第二段 夏は夕にコンクリートのかわきたる

タケルは夏の訪れに僅かに傷付く

 天気予報では、もう今週中には梅雨明けだと言っていた。なるほど、雨は上がり、イギリスのパンクロックのような陽射しが注いでいる。早起きをすると、気付くことが多い。


「お兄ちゃん、今日も早いのね」

「悪いか」

「急に真面目になって。勉強もしてるし。もしかして、このまま東大目指す?」

「言ってろ」


 からかうメグに、タケルは興なげな返答と一瞥をくれてやり、鞄を手にした。


「嘘。入学してから、一回も使ってない鞄じゃない」

「だから、悪いかよ」

「ううん、とっても、いいこと」


 タケルは、機嫌が悪い。さいきん朝から起きて真面目に学校に行き、帰宅してからも勉強をしているということをメグから聞いたのか、母が朝からそのことを感心がり、人間、頑張れば何にでもなれるものよ。あなたももっと頑張りなさい、と声をかけてきたからだ。

 タケルは、それを無視した。嫌いでも母親だから、と怒鳴らなかっただけ賞賛されてもいいと思っている。

 ――勉強してりゃ、偉いのかよ。学校に行ってりゃ、それでいいのかよ。

 無論、社会の中で普通に生きてゆくにあたり、必要不可欠なことであることはタケルも理解している。しかし、勉強ができて真面目に学校に通っていても、ロクでもない人間はどこまでもロクでもない。

 脛がまだ痛む。数日前、ライブハウスでミサキに絡んでいたどこぞの大学生の脳天を蹴り落としたときのものだ。ああいう手合いが、一番たちが悪い。自分だけがこの世で優れていると思い込み、それゆえに何をしても、どんな振る舞いをしても許されると思っている。

 ――俺も、変わりゃしねえけどな。

 そういう連中の許せぬ行いに制裁を加える度、自嘲の念が湧いてくる。勉強もできない。学校にもロクに行っていない。自らの生きる道と思い定めたヒップホップにおいても芽が出ない。その鬱屈を、他人にぶつけることでしか平衡を保てない。

 誰のことも、笑えない。自分で、そう思っている。


 沸騰寸前のお湯のような心持ちで通学路をゆく。もう少しすれば、蝉の声がするのだろう。青っぽい木々の匂いが、さらに濃い。

 清少納言なら、この木々の色も、夏が来たことを告げる陽を跳ね返して光る雨上がりのアスファルトの匂いも文章にしてしまうのだろうか。平安貴族というのは暇であったらしく、日がな一日物思いにふけるしかなかったのかもしれない。

 打ちっ放しのコンクリートの壁を濡らしていた雨が乾きかけて、不思議な模様を描いている。それすらも、他人に伝えたいと思うのだろうか。


 昼休み、図書室で、そのことをカンナに何となく話した。


「夏川くん、凄い」

「何がさ」

「それが、あはれ、をかしっていうことよ」

「どうでもいい」


 カンナは、ほんとうに可愛い笑い方をする。街角にふと植えられている南天がころころと赤い実を付けるようなその笑い方からタケルは思わず眼を逸らし、窓の外から殴りこんでくる陽射しを睨んだ。


「ついこの前まで春で、雨が降り始めたかと思えば、もう梅雨明け。季節が過ぎて、変わったんだってことを、街に残ったアスファルトの雨の匂いやコンクリートが乾く模様で知る。素敵よ」

「うるせえな」


 なんだか、背中がこそばゆいような気がする。褒められている。今朝母親が早起きや勉強について賛同したのとは全く違う感覚である。


「夏川くん、枕草子、きっとハマるわよ」

「なんだそりゃ」

「古典の随筆って、結構トガった内容の文があったりするの。徒然草なんかも好きそう。こんど、徒然草も読んでみる?」

「いや、まだいい」

「どうして?」

「初志貫徹だ。まずは、枕草子を」

「そう、わかった」


 また、南天の実。それよりはずっと薄い色のリップを塗った唇が何かを呟き、白く長い指が枕草子のページをめくる。図書室からの借り物なのに、早くも表紙や中身は皺だらけになっている。ぱたぱたとページが薄い風を起こす度、また、金木犀きんもくせいの香りが漂った。


「あったあった」


 ページを送る指を止め、得意げににんまりと笑い、カンナがそれをタケルに示した。


「こんなことも、書いてあるのよ」

「どういう意味だよ」

「嫌な奴がひどい目に合うと、嬉しい。バチが当たるかもだけど、って」


 タケルが、思わず吹き出した。


「まじかよ。清少納言、キツいな」

「で、紫式部と仲が悪くて」

「紫式部――、聞いたことある名前だな」

「同じくらい、有名な人。その人の日記には、『清少納言は漢字なんか書いて威張ってるけれど間違いだらけだし、あんな風に自分が人より優れていると思い込みたいだけの人はロクな風に見えないし、いちいち大げさに感動したりして、面白いことはないかとあっちこっち嗅ぎ回って、嫌らしい奴で最悪』なんて書かれていたり、ね」


 タケルの表情が、わずかに動いた。それでは、まるで自分と同じではないか。多少のスキルを笠に着てみても、ステージの上では誰にも勝てない。しかし、どこかで自分は特別だ、他の奴とは違うと思っていたい部分がある。それを、人はどう見ているのかも知っているつもりである。自分の魂を燃やせるような大きなチャンスが転がっていないものかと探す姿は、さもしいものであるのかもしれない。


「それと――」


 カンナが、ページを戻る。純粋に、枕草子にもっと興味を持てるよう、タケルに分かりやすい内容の部分を紹介してやろうとしているのだろう。


「これこれ。『急いでいるときに来て、長話する奴は最悪。適当にあしらえる奴なら後にしてくれって言って追い払えるけれど、そうはいかない奴の場合はマジでヤバい』」

「なんだそれ、あるある話じゃねえか」

「そうよ。今も昔も、変わらないのよ」

「で、その続きがこれ。『何の取り柄もないような奴が、ヘラヘラしながらペチャクチャ喋ってる姿も最悪』」


 また、タケルの表情が変わった。どうしたの、とカンナが声をかけてきたが、胸のうちを打ち明けるわけにはいかない。そういうタケルの表情を汲んだか、あるいは偶然かは分からぬが、カンナの声の色が、ちょうど今日夏の訪れを知らせた気候のようにぱっと変わった。


「そうだ。夏川くん。ステージに立つとき、教えてね」

「なんで」

「だって、約束でしょう?枕草子を教える代わりに、わたしにラップを教えてくれるって」

「馬鹿。あれは――」

「観に行くから。絶対、教えてね」

「嫌だ」


 行く、嫌だの押し問答になった。知らず、二人、笑っていた。タケルがもし本能のまま生きる男であったら、この図書室でカンナとの距離をもっと詰めていたかもしれぬ。憎き煩悩に翻弄されながら混同する理想と現実の間で咲く金木犀が、辛うじてタケルを冷めさせている。

 チャイム。

 救われた、と思った。タケルには、断固として言い張りたいことがある。枕草子を手にしたのはたまたまであったとしても、それを紐解くことが、己のためになると思うから、こうして毎日図書室に来ているのだと。そして、カンナに接近することが目的なのではなく、あの夜に自らにもたらされた得体の知れぬ落雷の正体を、見定めたいだけなのだと。だから、ハルなどに混ぜ返されると、心底腹が立つのだ。

 今日もその来襲を警戒していたが、幸運なことにそれはなかった。来週からテストがあるから、自主学習でもしているのかもしれない。


 テストといえば、カンナは三年生である。テストが終わり、夏休みが来れば、文芸部も生徒会も引退する。そのあとは大学受験に向かって忙しくなるだろうから、枕草子うんぬんに関わっていられる時間は、あまりないということになる。

 雨上がりの、この季節。

 今が、勝負なのかもしれない。

 ――何の勝負なんだよ。

 自分で思っておきながら、タケルは心の中で嘲笑した。実際大したことなどないくせに自分を特別だと思いたいイタい奴が、ヘラヘラしながらペチャクチャ喋っていやがる。と思うと、己への呪詛を吐き捨てたいような気持ちである。

 べつにカンナがそう言ったのではなく、清少納言なる千年も昔の女がそう言っただけのことであるから気にする必要などないのだが、カンナは確かに言った。

 人の感じるところなど、今も昔もそう変わらぬ、と。

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