女神は図書室で待つ
タケルは、チャイムを聴きながらエイトビートを裏で取るようなリズムで廊下を鳴らす。その要たる薄汚れた白のスニーカーから伸びる制服のズボンにTシャツを着、三本ラインのトラックスーツを袖まくりしながら、ツイストパーマを揺らして。
誰もが、それを見送った。タケルはそれを常々、冷ややかな視線であると感じていた。同じ学校の生徒だけではない。教師。道行く人。ライブハウスに入り浸る者。そして両親。誰もが、同じ眼でタケルを見た。
そのチャイムが鳴り止んだあとしばらくしてから、タケルは迷路じみた廊下の先の図書室へ。
「あ」
と五十音の始原の音と共に彼を迎えたのは、女神。カンナという名はタケルがいかに馬鹿と人に陰口されようが、忘れようもない。脳の皺のひとつの奥深くに刻まれたその名を口にしようとするが、陸に上がった鯉のように口をぱくぱくと動かすのみで発音には至らない。
「おう」
お互い、母音でしか会話をしていない。ヒップホップに魅せられているだけあり、タケルはそういうことには意識が向くらしい。
「来たんだ、夏川くん」
タケルは、もう困惑している。昨日は丁寧すぎるほどの敬語で話していたカンナが、少し砕けた様子になっているのだ。笑い方も自然で、長年の知り合いのような空気を醸している。
来たんだ、という言葉の意味を脳内で翻訳しながら、握りしめた枕草子をずいと差し出した。
「ほんとに勉強するのね。待ってた甲斐があった」
待ってた。その言葉が頭の中で念仏のように繰り返し巡り、タケルの脳から現実をすり減らし
「じゃあ、どこから?」
タケルの意識が、現世に戻ってきた。カンナが立ち上がったのだ。立ち上がって近付いて、差し出されたままの枕草子をするりと抜き取り、少し笑った。そのまま振り返り、タケルの分も椅子を引き、もといた席に戻った。戻ったはずなのに、いつまでも長く綺麗な髪の匂いがそこに残った。
窓の外からは緑の匂いが流れているのに、タケルの鼻腔には秋の香りで満ちている。
「――
思わず、口に出していた。カンナは一瞬きょとんとしたが、すぐ自分の髪に手をやり、顔を真っ赤にした。
「美容院でお勧めされたの。ごめん、匂い強かった?」
「あ、いや」
タケルはツイストパーマを揺らし、否定した。たいして親しくもない女性に、匂いの話題を向けるのがマナー違反というかデリカシーが問われることであることくらいは分かるから、己の浅はかさを恥じた。とにかく、取り繕わなくては。そのことに、まず専心すべきである。べつに関係を前進させようなどと思ってもいない。ただ満身を耳にし、目にし、自らに走った電流の正体を見定めたいだけなのだ。
「こんな時期に秋の匂いがするなんて、得した気分だ」
馬鹿、と己を罵り倒したい衝動に駆られた。自分のどこをどうつつけば、このようにまずい言い訳が出てくるのか、と情けなくなった。
「夏川くんは、秋が好き?」
「いや、べつに」
会話が、途切れた。その隙に逃げ出したくなったが、タケルの向かうべき先はドアではなく、カンナが引いてくれた椅子なのだ。そしてタケルの方に向けられた枕草子なる不可解な怪文書の中なのだ。そこから眼を背けるわけにはゆかぬから、意を決して女神と向かい合う形で腰を降ろした。
「枕草子のはじめも、季節のことからよね」
「そう、かな」
カンナは、タケルがほんとうに枕草子のことを全く何も知らぬとは思ってもいないらしい。中学で既に序文のくだりは習っているはずであるが、それにも関わらずその内容を理解していない人間がこの世にいるということを知らぬものらしい。
「それで、どこからにする?」
ぱらぱらとページをめくる度に巻き起こる微かな風がいちいち金木犀の香りを混ぜ返し、タケルにはその薄紙がさながら凶器のように思えた。
「そりゃ、最初からだろうが」
なぜか威張るようにタケルは言い放ち、教えを請うとは思えぬような姿勢を取った。胸を反らせて椅子に深く腰かけて腕を組んでいるが、さすがに足を机の上に乗せたりはしない。
「最初から?いいけど――」
「いいから、どういう意味なのか教えてくれ」
「わかった」
金木犀という凶器を振り回す女神が、身を乗り出した。
「春は、あけぼの」
聞き覚えのあるフレーズである。そのまま、女神は原文を読み進めた。
「ねえ、見て」
本から視線をタケルに移し、原文をちゃんと読むように促した。しかし、それをすると顔と顔が近付いてしまうことになるから、タケルとしては何としても避けたいところである。
「どういう意味なのか、言ってくれ」
「仕方ないなあ」
カンナは何がおかしいのかくすくすと笑い、自分なりの現代語訳を言いはじめた。
「春は、夜明け。少しずつ白くなっていく山の線がちょっと明るくなって、紫がかった雲が薄く伸びているのが良い。夏は、夜。満月はもちろん、新月でも蛍があちこちに飛ぶ。多くなくても、一匹や二匹がそっと飛ぶのもまたいい。雨が降っても、いい。秋は――」
カンナの言葉が、洪水のようにタケルの中に流れ込んでくる。いにしえの人が何を見、何を感じたかなど考えたこともなかったしそこに興味を向けたこともなかったが、清少納言なる人物が見た世界をそのまま述懐したこの文章は、意外と悪くない、と思った。だが、
「なんだか、夏休みの絵日記か感想文みてえだな」
という風にも思え、それをつい言葉に表してしまった。まずいことを言ったか、と一瞬肝が冷えたが、カンナはにっこりと笑い、
「そうよ。随筆って、そういうもの。他にも有名な徒然草なんかも、感じたままをそのまま書くっていうスタイルで、それがすごく良いの」
「感受性が鋭い連中だったんだな」
「感受性――、うん、そうね、すごく的を射てる」
会話が成立した。わずか数秒前まで、この場に漂う異様な緊張感に押し潰されそうになり、誰か見知らぬ
その瞬間。
僅かに出現のタイミングをずらした闖入者が、実際に現れた。今となってはそれは迷惑でしかなく、ましてやその闖入者がミルクティー色のパーマ頭をした小うるさいハルであったから、タケルは逃げ場のない戦場で敵に取り囲まれた兵士の気持ちを知ることになった。
「あ、やっぱりいた、タケル」
無神経かつ無遠慮な声量が、この不思議な時間を吹き飛ばす。タケルが放った舌打ちをものともせず、ずかずかと歩み寄る。
「カンナ先輩、ごめんなさい。貴重な休み時間に、馬鹿のタケルの相手なんかさせちゃって」
「わたしは、べつに」
「あはは、気を使わなくっていいんです。こいつ馬鹿だから、迷惑ってハッキリ言ってやらないと」
「北村ハルさん」
「は?」
「ほんとうに、迷惑だなんて」
ハルの顔が、笑ったまま凍った。そこを、緑の風が通り過ぎていった。タケルの鼻に届いたのは、金木犀の香りではなく、シャネルだったかディオールだったか、ハルがデパートで親に買ってもらったとかいう高級な香水の臭いだった。
「おい」
「なによ、馬鹿」
「邪魔すんな」
「あんた、本気?本気で、カンナ先輩と――」
さすがに、その先を当人を前にして口にするのは憚られるのか、ハルはピンクのリップで飾った唇を噛んだ。その隙に、タケルは攻勢に出た。
「勘違いすんな。俺は、枕草子をこいつに教わってる」
「なんで、あんたが枕草子なんか」
「ラップのためだ」
「は?ラップ?」
「古典のグルーヴを、ラップに取り入れる。そのためには、詳しい奴に教えてもらうのがちょうどいい」
「マジで、何言ってんの」
「お前が分かる必要なんかない。消えろ」
ハルは、じりじりとローファーを鳴らすのみで言い返せないらしい。
「それにな、タダで教えてもらえるほどムシのいい話じゃねえ」
「どういうことよ」
「教わる代わりに、俺はこいつにラップを教えてやるんだ」
「はあ?」
「授業料だよ。等価交換」
「カンナ先輩が、ラップ?」
真偽を確かめるように、ハルがカンナを見た。カンナは少し考えるような素振りを見せたが、やがて透き通ったような笑顔を浮かべ、頷いた。
「音楽には、すごく興味があります。夏川くんがライブハウスで歌っていると聴いて、ぜひ教えてほしいと頼んでいたところなんです」
これで、決まった。ノックアウトを告げるゴングが鳴り、レフェリーがリング上で両手を激しく振る。ブラックアウトを迎えたようによろめいたハルが、後ずさる。
「へ、変なの――。カンナ先輩、あんまりコイツに関わると、ロクなことになりませんよ」
捨て台詞を残し、立ち去ろうとした。そこに、更にカンナの声がかかった。
「それは、大丈夫。ハルさんは、夏川くんと仲がいいんでしょう?あなたはとっても素敵で元気で人気者だから、夏川くんと関わるとロクなことにならない、というのは間違いだと自分で証明していますよ」
タケルは指笛を吹き鳴らしたいような衝動に駆られたが、それを実際にするわけにはゆかぬし、指笛の吹き方も知らぬ。とにかく、大人しそうに見えて、なかなかやる。昨日感じた、火を近付けただけで燃えるガソリンのような印象が、また垣間見えた。
絶句するハルを救うように、二度目のゴングの代わりにチャイムが鳴った。
「も、戻らなきゃ。アンタも、遅れるんじゃないわよ」
「分かってる」
制服のズボンのポケットに手を入れ、口の端を歪めて笑った。ざまあみろ、という思いが強い。
ハルが駆け足で立ち去ったあと、カンナは枕草子をそっと閉じ、タケルに手渡しながら、困ったように笑った。
「ごめんなさい。夏川くんのお友達に、変なことを」
「べつに。あいつ、うるせーし苦手だから」
「変な誤解をしたのかも」
「かもな」
わずかな沈黙のあと、いきなりカンナが吹き出した。
「わたしが、ラップ」
「悪かった。あいつが妙な勘違いをしてるみてーだから、つい。あんたの名誉のためだ、許せ」
自分と関わり合いになって、ロクなことにならぬ。それは、当たっている。もし自分と仲良くしていると他の生徒に知られたら、カンナが苦心して築き上げてきたであろう生徒会長としての人気も全校生徒からの憧れも、粉々に破砕されてしまうかもしれぬのだ。だから、カンナの名誉を守る義務がある。タケルはそう思っていた。
「それじゃ、夏川くんと一緒にいることが、悪いことみたいじゃない」
「皆、そう思うさ」
「わたしは、思わない」
「は?」
ぱたぱたと立つ靴音はシックスティーン。ドアに向かってそれを奏で、振り返る。
「わたしだって、選んでる。時間の過ごし方も、誰といるかも」
べつに深い意味はないだろう。ただ、カンナというのはタケルが思うよりも我が強いことは間違いないだろう。おしとやかで虫も殺せぬお嬢様、というような幻想を勝手に抱いていたが、それは改めなければならぬらしい。
「枕草子、予想しても分からず、その意味を知りたいなら必要なのは奉仕、こうしてタケルはラップを教えることになりましたとさ」
リズムもグルーヴもあったものではないがライムまがいのことを言い、ぱちりとウインクをし、駆け去っていった。
「――まじかよ」
まじかよ。何が、まじかよなのか。自分でも分からぬが、タケルはとにかく何かに圧倒されていて、むしろもっと遠くまで押し流されたいような心持ちになっていた。
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