第64話 恐怖
遠くから、夏樹の声が聞こえた気がする。
気がするだけ。
何も見えないし、聞こえない。
それでも、1つだけ、確かに感じられるものがある。
それは、腕の中にいる星也だ。
星也の少し低い体温が、肌を通して俺に伝わってくる。
もう、力の熱さなんて感じていなかった。
それが星也と一緒にいるからなのか、意識が飛びかけているからなのかは分からない。
「春樹、君……」
今度ははっきりと、そんな声が聞こえた。
星也だ。
「どうした?」
言ってから、自分の声がかすれていることに気が付く。
「春樹君、どこにいるの? ねえ、返事してよ……」
俺は息をのんだ。
もう、星也には俺すら分からないのか?
目を見開いて星也を見る。
星也の目ははっきりと開いているが、そのなかの瞳は、白い大理石のようなものへと変化していた。
「怖い、怖いよ。僕を起きていかないで……!」
「星也」
俺は星也の身体を揺すってみたが、それに対する反応はまるでなく、ただただ怖いと呟くだけだった。
もはや星也の体から力は発せられていない。
星也を連れてここを動けば、この闇から抜け出せるのでないだろうか。
だが、困ったことがある。
足が、足が全く動かないのだ。
どんなに力を込めても、どの方向に動こうとしても、俺の足はびくりともしてくれない。
ぐるり。首を巡らせて、後方を見る。
果たして、そこに見えたのは、闇ではなかった。
闇とは反対の、明るい世界。
まばゆい光に包まれている。
なんとなく、いい香りもする。
あそこに行けば、助かることができるかもしれない。
「星也、行こう」
そう言ってから足に力を込めると、驚くほど簡単に動いてくれた。
一歩ずつ、慎重に光の方へと歩いていく。
そして、ゆっくりと手を伸ばし……
「春樹! 星也! 俺を見ろ!」
突然、声が聞こえた。
鼓膜が破裂するのではないかというくらいの、大きな声。
「本物を見失うな!」
声のした方を見るが、そこには何も見当たらない。
ただ、声が聞こえる。
「こっちに来い!」
その声は確実にどこかで聞いたことのある声だが、誰のものなのかは思い出せない。
ふと、腕の中を見た。
怯えている一人の少年。
この人は、誰だっただろうか。
何も思い出せなくなっている。
言いようのない恐怖が、俺の中を満たしていく。
冥界の伝統は死者の運命 月環 時雨 @icemattya
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