君のためにできること
@nozominokoe
第1話
病室に足を踏み入れると、窓からさしこむ柔らかい光が僕を包み込んだ。
最近できたばかりの新しい病院なので、設備のすべてが新しく清潔な印象だった。リノリウムの床は綺麗に磨かれていて、足音がよく響く。
ベッドが六つ置かれていたが、部屋はしんとしていて、空気清浄機の音がやけに大きく聞こえる。見覚えのある茶色い頭が、一番奥の窓際のベッドで上半身を起こし、外の景色を眺めていた。
「春日さん」
声をかけると彼女の肩がびくっと揺れた。振り返った春日さんは見舞いに来たのが僕だということに驚いたのだろう、何度も瞬きをした。
「岡野くん? なんで?」
「なんでって、お見舞い。これ、桜庵のどら焼き」
「あ、これ栗が入ってるやつ。私好きなの」
「あと、授業のノート。佐々木さんから預かってきた。レポートさえ出せば単位出るってさ」
桜色の紙袋と大学ノートを手渡すと、春日さんは笑顔でありがとう、と言った。笑うと困っているみたいな顔になる。ふわふわの茶髪ボブに日焼けの跡がない真っ白な肌、大学に入学してすぐ、サークルの新歓で初めて彼女を見たとき、トイプードルにちょっと似ていると思った。
「レポートかあ。友梨ちゃんのノート丸写しでもいいかな」
「字数さえ埋めればいいんじゃない。授業出てないんだから教授も内容は期待してないだろうし」
「うーん。まあ、頑張る」
「そう」
会話が途切れた。
春日さんは笑っているのか困っているのか微妙な表情で僕のほうを見ていた。彼女の戸惑いが伝わってくる。
「……えーっと、岡野くんはなんで来てくれたの? あ、違うよ。来てくれて嬉しいんだけど、びっくりして」
僕と春日さんは、同じサークルに所属している。どこの大学にでも一つはあるようなボランティアサークル——月一回のボランティア活動に年一回のカンボジア合宿、定例の部会が週一回あるが、不参加でも何も言われないので集まりは悪い——それが僕らの唯一の接点で、割と熱心な春日さんと比べて、僕は二・三回に一回参加すれば良いほう、という具合なので、大学での僕らにはいたって薄い繋がりしかない。すれ違ったら挨拶をするくらいだ。
春日さんが入院した、と聞いたときは驚いた。いつも笑顔で率先して雑用を引き受け、サークルの仲間からの信頼も厚い彼女の突然の体調不良。身体が弱いという話は聞いたことがなかった。
だが、活動的な人のほうがある日突然体調を崩してしまうものなのかもしれない。すぐに退院するだろうと思っていたのに気付けば三か月が過ぎていた。
岡野もお見舞い行ってこいよ、と周囲に言われても、特に親しくもないし、わざわざ行くのはどうなんだろうと思い言葉を濁していたが、昨日図書館で偶然佐々木さんに会ったとき、ノートを押し付けられた。
「もうすぐ期末でしょ。麻里奈も困ってると思うから、お願い。岡野くんのバイト先、病院の目の前だし」
佐々木さんの勢いに押され、断る余地がなかったので大人しくここまでやって来たのだった。
という話をそのまましたら春日さんはぷっと吹き出した。
「なにそれ。無理やり来させられたみたい。友梨ちゃんに言われなかったら来る気なかったってことでしょ」
「まあそうかな」
「えー。普通もうちょっと嘘でも心配だったって言うもんじゃない? 岡野くんらしいからいいけど」
「心配はしてたけど、僕の出る幕じゃないかなと思ってただけだよ」
「ほんとー? すぐそこのコンビニで働いてるんでしょ」
ふっと春日さんの目が窓の外に注がれた。僕がいつも勤務しているコンビニが窓から見える。
「そこの青い看板だよね。岡野くんのバイト先」
「うん、そう」
「夜勤とかもするの?」
「え? ああ、まあ、時給上がるし」
「私、たまにここの窓から見てるよ。なんかさ、眠れなくなったとき、ちょっと窓の外をのぞいてみるの。そしたらコンビニの看板がすごく明るくて、岡野くん、あそこで働いてるのかなーって考える」
「……暇なの?」
「することないんだもん。病院ってWi-Fiないし」
「本でも読めば?」
「本かあ。普段全然読まないから持ってないんだよね」
「僕の本、貸そうか」
「えっいいの?」
食い気味に言われ、驚きつつ頷く。
僕は読みたい本は自分で探して買うので、他人のおすすめを読むのは大抵気が進まないのだが、春日さんは違うらしい。
「読書家だもんね岡野くん。いつも文庫本持ち歩いてるし。わー楽しみだな」
「……どんなのが読みたい?」
「え、わかんない。岡野くんの好きなやつでいいよ」
「それが一番選びにくい。なんか好きな系統とかないの」
「じゃあ、読みやすいやつ」
春日さんはまた笑った。よく笑う女の子だ。僕は露骨にならないように目をそらす。
「わかった。持ってくる」
じゃあ約束ね、と言われたのでまたここに来ることになった。その後も途切れ途切れに話をしているうちに外は薄暗くなっていった。道を挟んで向かい側に建つコンビニの青い光はこの窓からよく見えた。春日さんとの距離が少し縮まったような気がした。
「意外。ベストセラーとか読むんだ」
できるだけ読みやすい文庫本を三冊、本棚から引っ張り出してきた。家を出る前に、本棚の前で三十分は悩み、選んだものだ。相手の要望を聞いて適切な本を選ぶのは案外難しい。自分は好きでも人には勧められない趣味の本も多いし、「何を選ぶか」で春日さんから評価を受けると思えば手を抜けない。
「とっつきやすいほうがいいかなと」
僕が選んだのは、映画原作になっている小説、本屋で平積みになっている人気のエッセイ、今人気のどんでん返しミステリーの三冊だ。
「哲学書とか読んでるのかと思ってた。いつも難しい顔で読書してるから」
昼ごはんを食べたあとや、その他休憩時間はいつも本を読むことにしている。
「そういうのも読むよ。でも、春日さんに貸す本だから」
「気を使ってくれたの? ありがと。難しいの貸してもらっても読みきれないかもだしね。これ、読んでみる」
そう言うと春日さんはもう一つ僕が持ってきたビニール袋を手にとって、中身を取り出した。
「それ、ほんとに食べるの?」
つい聞いてしまった。
廃棄になる直前のコンビニスイーツをこっそり拝借したものだ。僕が持って帰って食べようと思っていた。
体調が悪い人に食べさせるものではない。
「賞味期限切れてないし、大丈夫でしょ。私甘いもの好きなんだ」
「……僕、バームクーヘン」
「はいはい。どうぞ」
春日さんはバームクーヘンを僕に、自分は形が崩れたモンブランを取り出した。スプーンがなかった、と思ったら彼女はそのままモンブランに齧りついた。口の周りにクリームがたっぷりついたのを、幸せそうに舌で舐めとる。
「あーしあわせ。生きててよかったあ」
「大げさな。……クリームまだついてる」
え、どこ? と聞かれたので、指で示してティシュを渡した。じっと顔を見ているのは気まずくて、視線がさまよいがちになる。
「それがね、大げさでもないかもしれないっていうか」
「え?」
春日さんは笑顔のままだった。
「私、あと数年しか生きられないかもしれないんだって。だから、今のうちに美味しいもの食べておきたいなあ」
あまりにも平然と話しているので、はじめ彼女の言葉の意味を理解できなかった。言葉が僕の中に染み込んでいって、意味がわかったとき目の前が暗く霞んでいくような気がした。
「……それは、僕が聞いてもいいことなの」
やっと絞り出した声はかすれてしまった。
「岡野くんって、いつも冷静沈着って感じだし……ほら、友梨ちゃんとかに言ったら泣き出しちゃいそうでしょ? それは私も辛いから。でも誰かに聞いてほしかったんだよね」
「そんなこと言われても……」
「貧乏くじ引いたね、岡野くん」
いっそ清々しいほどの笑顔で言われ、僕は混乱した。春日さんの入院は確かに長引いていたけれど、こうして見舞いに来てみれば、普段どおり元気な様子だったのでどこかで安心していた。冷静に考えてみれば、三ヶ月の入院は長い。どこか決定的に悪くしている、というのは十分あり得る話だ。
「私ね、実は死ぬのはべつに良いかなって思うの。遅かれ早かれ人はみんな死ぬわけで、ちょっと早すぎるかなって気はするけど、それだけ。でも……痛いのとか苦しいのは嫌だなあ。いつのまにか死にたいなーって思う」
「いつのまにか」
「そう、夜眠ったらそのまま目覚めなければいいのに」
春日さんは目を閉じた。彼女のまぶたの裏にはなにが映っているのだろう。べつに良いかな、と彼女は言った。余命の告知を受けて、いったいどんな風に気持ちを整理していったのか。なぜなにもかも諦めたみたいに笑うのか。
「ね、死んだあとってどんな感じかな」
縁起でもない、とは言えなかった。春日さんは真剣な表情答えを求めている気がした。
「……知らないけど、生まれる前みたいな感じじゃない? なんにもなくなる」
「だったら良いけど、永遠に続く苦しみとかだったらどうしよう。それこそ小説に出てくる地獄みたいな。そうかもしれないって考えない?」
「でも、その逆かもしれない。ユートピアは死後の世界にあるのかも」
僕は春日さんが泣き出すんじゃないかと思った。声の調子は少しも変わらないけれど、彼女はきっとこの病室で一人、迫りくる死についてひたすら思いを巡らせて、考えてもどうしようもないことを思い詰めるまで考えてきたに違いなかった。僕は言葉を絞り出す。
「最新の医療技術なら痛みとか苦しみは最低限度にできるんじゃないか。モルヒネとか、そういうの使って」
「そうだね。そうかも」
そう言いながら、春日さんはまだ何か考えている様子だった。
それから急に両手を上げて伸びをして、まっすぐ僕を見た。
「——ごめんね。変な話して」
なんと答えて良いやらわからなかった。それから、春日さんは思い出したようにこのあいだ僕が持ってきたどら焼きのおいしさについて語ったり、サークルの仲間の様子を尋ねたりしてきたが、僕は上の空で相づちを打っていた。
そろそろ帰ろうか、となったとき春日さんは不安そうな表情で「また来てくれる?」と言った。僕は頷いた。
きっと、春日さんは寂しいのだろうと思う。僕が病室を訪ねることが、彼女の慰めになるのだったら、断る理由はない。
僕は昼勤を終えたあとは春日さんのところへ行くことにした。何度も訪ねるうちに「彼氏さん?」と看護師に聞かれたりした。否定するのも面倒なので黙っていた。
僕はいつも本を持って行った。春日さんは何を貸してもちゃんと読んで感想を伝えてくれた。普段読書はしないと言っていたわりに、読んでみたら面白さに気付いたようで、シリーズものを貸したら「続き全部持ってきて!」と急かされた。
あれ以来、死についての話はしていない。
僕は正直ホッとしていた。いつもの笑顔を崩さないまま自分の死について話す彼女をどんな風に受け止めたらいいかわからなかったからだ。
その日も、いつものようにバイトを終え、廃棄のスイーツをカバンに詰めて病院へ向かった。だが、受付で止められた。
「春日麻里奈さんとは今日はお会いになれません」
「えっ……なにかあったんですか」
「体調が芳しくないようです。申し訳ないのですが」
会えないのは、はじめてのことだった。
急に不安がこみ上げてきた。春日さんの余命はあとどれくらいあるのか。僕は彼女にあと何回本を貸してあげられるのか。見ないふりをしていた現実が重くのしかかってくる気がした。
僕は、春日さんが患っている病気の名前すら知らない。
聞かなかったからだ。根掘り葉掘り病気について詮索されたら気分を害するだろうというのもあったが、聞くのが怖かった。
次の日、バイトのシフトは入っていなかったが、どうしても気になって病院まで来てしまった。
今度は受付で止められることはなかったが、大部屋から個室に病室が変わっていた。
新しい病室の窓はブラインドが下されていて、外の景色は見えなかった。まだ昼過ぎだというのに室内は暗い。
「岡野くん、昨日も来てくれたんだってね。会えなくてごめんね」
いつものように春日さんは上半身を起こして本を読んでいた。目に見えてやつれているとかそういうことはなかったものの、その声は疲れを隠せていなかった。
「……大丈夫なの?」
「うーん、今日は大丈夫みたいね」
他人事みたいな言いかただった。
「あのさ」
僕は意を決して言った。
「前に言ってた、あと数年しか生きられないっていうのは、本当なの」
春日さんは読んでいた本を閉じて脇机に置いた。
「うん。余命宣告なんてあてにならないって家族は言うけど、先生がそう言うんだし、そうなんだと思う」
「じゃあ何がしたい?」
「え?」
「死ぬ前にしたいことしておかないと損だろ。昨日考えてたんだ。このままずっと病院に行っても春日さんに会えなくて、で、しばらくしてお亡くなりなりましたって連絡だけある、そういう未来もありえるって。そう考えたら怖くなった。勝手に死なれたら、困る」
自分勝手なことを言っている自覚はあった。悲しいのも苦しいのも理不尽なのも、春日さんのほうで、僕はただのサークル仲間で、しかもその中でも大して仲が良くない奴でしかない。
でも、何かしたかった。春日さんのために僕ができることを。
「だから、春日さんがしたいことを教えてほしい。食べたいものがあれば買ってくるし、会いたい人がいたら連れてくるし、そういうのじゃなくても僕ができる限り協力するから」
春日さんは笑っていなかった。今にも泣き出しそうなのを堪えてるみたいに唇をぎゅっと噛み締めていた。
「あのね。余命のことを岡野くんに話した日、実は……間違えたって思ったんだ。もっと淡々と、平然と受入れてくれるんじゃないかなって思ってたっていうか、岡野くんのことあんまりわかってなかった。色々考えさせちゃったかもなって反省した」
「そりゃ、考えるよ。別に反省するようなことじゃないけど……」
「うん、だからごめん。でももう乗りかかった船だから聞いてもらおうかな……私の病気ね、拡張型心筋症、っていうんだって。心臓の収縮がうまくできなくて、そのうち心不全で死んじゃうらしいの——心臓移植すれば生き延びられる場合もあるけど」
「移植はできないの?」
「移植を受けるには、日本臓器移植ネットワークに登録して、順番待ちをしなきゃいけないから。私、そこまでしなくてもいいかなって」
「なんで……」
生きられる可能性が少しでもあるならやってみればいい。なんでもうすでに諦めているのか、わからない。
「……岡野くんは臓器提供の意思表示ってしてる?」
「は? いや、特には」
「私はね、脳死状態になったらなどんな臓器でも提供することになってるの。自分で免許証に書いたから」
「うん」
臓器提供は僕にとってどこか遠い話だった。意思表示についても、存在は知っていたが現実として考えてみたことは一度もない。意識の低さを責められたらどうしようもないな、と思う。
「でも、こうやって病院で一人でいたらどんどん怖くなってきたんだ。脳死って判定されたそのとき、私は本当に死んでいるのかな? 脳は死んでても臓器を取られたらものすごく痛いかもしれない」
「うん」
「で、心停止したとして、それから今度は火葬場へ連れていかれるでしょ。私、それも怖いの。炎の中に自分が落ちていくのを想像したら泣きそうになる。もし私がその時まだ死んでなかったら、拷問だよね……私の言いたいことわかる?」
「たぶん。僕も考えたことあるよ。人間は本当はいつ死ぬのかって」
生と死の境界線は曖昧で不確かで、誰かの都合で決められたものでしかない。春日さんは死を恐れているのではないのだ。死に至る直前の生を恐れているのだ。
春日さんがそっと手を伸ばしてきて、僕の手を取った。細くて真っ白で冷たい手だった。
「お父さんもお母さんも……一生懸命励ましてくれるの。麻里奈はまだ死なないよって。きっと大丈夫って。きっと、私が死ぬって受け入れられないんだと思う。でも、私もうそういうのはいいんだ。優しい嘘はいらないの。私の希望は、苦しまずに死ぬことだけ」
「……うん」
春日さんはいつものように笑った。
「したいことなんて、ないよ」
僕が春日さんについて知っていることは多くない。
いつも笑っていて、甘いものが好きで、好奇心旺盛な普通の女の子だ。彼女が病気を患って入院しなかったら、きっと僕らはずっとただの顔見知りのままだっただろう。
春日さんのしたいことをしよう——本当の意味で彼女のための提案ではなかった。僕のほうが彼女が抱える問題の重みに耐えられなかったのだ。なにもせずに彼女が死んでしまったら、一生後悔するだろうと思った。
したいことなんて、ないよ。
彼女の声が何度も僕の頭の中で再生された。
考えて、考えて、考えた。
悩みながら一か月ぶりにサークルの定例会に顔を出した。
扉を開けた途端、むっとする臭いが鼻についた。サークルなのに部室があるのは珍しいくらいなので贅沢は言えないが、八畳ほどのスペースを相撲部と兼用というのはいただけない。
メンバーのうち定例会に集まっていたのは十五人ほどだった。ソファに踏ん反り返っていたでかい男、島田康介が僕を見て手招きした。
「久しぶりじゃん岡野。お前、何してたの? 相変わらずバイト?」
「そんなとこ」
「おれもバイトしようかな。カンボジア行ったせいで最近金なくてさあ」
島田はこの部屋にいると相撲部と間違われる体格で、こいつがいるだけで二人がけのソファが〇・五人掛けになる。僕は無理やり座るのは避けて壁にもたれた。
「そういや麻里奈ちゃんはどうしてるんだろ。お前なんか知ってる?」
「知ってる。あとで話す」
えっ、と呟いた島田がすぐに聞きたそうな顔をしていたが無視した。
久しぶり、元気だった? と他のメンバーからも声をかけられた。僕は曖昧に返事をする。
サークルに入っているものの、ボランティアに興味はなかった。大学に入ったらなにかのサークルに所属しておいたほうが無難だろうと思ったときに、就職活動でアピールできそうだと考えて選んだだけだ。
でも、今日ここに来たからにはやるしかない。春日さんの笑顔を思い浮かべる。
サークル代表が今月の活動についての説明を終えて、メンバーを見渡し、他に何かある人はいますか、と問いかける。
僕は息を吸い込んだ。
「ちょっと、相談があるんだけどいいかな」
みんなが一斉に僕のほうを見る。どの視線も意外そうだ。当然だ、と思う。今まで定例会で何か発言をしたことなどない僕が急に手をあげたから、みんな驚いているのだ。
「春日さんのことなんだけど——」
結局、準備をするのに十日もかかってしまった。
久しぶり会った春日さんは少し小さくなったみたいに見えた。布団からのぞく腕も折れそうなほど細い。春日さんは僕の姿をみとめると、きゅっと眉を下げて笑った。
「もう、来てくれないかと思った」
「遅くなってごめん」
「借りてた小説、全部読み終わっちゃったから暇だったよ」
「あ、本持ってくるの忘れた」
「えー! 何しに来たの」
わざとらしく頬を膨らませる春日さんは、怒っているわけではなさそうだった。目が笑っている。
「ごめんって。今日は、このあいだ君の願いを聞いたから、そのことを話しに来た」
「願い? したいことなんてないって言ったのに」
春日さんは不思議そうに首を傾げた。
「苦しまずに死にたいっていうのが希望だって言ってた。だから、僕はできる限り協力することにした」
宣言するとなんだか馬鹿みたいだ。
春日さんはぽかんとして黙り込んだ。
僕はベッドの脇のパイプ椅子に腰掛けて、鞄からビニール袋を引っ張り出した。
「え? なにそれ?」
「君の免許証、をシュレッダーで粉砕したもの。財布とかに入ってるんじゃないかと思ったらビンゴだった」
「……泥棒だよね、それ」
「そうだね。春日さんが訴えたら僕は犯罪者だ。でも、これで、臓器提供は無理だ。本人の意思が確認できないから」
馬鹿なことをしている自覚はあった。でも、これは決意表明なのだ。春日さんは臓器提供への恐怖を口にした。それでも彼女が意思を曲げられないのは自分の境遇のせいだ。だから、第三者である僕がかわりにやることには意味があると思った。
春日さんの目が僕を見て、そらして、また僕を見た。
「うそだぁ。信じらんない。なんでそこまで……」
「怒るなら怒っていいよ。僕が勝手にしたことだから。ちなみにまだ続きがある」
僕はクリアファイルに入れた書類を彼女に手渡した。
春日さんは震える指でファイルを手に取った。
「仮予約の受付……って何これ」
「墓地の予約をしておいた」
「はあ?」
「まず、東京で土葬はできない。条例で定められてるからね。というか、日本で土葬が可能な場所は多くない。ほんの一部、土葬の風習が残っている地域なら可能らしい。ここから一番近くで山梨だ」
「はあ、土葬、って」
「僕が山梨まで行ってきた。いちおう仮予約だから撤回はできる。ま、本気で土葬にするなら、遺書に明記して、死ぬ前に山梨に住民票を移すところまでやらないといけないけど、とりあえず場所だけでも押さえておいた」
「火葬が怖いって言ったから?」
「そう。そのまま土に埋まるほうがマシかなと思って」
「……なにそれ」
春日さんの目は潤んでいた。泣いているのを見るのは初めてだな、と思う。
「岡野くん、おかしいよ。あんなの冗談だったのに。私、なんで、こんな、馬鹿みたい、なにそれ」
「うん。やりすぎたかなとは思った」
僕は計画を実行するために一週間アルバイトを休んだ。店長に休みたいと伝えると代わりがいないというので、島田を連れて行って僕の代理として置いてきた。金がないと言っていたからちょうどいいだろう。
春日さんは布団で涙を拭っている。僕は彼女の細い手をとった。思いが伝わればいい、と思いながら。
「あのさ、僕はずっと——なんとなく毎日を生きてた。大学に入って、そこそこ勉強して、一応サークルにも所属して。でも、うまく言えないけど、春日さんのために何かしたいって思った。はじめて人のために何かしたいって本気で思った。だから、まずはありがとう」
「……うん」
「君が死んじゃうのは嫌だ」
気がつけば僕も泣いていた。自分の手の甲に涙が落ちていくのがわかった。
僕は鞄に入っていたものの中で一番大きなものを取り出した。
サークルの皆に呼びかけて書いてもらった特大サイズの寄せ書きだ。みんなはまだ春日さんの余命のことは知らない。それでも、僕が声をかけたら、みんな協力してくれた。
「麻里奈、早く元気になって!」
「かすが〜ファイト〜!」
「治ったらスイーツバイキング行こう♡」
「とにかくがんばれ」
「春日さんに会えなくて僕は寂しいです」
「まりな、病気に負けるな!!」
様々なメッセージが星型の画用紙に描かれ、貼り付けてある。
「時間がかかったのはこっちを作ってたからなんだ。僕だけじゃない。みんな、春日さんが帰ってくるのを待ってる。だから——」
声がかすれてしまう。
「だから、心臓移植を考えてみてほしい。日本で移植ができたら一番いいけど、それが無理でも、アメリカに行けば移植を受けられるかもしれない。三億円くらいいるらしいけど、不可能じゃない。君が頷いてくれたら、みんなに協力してもらう。募金活動は得意分野だよ、ボランティアサークルなんだから」
春日さんの目から涙が落ちて、寄せ書きの上に吸い込まれていく。
「最終的には春日さんが選ぶことだ。もしかしたら、ただ死を待つよりもずっと辛い選択かもしれない。苦しいこともいっぱいあるかもしれない。でも、僕はまだ、諦めたくないんだ。君も、諦めないでほしい」
彼女が小さく頷いた瞬間を僕はきっと忘れないだろう。
その日、僕は春日さんが泣き止むまで手を握り続けていた。
君のためにできること @nozominokoe
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます