それでもこの冷えた手が

流々(るる)

ショットバーにて

 もうすぐ日付が変わる。

 駅前の猥雑な風は、ここまで届かない。


 洒落た青銅の看板にちらと目をやり、マホガニーの扉を開けた。

 カウベルの音が響く。

 奥へ伸びたカウンターには誰もいない。

「あ、すいません。もうすぐ閉店なんですが」

 マスターが男に声を掛けた。

「ここで待ち合わせなんです。すぐ来ると思いますから、いいですか」

 ポケットから懐中時計を取り出し、時間を確かめている。

 返事を待たずにコートを脱ぎ、ハイチェアに腰を下ろした。

「素敵な帽子ですね。お似合いです」

 男は嬉しそうに微笑んで、山高帽をコートの上に置く。

「このお店の雰囲気も『ノアール』という名前にしっくりきてますよ」

 黒い革の手袋を右手から外し、マスターの背中に並んでいるボトルを眺めていく。

「バランタインの12年を。ハイボールで」

「かしこまりました」

 冷蔵庫から銅のタンブラーを取り出す。

 氷、ウイスキー、最後に炭酸水が注がれ、男の前にすっと置かれた。

 特有の光沢を帯び、ダウンライトを反射うつしている。

「これで呑むと、より美味しく感じますよね」

 右手でタンブラーの冷たさも味わう。

「ありがとうございます」

「私、バーボンが好きなんですけど、スコッチならバランタインが一番かな」

「なるほど、分かります。スコッチはスモーキーな香りが特徴ですが、これは甘い香りがしますからね」

「そうなんですよ。やはり、こういうお店で呑むのは楽しいな」


 再び、カウベルの音が響いた。

 新しい客は短く刈り込んだ髪を栗色に染めている。

 先客がいることに驚いた表情を一瞬浮かべると、ゆっくりと手前のハイチェアを引いた。

「ビールを」

「かしこまりました」

 三つ離れた席に座った彼へ、男は視線を移す。

 満足そうな笑みを見せるとカウンターへ向き直った。

「マスター」

 ビールの用意をしていた手を止めて、男を見る。

「なぜ彼には言わなかったんですか。もうすぐ閉店だ、って」


 虚を突かれたように眼が泳ぐ。

「いえ、すぐ帰られるお客様だと思ったので」

「ふーん。まぁいいか。待ち合わせ相手も来たので、始めるとしましょう」

 その言葉に二人が驚いた。


「お客様、あちらの方とお知り合いなのですか」

「ええ、私は知っています。はじめまして、上村さん」

 声を掛けられた彼は動揺を隠せない。

「な、なんで、俺のことを知ってるんだ」

「あなたをお待ちしていたんですよ。を持ってくると思って」

 彼の顔色が変わっていく。


「マスターも彼とは初めてですか」

「え、ええ」

「やはり連絡は電話ですね。メールやLINEだと内容が残ってしまいますから」

「あの、何をおっしゃっているのか私にはさっぱり」

 視界に入っていたタンブラーに影が映る。


 男は咄嗟に振り向きながら、手袋をはめたままの左手を頭の上へ掲げた。

 金属同士がぶつかる高い音が短く響く。

「特殊警棒ですか。穏やかに済まそうと思ってたのに」

 狼狽した上村は、さらに男へ殴りかかる。

 軽く体を沈めながらその一撃も再び左腕で受け止める。

 すかさず、がらあきとなった彼の左脇腹へ右拳をめり込ませた。

 前のめりにうずくまる彼の右手から、特殊警棒を奪い取る。

「あぁ、破けてしまったじゃないですか。お気に入りだったのに」

 手袋を外した男の左手は、鈍色に輝くステンレスでかたどられていた。


「こちらで顧客情報リストの売買が出来る、というのは有名になってます」

 呆然としているマスターへ男は顔を向けた。

「二日前に、ある企業からリストが流出したんです。どうやらアルバイトの男が怪しい」

 タンブラーに手を伸ばし、喉を潤す。

「公表すると企業イメージの低下につながるので、内密に取り返して欲しいと依頼が来ましてね」

 マスターは床に倒れたままの上村を見ている。

「旅行に出られていて昨日までお店が休みだったので、接触するなら今日だと思いまして」

 上村を起こしてUSBメモリを取り上げた。

「あの看板、三十万程度しますよね。扉も内装もいいものを使ってる。裏で稼いだ金で贅沢していると税務署に目をつけられますよ」

 聞こえているのかいないのか。

 マスターは動かない。


 山高帽を被り、コートに袖を通す。

 左手はポケットに深く入れた。

 扉を開けようとした手を止め、振り返る。

「そうそう、近くで国立蹴球場の工事が始まるので、また寄らせていただくことがあるかもしれません」


 カウベルの乾いた音が響いた。




               ―了―

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