの身体が宙に舞った。

 やられた。その確信があった。しかしそのハルトから放たれた長い脚は大学生の一人の脳天を撃ち抜き、昏倒させた。一瞬、何が起きたのか分からなかったが、紛れもなく、ハルトはそれをしたのだ。


「あんまり、いじめてやらねえでくれるか」


 ほざけ。心の中で、苦笑した。何様のつもりだ、とも。しかし、ひび割れたアスファルトの上でポリバケツと仲良く転がるしかない身体では、どうしようもない。

 ハルトはさらにもう一人を殴り倒し、別の一人の腹を蹴って蹲らせ、サッカーボールのように眉間を蹴り上げて打ち倒した。

 残ったのは、コウ一人。


「ハルト。てめえ」

「こいつが歌えなくなったら、どうしてくれんだ。ステージの上でこてんぱんにする楽しみが、なくなるじゃねえか」

「明日から、学校歩けなくなるぞ。分かってんのか」


 コウが何を後ろ盾にしているのか、言葉で脅し始めた。タケルは、知っている。こうなると、その相手は途端に弱くなる。無言で距離を詰め、有無を言わさず殴りかかってきたりする相手の方がよほどやり辛い。


「おう、おう。そりゃ、怖いな」


 ハルトも相手にしていないのか、からからと笑った。その笑いはすぐに乾いて消え、代わりに握り拳になった。


「――どけよ」


 振り上げたそれを、掴むもの。

 タケルである。全身のあちこちに細かく指示を下し、立ち上がっていた。赤く腫れた目元で、コウを睨み付けている。


「鼻血まみれで、何やってんだ」


 ハルトが揶揄するように笑うが、タケルは至って真剣である。


「イラクにでも行ってろ、海兵隊ジャーヘッド


 ぱっとハルトの手を放し、踏み出した。膝が折れそうになるが、それでも踏み出した。めくれて小石になったアスファルトの黒が、夏のうるさい夜の黒に混じり込む。

 生物としての本能に従い、危険から生命を守るため上がった腕を捉え、そのまま捻り上げるようにしてわきを空け、そこに自らの頭を差し入れ、我が腕をコウの首に回す。


「汗くせーよ。雑誌の裏に載ってる手術受けて来い」


 背筋は軋み、おぼつかぬ膝は大声で笑う。それでも、タケルの全身はコウの身体を逆さに持ち上げた。

 そのまま倒れこみ、脳天からアスファルトに叩きつける。

 タケルの母親が何故か溜め込んでいる輪ゴムのように伸びきってしまったコウの傍らで、身を起こす。


警察ポリが来ると、面倒だ。歩けるか」

「うるせー」


 無理やりハルトに抱え起こされ、その場を後にした。

 よりにもよって、不倶戴天の敵と思い定めた相手の肩を借りるとは。こんなことなら、あのままぶちのめされて病院送りになっていた方がよかった。いや、もっと先、三途の川のほとりで渡し舟を待っている方がましであったかもしれぬ。そんなことを思いながら、タケルは痺れたようになっている身体で夜を踏んだ。すれ違う人が、恐怖と好奇の眼で見送る。

 どうでもいい。

 意味のないことしか、していないのだから。彼らが眼を留めるようなものを、何も持たぬのだから。


「ちょっと、ここで待ってろ」


 ハルトが、コンビニの前の灰皿の脇にタケルを置き去りにし、店内に入っていった。これで、消毒液なんかを買って来られれば、最悪である。あの梅雨の夜、不良に絡まれていたカンナを助けたときも、このコンビニだった。ほんとうに、最悪である。

 そして、もっと最悪なことが起きた。


「――夏川くん?」


 ぼわんぼわんと銅鑼を鳴らすようにして己の脈を主張する鼓膜に届く、女神の声。顔を上げると、カンナだった。

 最悪だ。

 よりにもよって。

 ほんとうに、あのまま殴られて頭でも打って死んでおけばよかったと思った。


「また、喧嘩?」


 そう言って眉をひそめるカンナを見て、タケルは虚空に放り出されたような気がした。

 自分のこの姿を見て、どう思ったか、想像したのだ。

 どう思われようが、関係ない。そのはずである。それなのに、なぜこんな気分にならなければならないのか。そのことも、またタケルを苛立たせた。

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