よん
午前八時十八分。
この八が重なったこの時間も今日で何度目だろうか。
また僕は寒気が立ち込めたホームに降り立っている。そして、隣を見る。少女が寒そうに佇んでいた。またまた膝丈のスカート。のぞかせる膝小僧は見慣れたものだったが、何度見ても飽きなかった。うっすらと緑色の血管が見える。白い太ももは寺島よりも細く不健康そうだ。
するりと伸びる太ももからその中身を想像する。そうしたら、あの黒いパンツが思い出された。昨日と同じならきっとその中身も同じだ。
少女は僕の視線をいぶかしみ眉を顰める。僕は何にも見てませんよ、とでも言いたそうなすまし顔で対応した。
そろそろだった。
黄色い線のこっち側に僕は立っている。立ち位置もそのままだ。ここから一歩踏み出せば、すぐ少女に手を伸ばせる。僕は少女のパンツを見るためだけに、今ここに立ち、少女を助けようと頭の中で考えを巡らせる。
そうだ、僕は少女のパンツのために電車に飛び出して今日亡くなるだろうあの子を救うのだ。
ホーム内にけたたましく電車の放送が鳴る。この時間帯はこの音声で、この反応で、周囲はこうで、と思ったことが全て体現されて不思議な感覚に陥る。
ただ僕はそんな世界などおかまいなしだ。パンツを見たいがために何度だってここに立つ。
電車がやってくる。
昨日よりも早めに頭痛が押し寄せてくる。今度は頭全体に熱がこもり、脳が揺さぶられている。視界がぶれ物の輪郭があやふやになる。眼球が前のめりになり、目から出よう出ようと試みている。寒気に息を白くさせていたのに、今は体全体の熱気で湯気が表皮から湧き出ている
電車がブレーキをかけられている。速度が落ちていない。
そこで僕の背後から軽快な足音がした。それは何度も聞いていた少女の足音だ。ゆるくふわっとした茶髪が僕の隣を通り過ぎる。過ぎ去った後に残ったのは甘い香りだ。鼻をくすぐり、痛みを緩和させる。スカートがなびく。ひらりひらりと。そして黄色い線を踏み台に、飛んだ。空中を滑空する彼女の隣には大きな金属の猛獣が差し迫る。
僕は痛みで歪んだ視界を振り払い、一歩踏み出す。少女の後を追って飛んだ。
そこで世界の時が平たく延ばされる。電車のスピードが限りなくスローになり、少女が振り返る姿が僕の目と鼻の先で見えた。スカートまでもう少しだ。
振り返る少女は島本先生までとはいかないがかわいらしく、きれいだった。僕の姿を見て、息をのんでいる。驚き、笑みを消し去っていく。
僕は彼女の体をしっかりとつかみ、電車の向こう側へ一緒に重心を前に。勢いをつけて先へと移動する。時間はゆっくり進む。
体の震えも頭の痛みも過去最高潮だった。気を抜けば目をつぶってしまいそうになる。意識が飛びそうになる。だけど、少女を離さない。
パンツという青さをずっと見つめている。
電車の正面からはずれて、向こう側へいきつく。僕と彼女の体は電車の正面からその外側へ。向かいのホームの線路へ転がる。だいぶ上の方から落ちてきたので擦り傷や打撲だらけになった。
そこで、時間が再び動き出す。
大きながブザーが鳴り、誰もが息をのむ音がする。ホームは無音。雑踏の舌打ちは聞こえない。あの子の悲鳴もない。
擦った膝や打撲した太ももから、僕の中の心音がこだまする。迫りくる痛みはあるが、目の前の少女のめくれ上がったスカートを見て、晴れる。
視界が青い。
真っ青だ。
広がる草原だ。
そこでホームから歓声が上がる。
青さは全身に伝い、世界を覆った。確かに今、この時に今日一日起きる青く若い記憶がよみがえる。
僕がこうして救った後、もう一度島本先生に告白したい。もう一度だけクラスメイトの女の子を泣かせ、北原が寺島に告白させたい。そして保健室の教員に「パンツ、見れましたよ」と報告したい。そんな一日が見たい。
これっきりもう世界は繰り返さない。
一気に盛り上がったホームの生気とは反対に、僕が押し倒した少女は沈んだ空気をはらんだままゆっくりと起き上がる。そして線路の上にうずくまり、肩を震わせた。ひっく、としゃくりをあげる。
「よかったっ……」と少女は行って目に浮かぶ涙を指で受け止める。薄い青色の水滴を指に絡ませて手から手首に、そこから二の腕に伝わせる。僕はその手を掴んだ。
「君の……」
僕の思考は『青さ』と『だささ』でできていた。
「ありがとう。実はね、私があそこで電車をとめてなかったら、大変なことになってて」
「そんなこと、全部どうでもいい!」
スカートがめくれ上がったその先は、黒色のパンツ。僕はその一枚隔てた先を望んでいるのだ。
「僕は君のパンツが見たいんだ!!」
少女が目を見開き、涙が引っ込んだ。
僕の視界はあくまでクリアだ。目の前に少女がいて、ある問いをして、満たされる。
「君のパンツの色は?」
「パステルカラーの青」
僕の頭はもう痛くなかったし、体は急速に冷えていった。空の四角い雲は丸い。僕の口から白い吐息。鼻に赤が伝って、思考が溶けていった。
その後、長いこと駅構内で事情聴取され、結局僕と少女は示し合わせて、少女の不注意で線路に落ちたのだとした。賠償金は、まあ僕達はどうでもいい。大事なのはもっと他にある。
そうして、学校に行けたのは昼過ぎだった。
薄い鞄を肩から下げて廊下を上履きをすりつつ歩いていると、教室の前で島本先生と鉢合わせた。島本先生のぷりっとした尻はそのままに、でも頬は腫れていない。涙を流した後もなければ、悔しそうに顔をしかめてもいなかった。いつもどおりのスタイルを維持していて、安心した。
「島本先生」と僕は嬉しくなり声が裏返る。
「古沢くん、その頬の腫れは?」
頬を指で触れると、ちくりと痛んだ。右頬だけひどく腫れていた。これほどに強くはたかれるとは思っていなかったので、少し苦笑いを口に含ませてしまう。動かすと再び痛む。 手の跡が残っていなければいいのだが。
「いや、これはなんでもないんです」
僕はただ伝えるだけだ。今日一日を始める言葉を添えて、ぽろっと、軽率に、僕の青さに任せて。
「島本先生、やっぱり僕は先生のことが好きです」
先生はこの廊下の冷気のように冷たく返したけど、僕は知っていた。先生は僕にだけ『くん』付けしてくれているのだということに。先生は僕に優しく微笑み「青い」と告げて、女性的な背筋を見せて去っていく。いつも通り僕はその言葉を浴びせられて、それでも先生を諦めない。明日も明後日も、僕は何度だって告白し続ける。
廊下に知らないうちに出ていた寺原に後ろからぐーで殴られ、茶髪の女子が泣いていた。僕は「ごめん」と謝る。
この後、北原の告白を体育の時間中に聞いて、そして、そして……
「古沢君」と小さな声が聞こえた。
振り返れば、電車で巡り合った彼女の姿があった。廊下が寒気で包まれているためか、声を震わせいた。甘い香りが彼女から匂う。
その子は短いスカートの裾を握りしめていた。握りしめくしゃくしゃになったスカートを徐々に上げていく。僕は背後にいる僕に失恋した彼女に謝るのを忘れて固唾をのんで見つめてしまう。
途端、ぺろっと色鮮やかなピンクの舌を出して、スカートを離す。ひらりと降りていく、その垂れ幕に僕の脳は衝撃を受ける。そのまま降りてくれるな、と願いつつも隠される秘密にドキドキしていた。
瞬間、まだ痛みもひかない頬に痛みが走った。
スカートがもとの位置に戻るまでの数秒間で、彼女は悪魔のように笑い、口元を動かす。
さ、い、てー
スカートがそれをひた隠しにするように、舞台の照明は次々に消され、僕の瞼は落ちていき、世界は静かに暗転していった。
結局僕は君のパンツを見ることが出来なかった。
君のパンツが見たい。 千羽稲穂 @inaho_rice
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます