タケルは自分なりの正義を行う
「なんだか、機嫌がいいのね」
部屋を覗き込んだメグが声をかけてきた。ハルの追撃に合わぬよう、六限目はパスして帰宅し、そのまま机に向かっていた。
「べつに」
「今日も、勉強?」
「悪いか」
机の上には、枕草子。それは、これまで力の行使とリズムとグルーヴにしか生きてこなかったタケルが知った、はじめての古典である。だからどうということはない。ただ、今日カンナが読み下した序文のリズムを反芻しているうちに自然と背中が揺れていたものらしく、メグはそれを見てタケルの機嫌がいいと思ったものらしい。
枕草子を閉じ、メグの前ではあるが兄妹なので遠慮することなくズボンを脱ぎ捨て、朝から羽織っているトラックスーツと揃いのセットアップに着替える。
「また、シンデレラ?」
「日付変わる前に帰ってくる前提かよ」
「当たり前じゃない」
どうも、メグのこの調子が苦手である。不思議と、逆らえない。口では突き放すようなことを言ってみるのだが、あまり強く言いすぎて泣かしてしまっては元も子もないと思ってしまう。
ただ、面倒だとタケルは感じた。べつに、自分がどこで何をして何時に帰って来ようが、どうでもいいことではないか、と。
「お父さんとお母さんも、毎日心配してるよ」
「笑わせんな。あいつらが、俺の心配なんか」
「でも、心配はしてるの」
「勉強しろ。いい大学に行け。いいところに就職しろ。金持ちになれ。親に恥をかかせるな。あいつらの考えることなんか、結局それが全部だろ」
「お兄ちゃん」
「なんだよ、あらたまって」
メグの様子が、妙である。何がどうというわけではないが、妙だとタケルは感じた。しかしそれを突つけばまた長くなるような気がして、ドアの前のメグを押しのけるようにして退室した。
また、例のライブハウスへ。
もう夜七時を回っているが、この季節は明るい。曇りの日だと空全体がぼんやりと光るようで、なにか絵に書いた風景のようにビルとアスファルトを浮かび上がらせる。
この風景をリリックに取り入れられぬものかと思いながら、地下への階段を鳴らす。薄っぺらい防音扉の向こうに広がる自分の世界に入り、受付をパスしてカウンターの向こうのミサキからジンジャーエールのカップを受け取る。
「頑張ってね」
そう言って笑うミサキを、元
「今日は、何か言えよ」
受付から顔を覗かせる元ボディビルダーのリュウをも無視し、ホールに渦を巻くシーケンスの中へ。
ステージの上には、見知らぬ男。今夜のバトルに勝ち上がっているらしく、客席は歓声で包まれている。
ジンジャーエールを少し口に含み、ホールの隅にもたれかかる。その姿勢のまま、ステージの上の男の
ステージにまた乱入してやろうかとも思った。普通ならば
何故だろう、と考えたことがないではない。自分に特別な才能があるからか、と前向き捉えようとしてみたこともある。しかし、おそらくそれは違う。
要するに、ヒーローものや時代劇などによくあるやられ役なのだ。タケルが永遠の
「ふざけんな」
口に出して呟いてみても、重低音と歓声にかき消されて、自分の耳にすら届かない。
「どいつもこいつも、ナメやがって」
噛み締めた奥歯の鳴る音が、耳の中だけに孤独に響く。
ステージ上の新顔に対戦者は音を上げてしまい、マイクを置いた。
また、喝采と歓声。フロアを見渡す司会の店長と目が合ったが、黙って首を横に振った。
「今夜はハルトもいない。タケルは来てるが、どうやら怖気付いてしまったみたいだ」
というマイク越しの声に、フロアがどっと笑いに包まれる。
「じゃあ、かなり早い時間だが、今夜の勝者は、初出演のコウだ!」
タケルの世界の全てが、新たな勝者の誕生に沸いた。そのままホールにはDJが流す音楽がたむろし、それに合わせて客は好きに体を動かしたり、声を張り上げて談笑したり、好みの異性にアプローチをしたりしている。
同じ位置で、タケルはじっとそれを眺めていた。ジンジャーエールがカップから無くなっても、ずっと。やがて一人二人とホールを後にし、人影も少なくなってきたころ、タケルもまたスポットライトとミラーボールの反射に背を向けた。
受付とバースペースのある空間への扉を開いたとき、そこに先ほどの新たなヒーローが滑り込んできた。まるでコウとかいうその男のために開いてやったような格好になり面白くなかったが、いちいちそんなことで腹を立てたりはしない。
コウはそのままバーカウンターに両手をつき、ビールを注文した。その顔色からして、酒が少し回っているらしい。
「君、可愛いね」
「ありがとうございます」
ミサキが、お決まりのように放たれる軽口に対して苦笑を返しながらビールを差し出す。それを受け取るとき、わざとらしくミサキに手に触れた。こんな場所で働いているから慣れっこという具合のミサキは平然としているが、コウは更にミサキに絡む。
「俺、コウってんだ。今夜、優勝した。君、どこの大学?俺は小川大」
「そうなんですか。わたし、東京の大学なんです」
「へー、じゃあ通学に一時間以上もかけてるの?それで夜はバイト?偉いなあ」
「前にバイトしてたところが嫌になって辞めちゃったんですけど、実家が貧乏なんで」
「マジで。俺んち、実家が駐車場幾つもやってるから、毎月十五万は仕送りあるよ。もちろん、家賃とは別」
聞きもしない実家の自慢とは、見すぼらしいものである。見た目も身なりも悪くないからこの世の全ての女性が自分に好意を持つと思い込む典型的なタイプなのであろう。
「今度、ご飯おごってあげるよ」
「ええ、今度」
「あ、それ一生来ないタイプの今度だ」
「おごってもらうほど、困ってないから」
ミサキは、だんだんコウに対して嫌悪をもよおしているらしい。無論コウにとってはそのようなことは関心がないらしく、今夜部屋に連れ帰れるものとばかり思っているらしい。
「嘘だあ。実家貧乏で大学通って夜バイトして、困ってないなんて。風俗で働いてる?」
笑えない冗談というものが、この世にはある。ミサキが自分のその経歴についてどう思っているのかタケルの知ったことではないが、笑えない冗談というものがこの世にはある、とだけ思った。
苦笑いするしかないミサキ。それを自分への好意ある笑みと勘違いするコウ。さらに、強引にミサキを誘い始めた。
「あの。仕事中なんで、そろそろ」
体よく切り上げてバックヤードに入ろうとしたミサキの手を乱暴に捉えた。しかし、それは素早く振りほどかれた。
「なんだよ、お前」
「空気読めよ、昭和のスター」
ミサキが、思わず吹き出した。なるほど、コウは顔立ちは整っているがどこか大味で、昭和の頃に流行ったタイプの俳優顔である。
「チビが。クソガキのくせに、こんなとこ出入りしてんじゃねえ」
「俺より先に生まれたから、俺より偉いってか」
「年上は敬えって、幼稚園で教わらなかったか」
「教わった。で、敬う奴は自分で選ぶことを学んだ」
「口の減らねえガキだな。どこの中学生だよ」
コウに酒が入っていなければ、こんなにも喧嘩腰にはならなかったかもしれない。ただただ、不運であろう。
「タケルくん、お店の中」
「分かってる」
店の中で暴れるわけにはいかない。以前にホールで喧嘩になったことがあり、店長から次騒ぎを起こしたら出禁にすると言われているのだ。
だから、コウに選ばせてやった。
「外、出る?」
「やる気か。チビのくせに」
誰と、どう過ごすか。それを選ぶ。今日、あの女神はそう言った。
このとき、タケルは選んだ。べつにミサキに何の興味もないしフェミニストでもないが、コウの行いを見逃すわけにはいかぬと思い定めた。
社会的に見てタケルは明らかに不良であるが、コウを許さぬというような類の心はある。
薄っぺらい鉄板の階段をゆっくりと上がり、路地裏の暗がりへ。
ひとつだけ灯っている街灯が明滅しているが、ドラマチックでもなんでもない、ただの汚いいつもの路地だった。
「来いよ」
空手の型をコウが取った。格闘技を習っていたことがあり、それが自信になっているのだろう。鋭い気合と共に、距離を測るようにして前蹴りを放ってきたが、三分の一歩ほどスリップしたタケルの前の空間を切ったにすぎない。
「野郎」
踏み出して腰をひねり、正拳を繰り出してくる。的として顔面を見据えていたはずの目線が、タケルの背負っていた街灯を見上げた。
両足は地から離れ、高く。身体は、ほとんど水平に。後ろ足が激しく旋回し、身体の落下と共にコウのこめかみを捉えた。
誰に教わったわけでもない、路地裏で鍛えた一撃必殺の蹴り落としを食らって昏倒したコウに相対する位置に着地。
誰にも褒められぬ、正義でもなんでもない行い。それで相手を物理的に黙らせたとしても、募るのは虚しさのみ。
タケルが自分の世界と思い定めた場所で勝ち上がらねば、意味がないのだ。この路地裏でいかに無敗であろうと、拳や膝や踵や脛に相手を倒したぶんだけ青痣が増えるだけである。
それを、タケルは知っている。知っているから、虚しくなる。
――くだらねえ。
と呟きもせぬ。そのまま大通りに出て、徒歩で自宅を目指す。途中、スマートフォンを光らせて、
「帰る」
とメグに連絡をした。
コンビニの前で、立ち止まった。青白い光が、目を刺す。
不良に絡まれるカンナを助けた、あのコンビニである。
なんとなく、またカンナが通るような気がして、そのままそこでしばらく待ってみた。
待ったところで、通り過ぎるのは疲れたサラリーマンや原付の不良ばかりであった。
スマートフォンが、鳴る。
「気をつけてね」
メグが自分に似ていると笑った、熊のキャラクターのスタンプと共にメッセージが表示された。それに返信はせずポケットにねじ込み、また歩き出した。
途中、雨が降りだした。梅雨の終わりだから、よく降る。アスファルトが濡れた匂いにペトリコールという妙な名が付いていることをテレビか何かで紹介していたことを、意味もなく思い出した。
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