逆さまの縊死

亜峰ヒロ

逆さまの縊死

 紅蓮夕陽が頬を染める。振りかざした金属バットは赤銀に煌めき、私の瞳を乱暴に射抜く。目を細め、焦点の不一致から揺らめく視界を睨み付け、そこから脱け出るように、バットを握る力を強めた。金属の冷たさが手のひらに染みて、煮え滾った血潮を静めていく。

 深呼吸ふたつ。私は前を睨み、高く高く掲げた金属バットを振り下ろした。甲高い破砕音とともに窓ガラスが飴細工のように割れる。夏を間近に控え、プラタナスの香りを存分に含んだ風が流れ込んできて、私の髪をなびかせる。ガラス片を踏み躙って横に移動し、同じようにバットを振りかぶる。教室の窓ガラスが一枚一枚、破壊されていくとともに、私の裡には静けさが広がっていく。それは波立った水面のように均一に、一様に、私の心をある種の快感で満たす。

 清々した、清々した! 声を張り上げて叫びたい気分だった。

 窓ガラスを全て割り終えると、破壊された教室を見渡して、教室の中央に向かう。ガラスの破片で切ったのだろうか、腕や足、顔のあちらこちらから血潮が流れ出ていた。けれど、それを厭うことはない。失敗はできないという思いが、私の意識を全てロープに向かわせていた。

 旧式の、天上からぶら下げられているタイプの蛍光灯に一本のロープが吊るされていた。上端は蛍光灯に巻き付けられ、下端では輪っかが作られている。海賊映画の処刑シーン、はたまた刑事ドラマの死刑執行シーンでお馴染みのやつだ。

 死への円環は高く位置され、私の身長では到底届かない。椅子の座面に右足を載せ、ぐっと体を持ち上げる。円環が顔の前に来た。麻縄を掴み、引き寄せる。手中の縄の感触、鼓動のけたたましさ、足の震え、内的と外的の刺激の全てが、乱暴なまでに私を包み込む。

 けれど、そのような奔流の中でさえ心は静かだった。殊更に静謐だった。

 輪っかに首を通す。ずれることのないように、慎重に縄の位置を調節する。

 つと、教室の外から、騒がしい足音が近付いてくる。

 待ちわびた。

 私は満足そうに微笑むと、そっと椅子を蹴り倒して宙吊りになった。揺れる視界と首にかかる負荷、急激な酩酊感にいざなわれ、私の意識は体から追い出された。



「六月二十五日

 お父さん、お母さん、ごめんなさい。私は不孝にも先に逝きます。私は不孝にも人を殺めます。赦されない罪です。犯してはいけない禁忌です。信じてください。私は決して、望んで人を殺めるのではありません。仕方がないのです。『仕方がない』という言葉は、お父さんの最も好まない言葉だったように憶えています。けれど、仕方がないと言う他にありません。

 私はもう無理です。到底堪えられるとは思えません。けがされてしまった体と心で、どうやって生きていけばよいのか分かりません。温かい家庭だとか、親愛だとか、誰もが想像できる幸福な未来が、私にはまったく見えなくなってしまいました。そこにあるのはくろつちだけです。追い詰められた私を、さらに窮地へと追いやるための虚ろだけが見えます。それしか映りません。

 だから終わらせます。それ以外にこの苦しみから脱け出す方法はありません。

 けれど、お父さんもお母さんも、どうして私が死ぬ以外になかったのか分からないままでは落ち着かないことでしょう。帰って来ないとしても、その訳を知りたいと思うのではないでしょうか。いいえ、それは私の言い訳で、娘の死んだ理由など知りたくもないかもしれません。

 だから、これを遺したのは、お父さんとお母さんの気持ちを勝手に想像して、そうした方がよいと判断したからです。目を逸らすことをお勧めしますが、これは私の最後の孝行です。私の孝行を不孝と捉え、悲惨な現実を見つめてくれる誰かのために、私は叫びます。最後に足掻きます。これは、臆病で、意気地なしで、ちっぽけな私が掴んだ、ひとかけらの告白です」


     ×     ×


 今朝方、ニュースキャスターが声高らかに全国に告げた言葉が、未だに耳の奥で反響している。園田は深いため息を吐き、机に伏せた。脂汗が禿げかかった頭皮を光らせる。昨日は家に帰れなかった。キリリと冷たいシャワーを浴びたいと、思う。

 六月二十六日。今日は休校となった。昨日、あんなことが起こらなければ園田は変わらず教鞭をとっていたことだろう。普段は喧しいとしか感じない生徒の茶々が無性に懐かしい。

「園田先生」

 声をかけられたことで園田は体を起こす。

「応接室に来るようにとのことです」

 今度は何だろうと嫌気がさす心を抑え付け、園田は「分かった」と応じた。

 職員室を出て階下の応接室に向かう。上靴のゴムとリノリウムの床がキュリキュリと擦れる音を聞いていると、どうしても昨日のことが思い出される。ホームルームを終えて生徒達に掃除を任せ、園田は職員室に戻った。思い起こせば、教室を出るときから何かがおかしかった。普段なら真っ先に教室を出ていく彼女が、昨日だけは思い詰めたように唇を結び、自分の机をじっと睨み付けていたのだ。けれど、悲しいかな、園田に彼女の心を解することはできなかった。彼はいつもと同じように職員室に戻り、疲れを癒すために珈琲を淹れた。

 今日も終わった。無事に終わった。平凡と、二十年間変わらない日々の繰り返し。明日も無事に終わる。何事も起こらないと園田は信じていた。

 けれど、それは裏切られた。彼が一度は気に留め、目を逸らしてしまった少女によって。

 始まりはけたたましい破砕音だった。一度目の音で園田は思わず背中を震わせ、珈琲をシャツに零した。何事かと目を白黒させ、野球部かそこらがボールを打ち込みでもしたのだろうと動揺を抑え込む。ところがそれは二度も三度も続く。園田は窓辺に駆け寄り、異変の出処を探した。初めに校庭を視る。普段ならえいやえいやと白球を追いかけている野球部の足がピタリと止まっていた。砂埃の立たない校庭はどこか不気味だった。

 野球部達の視線の先、見上げられている教室へと目を動かす。

「私のクラスだ……」

 園田は茫然と呟く。それは、彼の穏やかな日常に亀裂が走った瞬間だった。

 窓ガラスの向こうに人影が見えたような気がして、彼は職員室から駆け出した。衰えた肉体に悪態を吐きながら二階分を駆け上り、つい二十分前に閉じた扉に手をかけ、開け放つ。

 真っ先に目に入ったのは、破壊された教室と、その中央で揺れている小さな人影だった。

 織原おりはら千絵ちえが、首を吊っていた。

 彼女の小さな体は夕陽を纏ってほのかに輝き、紅蓮と黒のコントラストが彼女の存在を際立たせる。いつもの見慣れた教室はすっかり色褪せ、狂乱の美となって園田の瞳を刺す。

 彼はその場で頽れた。織原千絵を助けなければいけないと頭の奥が叫ぶのに、足も腕も動こうとしない。心臓さえも脈打つことを緩め、園田はただただ織原千絵の冷ややかな美しさに魅せられていた。


 応接室の扉を開く。

「園田くん、こっちだ」

 部屋を分割している仕切り板の向こうに回り込むと、睨め付けるような視線が向けられた。思わず委縮する。校長の真向かいには、巌のような風格の男と、まだ青臭さの抜け切らない青年が腰かけていた。

「警察の、榎本さんと梶木さんだ」

 二人の男を注意深く見つめながら、校長の隣に浅く腰かける。

「織原の担任の園田といいます」

 名乗りつつ低頭する。装ってみせた平静は、今にも剥がれ落ちてしまいそうだった。

「織原千絵さんのことですが」

 梶木が開口する。

「医師の説明によれば、発見が早かったために大事には至らず、じきに目覚めるそうです」

『目覚める』と、僅か四文字足らずの言葉が園田の胸を打つ。燃えるような安堵感に脱力して、背もたれに体を預けながら呻く。よかった、死ななくてよかったと、言祝ぐ。

「けれど、ここからが問題です」

 梶木は不穏な色を表情に浮かべ、懐から手帳を取り出すと園田に向けた。罫線も何もない真っ白な紙面には、いくつかの名前が羅列されている。よく知っている名前だった。

「この子達がどうかしましたか?」

 生ぬるい唾液が喉を下る。嫌な予感が背筋を伝う。織原千絵が自殺を図り、失敗して生き延びた。それはただの結果だ。なぜ、死のうとしたのか。彼女は何によって、誰によって追い詰められたのか。これから梶木が語ることは、その類だ。

「彼等に、織原さんへの傷害、窃盗、脅迫並びに暴行の嫌疑がかけられています」

「それは……」

 言葉に詰まる。喉が焼け爛れてしまったようだ。

「それが、織原の自殺に関係しているのですか?」

 澱みなく梶木は首肯した。

 何ということだ。唇が微かに動く。

「その様子では、あなたは織原さんのことは何も知らなかったのですね?」

「えぇ。……争いごとも、揉め事もない。穏やかで、親密なクラスだとばかり」

 事実はまるっきり逆だったわけだ。

「そうですか。いえ、それが聞ければ充分です」

 梶木は話を切り上げ、それまで静観を決め込んでいた榎本が発言する。

「当該生徒に事情を聴きますので、あなたにも協力を願うこともあるかと思います。その時はよろしくお願いします」

 形式ばかりの挨拶をして立ち上がった榎本に、

「彼等を……織原を《いじめ》た子達を逮捕するのですか?」

 園田は縋るように訊ねる。

「今はまだ何とも言えません。しかし、事実関係が明らかになった後に、そうしなければならなくなるかもしれません。今回の件は、反省文などでは済ませられない類です。それから、全てが明らかになるまで、学校側から当該生徒への処罰などはなさらないようにお願いします。また、くれぐれも吹聴することのないように気を付けてください」

 返された榎本の言葉は、どれもこれもが冷たい響きを孕んでいた。そこに情は絡まない。

「最後に、ひとつだけいいですか?」

「答えられることならば」

「どうして、あの子達が織原にそのようなことをしていたと分かったのですか? 遺書はなかったはずです」

 榎本と梶木はちらりと顔を見合わせ、榎本が頷いたことで梶木が口を開いた。


「日記ですよ」



「六月二十三日

 今日は、怖れていたことが現実になりました。一抹ながらの理性と良心を頼りに、起こるはずはないだろうと高を括っていた出来事が、現実のものとなりました。唐谷、村岡、犬養。私は彼等に犯されました。どうして付いていってしまったのでしょう。彼等の表情が殊更に歪んでいたことに気付けなかったのでしょう。なぜ、なぜ、レイプされる前に逃げ出せなかったのでしょう。写真まで撮られ、私は永遠に汚れた存在へと貶められました。私はもう泣くことも叫ぶこともできません。涙は枯れ果てました。喉は壊死しました。何もありません。どうか教えてください。こんな憐れな姿で、こんな地獄で、本当に生きていかなければならないのですか?」


× ×


「なぁ、梶木。どうして二十四日がないのだと思う」

 梶木が運転する横で煙草をふかしながら、語尾を上げて榎本は呟く。彼の手には織原千絵の日記のコピーが握られている。転写後にもかかわらず、そこには涙の跡が見て取れた。痛ましい日記にちらりと一瞥を向け、梶木はまた前を見る。

「分かりませんが、日記自体が不定期に書かれているのですからたまたまではないですか」

「たまたまね……」

「何か引っかかることでも?」

「いや、ふと思っただけだ。気にしないでくれ」

 榎本はそう言って締め括り、煙草の火を消す。気にするなと梶木に告げた割に、彼の視線はひたすら二十三日と二十五日の間を彷徨っている。レイプされた二十三日と、自殺に踏み出した二十五日。日記には記されていない空白の二十四日に、織原千絵の真意が隠されているような気がしてならなかった。いじめを苦にしたただの自殺だと結論付けることは簡単なのに、榎本には、そうしてはならないような気がした。

「そろそろですよ」

 声をかけられて顔を上げる。警察病院の姿が、ビルの隙間から覗く。織原千絵は今もそこで眠っている。病院前のロータリーに車を横付けすると梶木はエンジンを止めた。それを認めた警備員がツカツカと歩み寄ってくる。

「そこは駐車禁止ですよ。ちゃんと車庫に入れてもらわないと」

「いや、すまんね。私を降ろすだけだから」

 見せかけだけの愛想で警備員を追い払い、榎本は梶木を振り返った。

「私は織原千絵の様子を見てくる。君は生徒達の家に行ってくれ」

「分かりました」

 諒解の声を背に車から降りる。

「榎本さん」

 梶木が呼び止めた。

「どうしてそんなに積極的なんですか。自殺未遂なんて僕等若造に任せておけばいいのに」

 榎本は振り返らず、代わりに空を仰ぐ。今日は曇っていた。太陽は頼りなく、追い風がスーツをはためかす。言うべきか否か迷ってから、榎本はつま先でアスファルトを突いた。

「私には娘がいたが、三年前に死んだ。自殺だったよ」

 謝罪の言葉を口にしそうになった梶木を手で制し、榎本はやんわりと微笑む。

「昔の話だ」

 病院に入る。自動ドアの向こうから流れてくるものは冷気だけで、榎本の記憶にある、消毒液の臭いが漂っていた病院とはどこか違う。それでもロビーを行き交う人の貌が僅かに曇っていることだけは昔から変わらない。慣れた足取りで面会者受付窓口に向かう。

「ご家族の方ですか?」

 首を振り、警察手帳を手で隠すようにして示す。詳しい事情までは知らなくとも、どこにどのような事情の患者がいるかくらいは把握しているのだろう。受付嬢は無言で面会許可証を差し出した。軽い会釈とともに受け取り、榎本は病室に向かう。

 五階の最奥、看護師センターを挟んだ部屋に織原千絵はいる。部屋の利用者を知らせるためのプレートは空欄のままだった。プレート上部のスリットに面会許可証を滑らせると、微かな機械音とともに扉が開く。滑らかに広がった視界の中央に、薄緑の衝立パーテーションが見えた。

 衝立の後ろに回り込むと、ベッドに横たわる一人の少女が瞳に映る。齢十六歳の少女は静かに眠っていた。つい先日、自殺に踏み出したとは思えないほどに表情は穏やかだ。しかし、少女の頸部に刻まれた、皮下出血の痕が穏やかさを鈍らせ、漠然とした不安を誘う。

 見つめるのも束の間、榎本は掛け布団を引っ張り上げ、少女の首元に被せた。担当医に話を聞くために引き返そうとして、彼はふとした違和感に足を止める。

 織原千絵の睫毛が風に揺すられたかのように動き、分かたれた。黒々とした美しい瞳が露わになる。絶句する榎本の前で、少女は瞳を泳がせた。

「……そっか。私、失敗したんだ」

 生き残ってしまったんだと、彼女は寂しそうに続ける。その言葉は、どこか現実性を欠いていた。


 担当医を呼び出す。後遺症の有無を検査する間も、両親に連絡を取ることを伝えたときも、軽い食事を勧めたときも無表情に頷くだけだった織原千絵は、

「日記について、話を聞かせてもらえないか」

 榎本の言葉に初めて人間的な応えを示した。瞳の奥に熱が宿り、彼女は微かに強張る。その体は見えない悪意から逃れるかのように、絡み取られることを避けるがために震えを刻む。

「………………」

 ポツリポツリと唇が動き、何かが呟かれたようだが、榎本には彼女が何を言っているのか聞き取れない。身を乗り出して繰り返してくれるように頼む。織原千絵は開いていた唇を一度結び、先程よりはよほどはっきりした声を絞り出した。

「女の、刑事さんになら」

 二十三日の日記に残されていた出来事が脳裏に浮かぶ。彼は素直に引き下がり、病室の外に出ると同僚の清水に来てくれるように連絡を取った。看護師長に織原千絵のことは任せ、担当医の元に向かう。

「捜査のためだけにですよ。守秘義務ってのがあるから」

 分かり切ったことを前置きしてから、医師は榎本にカルテを渡した。榎本は丁重に受け取り、青い文字列に目を走らせ、それが到底自分には解読できないことを悟ると顔を上げた。

「すいません、説明を」

「あれ、読めなかった?」

 古風な医師がするようにドイツ語で記されていたわけではなく、単に文字の汚さのせいで。

「まず薬物の過剰摂取。彼女ね、首を吊る前に睡眠薬を飲んでいたようだね。二重の保険をかけたつもりなのかは、分かんないけど」

「……そこまでして、彼女は死ななかったのか」

 何の気なしに榎本が呟いた言葉に、医師は「そうなんだよね」と僅かな食いつきを見せる。

「発見が早かったのが幸いだったとは言い切れないんだ、彼女の場合。彼女ね、ぎりぎり死なない自殺をしてるんだよ。とんだ綱渡りだ。悪運だけは恵まれているみたいだね」

 いや、運は悪かったのかと医師は付け足す。

「死なないとはどういうことですか」

「刑事さんが知らないのも仕方ないけど、オーバードーズで死ぬのって昔ならいざ知らずほぼ不可能なんだよね。現在、一般的に処方されている睡眠薬って安全性がとても高くてね、それこそ致死量を飲もうとしたら何万錠という量が必要なんだ。下手に瓶一本とかなら、胃洗浄の苦しみを味わって、医者からこっ酷く説教されて終わり。アルコールと併用すれば、話はまた変わるけど」

「それなら、首吊りの方は」

「こっちは本当に危なかったね。縊死いしは頸部大動脈や気管が圧迫されて窒息状態になることで起こるんだけど、彼女は頸動脈が綺麗に圧迫されていた。七秒くらいしか意識を保っていられなかったんじゃないかな」

「それでは、助かった理由は」

「偏に発見が早かったためだろうね。だから、ぎりぎり死ねなかった。放課後とはいえ学校で自殺を図ったのは不幸中の幸いだったんじゃないかな。少なくとも衆人環視の中だ」

 それにしてもと口ごもり、医師は顎髭に指を沈めた。

「よく吊った直後に発見できたね。彼女、まだ揺れていたんだって?」

 告げてもよいものかどうか一瞬だけ迷ってから、榎本は静かに切り出す。

「それは、彼女が首を吊る前に教室を破壊したからだろうな」

「破壊」

「窓を全て割ったそうだ」

 医師は目を見開き、ふくよかな頬を揺らした。

「それは爽快だったろうね。学校としては堪ったものじゃないけど」

 しかし、そのおかげで織原千絵は発見されたのだ。それが彼女の目論見を阻む結果だったとはいえ、教室を破壊するという蛮行が功を奏したことには違いない。

「ところで」

 医師は言う。

「どうして彼女は窓を割ったのだろうね」


 織原千絵の病室に戻ると、ちょうど清水が到着したときに重なった。

「すまないな、手を煩わせて」

「いえ、仕事ですから」

 清水に日記のコピーを手渡すと榎本は病室から離れる。ロビーのソファに腰を下ろし、清水が戻ってくるまでの時間をまんじりと過ごす。面会終了時刻が近付いた頃になって、ようやく清水は姿を現す。彼女の瞳は『うさぎ』だった。

「すいません。あまりにも、酷すぎて」

 言葉も絶え絶えに清水は鼻を啜る。彼女の涙脆さは刑事にとっては不要だと思う一方で、そんな彼女だからこそ織原千絵は心を開いたのだろうと思うと、報告を急くことは躊躇われた。

 織原千絵の告白を吟味すれば、日記の内容に虚偽や妄想の類はない。むしろ凄惨な部分が半分近くも欠けているとさえ思える。その半分さえも織原千絵が語ったことの半分なので、言葉に表しようのない部分に思いを馳せれば、それは一人の少女を死に追いやるに余りあるものがあった。



「六月二十二日

 どうやら、私はとても優秀な人形のようです。理不尽な暴力が私を襲い始めてから、すでに七日が経ちました。今日も私は殴られました。蹴られました。私の体はすでに痣のない箇所を探す方が困難なほどです。彼女達はよく飽きないものです。よく良心が痛まないものです。私はとうに飽きました。私はもう疲れました。痛みに呻くのも、屈辱に心を震わせるのも、痛いと感じることさえもすでに面倒です。私は人形になってしまいたい。彼女達が私を人形のように扱うならば、いっそのこと、痛みも苦しみも感じない体になりたい。どうすればなれるでしょうか。どうやればできるでしょうか。私にはその方法が分かりません。誰か教えてください。稲葉、横山、朝倉、惟村。あなた達なら知っていますか。私の体と心に、消えようのない絶望を刻み込んだあなた達ですから、きっと知っているのでしょう。どうか教えてください。示してください。私が本当の人形になる方法を――」


     ×     ×


 二十二日と二十三日の二ページ分を読み終え、梶木は日記のコピーを折り畳んだ。榎本が隣にいなくてよかったと、彼は静かに感じる。開かれたままで車のダッシュボードに置かれていた警察手帳には、日記から読み取れた八人の名前が記されていた。

 淡々としていて、その一方でどこか物語的な描写で綴られた日記の内容が頭から離れない。事件の被害者に、過度の感情移入はするなと榎本から何度も言われてきた。それでも、梶木は怒りを抱かずにはいられなかった。勝手な感情だ。それで織原千絵が救われるのかと訊かれれば、彼は首を振るだろう。認めたくなくとも、それが事実だと聡明な彼は理解していた。

「本当、これは死ぬしかないよな」

 もしも自分が女だったら、いいや、男だったとしても織原千絵と同様の辱めを味わわされたらと想像すると、梶木には死ぬという選択肢しか見いだすことができなかった。

 織原千絵がそうだったように。

 梶木は小さく首を振り、警察手帳を閉じた。車を降り、正面に位置する、藍色の屋根の家を見上げる。梶木は重たい指を動かして、インターホンを鳴らす。


 インターホンが鳴らされた。唐谷宗也は伏せていた瞳を持ち上げる。頭の中心では、ビリビリと警鐘が響いていた。それは、織原千絵に関することに対して。

 応じることが恐ろしく、唐谷は居留守を決め込む。だが、インターホンは何度も何度も鳴らされる。唐谷がここにいること、来訪者を避けていることが筒抜けになっているようだった。唐谷は髪を撫で付け、部屋の扉を開けた。二階から一階へと階段を降りていく。泥沼に踏み込んでいくかのように、足に絡み付く空気が明瞭な重さを持っていた。

「…………どなたですか」

『もしもし、私、梶木と申します』

「…………何の用ですか」

『唐谷宗也さんは御在宅ですか』

 扉の向こうの男は自分を探していると理解したとき、唐谷の十六歳の心は震え上がる。

『扉を開けて頂けますか』

 梶木と名乗った男の声は冷ややかで、丁寧なのに脅迫的で、唐谷は追い詰められていく。

『扉を開けなさい、唐谷宗也』

 遂に男は命じた。痺れ切った頭に追い打ちをかけるように、インターホンがまた鳴らされる。逃げなければ、そんな考えが脳裏をよぎった。窓から脱け出て、塀を乗り越えて、全力で走って、息が切れても走って、それで、どこへ逃げるのか。どこまで逃げれば安全なのか、どこが安全なのか。どこも安全ではない。逃げられるはずもない。

『こちらは警察です。もう一度言います、扉を開けなさい』



 小さな部屋だった。対面に腰かけた刑事は、感情の滲まない顔で自分の方を見ていた。

「織原千絵さんについて知っていますか」

「……知ってるよ。当たり前だろ」

「そうですね。彼女はあなたの級友クラスメイトですからね。それでは、彼女が自殺したことは」

「あんだけ大騒ぎになれば……死んだんだろ、あいつ」

「まだ目覚めてはいませんが、生きていますよ。幸いなことに」

「…………」

「責任を感じますか」

「何でだよ。つーか、どうして俺が」

「織原さんが自殺したことに、彼女を追いやったことに責任は感じていますか」

「知らねえよ。俺があいつに何かしたって、そんなの、誰が言ったんだよ」

「他ならぬ彼女自身が」

「嘘吐くなよ。あいつはまだ寝てるって、言ったばかりじゃねえか」

「えぇ、まだ目覚めてはいません。それでも分かるんですよ、これのおかげで」

「…………何だよ、それ」

「織原さんの日記です。どうぞ、コピーですから遠慮なく手に取ってください。そして、確かめてください。くれぐれも注意して。そこに書かれていることが事実なのか、否か」


「嘘っぱちだ」

 それが唐谷宗也の第一声だった。日記は、彼の手中でくしゃくしゃに潰れていた。

「嘘だ、嘘だ、嘘だ……っ」

 蒼白になり、壊れたレコーダーのように唐谷は繰り返す。未熟すぎる十六歳の姿を、罪を罪と自覚できずにいた少年の姿を、梶木は少しも可哀想だとは思えなかった。

「改めて聞くが、責任を感じるか。織原さんにした行為を認めるか」

 酸素を求めるキンギョのように少年は口を震わせ、

「証拠は、証拠はあんのかよ。あいつの日記だけで事実なんて言い切れねえだろ」

 陳腐な台詞を吐く。三文芝居だってもう少しはまともな台詞を喋らせるだろうと思うと、その言葉が梶木を怯ませることなどない。

「確かに日記だけでは充分な証拠とはなり得ないが、君か、村岡か、犬養の携帯電話やカメラから日記に記されたような写真が出てくれば事実としか言いようがないだろう」

 唐谷は大きく目を瞠り、何かを言おうとして言えず、背もたれに倒れ込んだ。

「……大した罪にはならないだろ? まだ高校生だし、いじめなんて遊びみたいなもんだろ」

 縋り付く言葉に、その無知さに、呆れを通り越して憐れだと思う。

「刑法第二十二章、第百七十七条。暴行または脅迫を用いて十三歳以上の女子を姦淫した者は強姦の罪とし、三年以上の有期懲役に処する」

 そこで言葉を区切り、梶木は唐谷を睨み付ける。

「いじめだと甘えるな。君がしたことは卑劣な犯罪だ」

 その眼はどこまでも冷ややかで、その言葉はひたすらに重く、その事実は覆らない。

 梶木はもう一枚、日記のコピーを取り出して机の上を滑らせた。

「読みなさい。それが、君が織原さんから奪ったものだ」



「六月一日

 住み慣れた故郷を離れ、私は東京にやって来ました。今日は、編入先の高校への初めての登校日でした。高校二年生のこの時期に、三度目の新しいクラスメイトと出会います。都会の高校生とは煌びやかなものだと、ドラマや映画では描かれていましたが、存外そんなこともありません。少なくとも、おのぼりさんの私と彼等で変わっているところなど見当たりません。緊張と期待で寝付けなかった昨夜のことを思うと、ついつい笑んでしまいました。

 日記を終える前に、素敵な友人を二人、記しておきます。

 一人目は、右隣の席の稲葉志保さんです。黒髪がとても綺麗な女の子です。彼女は、私がこちらに来てからの初めての『読者』になりました。私が細々と小説を書いていることは、この日記にも時々記してきました。今日も、私はスマホで小説を書いていました。ひょいと隣から覗き込まれ、慌てて画面をひっくり返しました。何書いてたの、と稲葉さんは訊いてきました。恥ずかしくて、消え入りそうな声で私は答えます。小説を書いていたのと。

 失敗したと、思いました。けれど稲葉さんは笑うことなく、至ってまじめな表情で「読ませてよ」と言いました。比較的短く、同時に比較的自信のあった短編を探して、おずおずと稲葉さんに差し出します。読まれている間は、そうですね、全身を針で突かれているようでした。

 稲葉さんは時間をかけて読み終えると、途端に表情を輝かせ、すごいねと笑いました。

 二人目です。実は、彼とはまだ話していません。彼の名前は唐谷宗也さんです。唐谷さんは私の斜め左の席に座り、授業中は器用にシャーペンを回していました。そして、その横顔はとても綺麗でした。眠たそうに細められた目、陽光に浮かぶなめらかな輪郭、彼の全てが、私にはどうしてか魅力的に見えました。それはきっと、私が女の子だから、なのでしょう。

 彼と親密になれたらよいのにと願いつつ、今日の日記は終わりにします。

 とてもよいクラスに恵まれました。私はうまく、やっていけそうです」


     ×     ×


 次の日は土曜日だった。普段と変わらずにスーツを着込んだ榎本は、唐谷らの調書に目を通す。案の定、唐谷の携帯電話から写真が発見された。

「すまんな。昨日は嫌な役を押し付けて」

 ハンドルを切る梶木に向け、榎本はぼそりと告げた。とんでもないという風に首を振り、

「今日も、逮捕になるんですかね」

 進路の先に見えてきた、稲葉志保の家を梶木は見つめる。

「辛いか?」

「辛い、というのが最もそれらしいですね。彼等がまだ子供であることも拭えませんが、それ以上に、自分のしていたことが犯罪だとは自覚しておらず、事実を突き付けられたときの表情が……見たくないものです」

「だが、罪は変わらない」

 榎本は断言する。

「それと、彼等は罪を自覚していなかったわけじゃない。目を逸らしていただけだ。いじめなどという甘い言葉で、オブラートに包んで見ていなかっただけだ」

「榎本さんは、いじめを嫌悪しているのですね」

 返事はない。ポツリと、車窓に雨粒が落ちる。

 稲葉志保の家の前に着く。車を降りようとしたところで榎本の携帯電話が震えた。

「俺だ」

『清水です』

 彼女の声はどこか切羽詰まっていた。榎本の眉が顰められる。

「どうした」

『織原さんがいなくなったと――』

「どういうことだ」

『詳細は分かりません。今、病院から連絡が入りました』

「帰宅したわけではないのか」

『それならいいです。でも、枕元に置手紙があって、さようなら、と』

 清水の言葉は、最後まで耳に入り切らなかった。

「稲葉は後だ、織原千絵を捜す!」

 梶木が首肯したことを認め、榎本は再度携帯電話に耳を付ける。

「手紙にはどこへ行くかなど記されていないのか」

『何も。その一言だけで、織原さんの家に電話しても誰も出ません』

「君は病院の周辺を捜してくれ。俺は別を捜す」

 電話を切り、梶木の貌を見る。

「二手に分かれよう。俺は学校に行く。君は織原の家に向かってくれ」

「タクシーを呼びますか」

「ここからなら近い。走っていく。それと、県警に応援を要請しておいてくれ」

 諒解の言葉を背に車から降り、榎本は駆け出す。

 老いた肉体はすぐに鉛となり、足は縺れ、見苦しく喘ぐ。肺が焼けるようになり、全身から噴き出した汗に不快感を覚える頃になり、彼はようやく織原千絵の通う学校に辿り着いた。職員に協力を仰ぐため事務室に向かう途中、荒んだ息を整えようと空を仰ぎ、彼女に気付く。

 校舎の屋上。鉄柵を境に、こちら側に、織原千絵が立っていた。

 彼女は真っ直ぐに、曇天の彼方を見つめていた。

「死ぬな」

 念じるように声を漏らし、榎本は校舎へ駆け込む。

 こうして階段を上っているうちに、彼の視界に彼女の姿がないときに、彼女が踏み出してしまったら。二階、三階と辿り着くたびに視界に映る窓ガラスの向こうを、彼女の体が落ちていったら。受け止めることのできない光景を前に、彼はその場で頽れるのだろう。

 嘆くのだろう。悔やむのだろう。憎むのだろう。己の非力さを。

 屋上へと続く扉を開け放つ。織原千絵が振り返った。

 彼女は笑っていた。雨に髪を濡らし、ワイシャツを透かし、制服の襞スカートを重くした彼女はあどけなく笑っていた。

「織原!」

 叫ぶ。言葉などという不確かなもので自殺を踏みとどまらせようとし、されど、そこに効力がないことなど彼が誰よりも知っていた。すでに疲弊した足に鞭打つ。腕でも、肩でも、どこでもいい。織原千絵の体を掴むために手を伸ばす。一歩一歩確実に、距離は詰められる。

 指先が触れ、手を広げる。手のひら全体で彼女の体に触れようとして、嘲笑うように、織原千絵は榎本の視界から消えた。手のひらだけが、彼女の残滓を掴む。

 悲しみか、絶望か、虚脱か。榎本は言葉を失い、

「アハハ」

 そんな彼をからかうように軽快な笑声が響く。

「アハハ、アハハハ」

 僅か三十センチほどの壁面の出っ張りに足を置き、片腕だけで鉄柵の下部を握り締め、織原千絵は笑っていた。上半身をぐっと空に突き付け、鉄柵から手を離せばすぐに落ちてしまうような体勢で、彼女の頬は濡れていた。それが涙なのか、雨の雫なのかは分からない。

 けれど確かに、彼女は泣いていて、何かを振り払うように笑っていた。


「死ぬ気だったのか?」

「やっぱり生きていける気がしなくて、脱け出したの。でも、おかしくなって」

 榎本も千絵も、二人して屋上に寝転がっていた。濡れたコンクリートも、肌を叩く雨も気にならない。梶木に連絡を取り、彼が迎えに来るまでの僅かな間、榎本は千絵と言葉を交わす。彼女を怒鳴りつけてやろうという思いは、いつの間にか消えていた。

「会いに行ったんだ」

 誰に、とは聞かない。

「志保ちゃんに。私にとっての一番の友達は、歪んでも、やっぱり志保ちゃんだったから」

 何のために、とは聞けない。

「謝られた」

 寂しそうに千絵は笑う。

「ばかみたいに。何度も、何度も、こっちが苦しくなるくらい、謝られた。泣きじゃくられて、縋り付かれて、赦して、赦してって、何度も繰り返すの。そしたらね、私の中で志保ちゃんがどんどん小さくなっていって、最後には消えちゃった」

 彼女は目を瞑る。涙の跡は掠れていた。

「あぁ、私があんなに怯えていた人はこんなに弱かったんだって」

 そう考えると、死ぬのがばからしくなった。

「それでいいんだ。他人のことで死んだところで虚しいだけだ。君が死んでも、君をいじめた奴等はのうのうと生き続ける。自殺に意味などない。ただ、忘れられるだけだ」

 織原千絵はそうだねと頷き、上半身を起こす。つられて榎本も起き、視点が高くなったことで、鉄柵の向こう側に破壊された教室を認めた。

「そういえば……どうして窓ガラスを割ったんだ?」

「消したかったの。私がいじめられていたことを。私がここにいたことを、消したかった」

 彼女の横顔には影が巣食っていた。

 消えたいという彼女の願いを叶えさせてやってもよいのではないかと、思ってはならないことを榎本は思う。だが、それでも、生きることを投げ出させてはならない。

 曇天の切れ間に、陽が覗く。彼女にとっての仕切り直しには、ちょうどよかった。

「さぁ、行こう。とりあえず病院に戻ろう」

 榎本は織原千絵の肩を叩く。彼女はふらりと上半身を揺らして立ち上がった。

 トントンと階段を降りる。手を伸ばせば触れられる距離で、小さな背中が揺れている。一歩進むごとに、六月一日を始まりとして彼女が背負ってきた一ヶ月が流れていくようだった。

 二階に辿り着いたとき、強い陽射しが榎本の目を貫く。眩しさに目を覆い、同時に、織原千絵は足を止めた。どうしたのかと訊ねる言葉は、彼女の声に掻き消される。

「ありがとう」

 言葉の真意が掴めず、榎本は首を傾ぐ。

 織原千絵の体が揺れた。

 彼女はワルツでも踊るかのように優美に振り向く。濡れた髪先から雨粒がしずる。

「ありがとう、刑事さん」

 織原千絵は無表情だった。

「これで、私は」

 無表情が崩れる。彼女は愉快そうに笑っていた。

「私をいじめたあの子達を、殺すことができた」



「六月二十四日

 今日、私は家を出ることができませんでした。何度も、何度も、ずっと、ずっと、肌がふやけきっても、私はシャワーを浴びていました。浴び続けていました。体は今までにないほど熱を宿し、さらさらと、さらさらと、心が崩れていく感覚がします。喪失と悲しみ、虚脱が喪失でなくなり、悲しみでなくなり、虚脱でなくなり、憎しみへと姿を変えました。

 誰がこの変化に気付けたでしょう。あの子達は予期できていたでしょうか。

 私が、あの子達を殺したいと願うなど。

 オーバードーズの致死量。首吊り芸人と呼ばれた人間の存在。インターネットの海は、死なない自殺の方法を示してくれました。そして、私の中でそれはできあがります。

 被害者のままで、同情と憐憫を寄せられる少女のままで、あの子達を殺す方法を。

 私はあの子達に虐げられ、ヒトとして貶められました。だから、決して罪にはならない方法で、私はあの子達を殺す加害者になります。私はヒトを殺すことに決めました。はい、その人は私ではありません。かつて私が好意を寄せた、私を裏切ったあの子達です。

 だから、私は明日、自殺をしてこようと思います」

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逆さまの縊死 亜峰ヒロ @amine_novel_pr

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