本番はきっかり三十分、一度きりだ。この日集まったクラスの一同はすでになんらかの欲動にとりつかれており、緊張とさみしさのためか、くだらない冗談を言ったり、異常に友好的な態度を見せたりする者が増えていた。ここまで来ればいかに感受性に乏しい人間といえども、高まってくる潮のような予感がわかるようになるのだろう、かれらはみな、近く確実に訪れる未来において、自分たちの仕事がすっかり完了されていることへの奇妙な驚きにめざめていた、それはあらかじめ乗り越えられることがきまっている儀式であり、かりに自分たちがこのまま停止していたとしても、達成のほうがあちらから舞い込んでくるにちがいなかった。なかには早くも打ち上げの話をはじめている者もいる。そうして、暗幕の裏で円陣を組んでいるさなかであった、そう、役者たちはそれぞれ持ち前の衣裳を着て、それ以外の者は一体感をより高めるために作製されたオーダーメイドTシャツの緑に包まれて、両隣と肩を組み合い、ひとりをのぞいた全員で、巨大なOの字をつくっていたのだが、あふれんばかりの、おさえがたい感慨が胸奥より湧き出してきて、そのとき映子は、思わずこう口にしていたのだった。


 ああ、文化祭が終らなければいいのにと。


 いったん幕のあいた演劇。それはもはや何の力にもよらず、ただみずからの秩序にしたがってのみ回る独楽だ。パイプ椅子が敷き詰められた体育館は人でみたされ、両端からの照明があたると、ステージは神秘的な磁場をつくりだし、現実からぽっかり浮かびあがって、孤独な燃焼をはじめる。最後の文化祭、最後のステージ。映子は舞台の袖から、祈るような気持ちで劇の様子を見守っている。

 はたして、滑り出しはこの上もなく好調であった。よく訓練された役者たちはすでに自分自身であることからの責任から全面的に免れていたおかげで、実にかろやかな身のこなし、実にのびやかな声、そして実に自信にあふれた表情で、かりものの性格、かりものの人生を、それぞれ自分自身になりきるよりずっとうまく演じることができたと言うに難くない。わけても樹里亜の熱演はおよそ他では及びもつかぬ域にも達していた。生まれもっての麗人の血と、その内なる動力とが、彼女をして一柱の美神にあらしめ、多く人々の心を魅了した。

 ほかにも過去に例を見ない洗練されつくした演出で、芝居は大成功をおさめるかと思われた。ところが、「――」と樹里亜が語りはじめた、まさにそのときであった、あの忘れられた男がなんの前触れもなく、ゆらりと舞台に降り立ったのは。役者から脱落し、円陣を組んだときにもいなかったあの佐藤が、手榴弾さながらにこの演劇へと投げ込まれてきたのは。


 ほとんどの生徒はみずからに振り分けられた配置に忙しく、その闖入を止める者は運悪くだれもいなかった、樹里亜と混野が会話を交わす短い場面。ステージ衣裳を身にまとい、中央でスポットライトを浴びる二人とは対照的に、紺の学生服をひとりだけ身につけた佐藤は、まるで一箇の染みか、さもなくば影そのものであるかのように、最初しばらくは舞台の端に陣取ったまま、何をするでもなくただ立っていた。たったそれだけのことで、この管理された演劇が深刻な被害を免れなかったことは疑い得ない。いちはやくそれに気づいたのは樹里亜だ。そして彼女からそれとなく指し示されることによって、このあってはならない癌細胞の存在に混野も気がついた。

 ところで、かれら純正なる舞台の役人たちは、まさに役人であるがゆえに、この異常事態に対処するすべを持ち合わせてはいなかった。かれらは第一に台本を守らねばならなかった、体裁を守らねばならなかった。したがってここではとして、見て見ぬふりをきめこみ、かれらはかれらの義務つまり演技を粛々と続けながら、だれかが代わりに手を打ってくれるのをただ待つことになる。

 一方、いまだその場にこびりついている佐藤は、感情のない、動物的とも言えそうな眼光をもって、観客席を隅から隅まで睥睨している様子だ。すると観客の側でも、この新たな登場人物の存在に気づく者がちらほら現れてくる。とはいえこれらの人々のなかに劇の筋書きを知る者はいないのだから、この亡霊のような立ち姿に向けられるのも、もっぱら好奇のまなざし以外にはありえない。つまりいま、佐藤には純粋に期待が寄せられているのであり、観客の目は、かれがこれからいかなる役割を演ずることになるのか、という関心のみに満ちている。

 やがて映子を含め他の構成員たちも異変に気づく。まさに冒涜されかかっている舞台を目の当たりにして怒り心頭に発した映子は、しかしなお迷いがあったか、幕の左端から首を突き出して、「佐藤! 佐藤!」と掠れ声で呼びかけるのが精いっぱいだ。佐藤はそれに果実が潰れたような笑みをもって応えると、突然身をひるがえし、ステージの中央に向かって信じられない声量で、! と呼びかけている――走る動揺と緊張。さすがに舞台上のふたりもこれに反応しないわけにはいかなかった、無視を試みたところで、すべてが過剰な意味を帯びてしまうこの空間では、無視するということがすでにひとつの反応だったのである。

 映子はどのようにしてこの秩序の損傷を最低限にとどめつつ佐藤を退場させるかについて必死で思案していた。無理に取り押さえるなどすればあの夢が台無しになってしまうからだ。樹里亜は気を取り直し、「あなたは知らないでしょう――」と、混野に向かってまた台本通りに語りかけている。はたして混野がそれに応えるべく口を開こうとしたそのとき、! という叫びが再度こだまして、場の空気を無残にも引き裂いてしまうのであるが。

 佐藤は左手に提げた白い紙袋を怪しく振りながら夢遊病者のような足取りで二人のもとへ歩み寄っていき、困惑している樹里亜の手を右手でとる。そこでふたりは、ついに台本にない科白を言ってしまう。


「ええと……あなたは? ジュリア……なんて人、私、知らないけれど。人違いでは?」

「ああ……そういえばあちらのほうで、誰かを捜している人がおりましたよ」


 ここで映子はかれらの連携の意図をすぐさま見て取り、すばやい機転を利かせて、あたかも佐藤と待ち合わせしていたかのような素振りで舞台袖から登場し、適当に場を賑わせながら、かれの腕を引いていこうと考えた。もともと混野の書いた芝居はさまざまな人物が錯綜する群像劇と捉えられていたから、それは可能であった。こうして佐藤は一度、芝居の世界に入り込む。ところがかれらの期待に反し、佐藤は「通行人」という、おのれに付された役割に回収されようとはしなかった……かれは映子を振り払い、一方的に、自分の世界において話し続けるのである。まるでもうひとつの台本でもそこに存在するかのように。


「なにを言う。ぼくのジュリア、ぼくのマルガレーテ、いやぼくのルル……なんだっていい。ぼくと付き合え、いや、結婚しろ。結婚すると言え。いま。この場で。もうそれしかない」


 三者はそれぞれの目を、耳を疑った。そして樹里亜の足元にうやうやしく跪いた佐藤がその手の甲に口づけをしようとして、「やめてください、人を呼びますよ」と手を振り払われたところで、場内にはどっと笑いが起こった。まだ多くの観客の目には、いま起きていることもたんなる演出の一環であると信じられているのだ。じっさいそれが予定調和のアクシデントならどんなによかったことだろう。だが冗談のようで、これは冗談ではないのだ。佐藤の顔に一瞬、失望のような表情が浮かぶ。それからすぐに立ち上がると、かれは手に提げていた謎の紙袋の中身を明らかにする。おもむろに取り出され、見せつけるように高く掲げられたもの、それは甲虫のように鈍い光を放つ、強塩酸のラベルの貼られた壜だった。思わず半歩あとずさる三名。ほとんど忘れ去られていた例の盗難事件のことと、目の前にあるそれとが、重なり合って像を結ぶ。


「もう一度言う。ジュリア、ぼくと結婚すると言え。さもなくば……」


 全員が息を呑んだような一瞬の静寂があったあと、どよめきが沸き立つ観客席。口をぽかんとさせて佐藤に視線を注ぐ者もいれば、思わず隣の顔をぬすみ見てその反応をまねぼうとする者もいる。現実なのか虚構なのかわからない、そんな混乱を視野に入れながら、佐藤は壜の蓋をゆっくりと回していく。極度の精神状態のためか、額には玉のような汗が浮かび、さらに股間のあたりは醜く怒張して、ズボンの下で大きくなっているのがわかる。


「いい加減にしろ」堪えきれず映子が口を挟む。「なんなんだ、なんなんだよ、おまえは……!」

「なんなんだ、とな? いやいや、それを訊くべきなのはぼくだから。なんなんだ、おまえたちは?」


 だれに向けて言ったのかわからなかった。だれもがおのれの身を案じ、この佐藤という男を追い出すことも、歩み寄ることもまたかなわなかった。……やがて、長い沈黙のあと、あきらめたと言わんばかりに、樹里亜は悄然とうなだれて、わかったわ、と口にした。


「とにかく結婚すると言えばいいんでしょう。ええ、しますとも、結婚でも、なんでもね」


 投げやりな言葉。だが佐藤はそれでも興奮と愉悦が絶頂に達したときの奇声を上げて、その狂奔する血の勢いを隠そうともしない様子だった、すでに破滅に身をおいているからだろう、彼はその瞬間においてみずからと全的に一致し、すなわち狂気にとりつかれたように変わって、けたけたと笑った。しかしそれも一瞬のこと。次の瞬間にはあらゆる表情が消え、まるで千の季節が一度に過ぎ去ったかのように、老け込んだ顔になっている。そうして、佐藤は壜の蓋を観客席めがけて投げ込むとすぐ、それを実行した――稲妻のひらめきかと思われるほどの衝撃。それがいつ始まり、いつ終わったのか、観測できた者はひとりもいない、気づいたころには結果だけがそこにあり、みながあっと上げる声も、その効果をより高める演出にしかならなかった、壜の注ぎ口から命あるように迸った液体が、宙で光の幻をみせたあと、嘘のように、瞬く間に樹里亜の美貌をぬらしてしまうとは――目に見えぬ火に皮膚を焼かれる恐怖というのは、人をして苦悶の叫びを上げしむるのではなく、むしろその声を奪ってしまうようだった。樹里亜は両手で顔を覆い、数歩よろめき、しおしおとその場にくずおれている。だがその指の間からのぞき見られる、何が起こっているのかわからない、信じられないといった表情は、およそ語られうる言説を凌駕していた。絶叫したのは観客だ。今こそ虚構はヴェールを脱ぎ捨てる。混沌と化す体育館劇場のなかで、スポットライトを浴びて立つのはまさに佐藤だ。観客席をぐるりと一望し、両手をひろげ、声を大にしてかれは告げる。


「見るがいい、これがほんものの絆だ、これがほんものの美だ、真実だ、理智だ、情熱だ」


 だが想像を絶する喧噪のなかで、半分喚き散らすようなかれの声をききとれる者はほとんど誰もいなかった。佐藤の身がややふらつく。それは酩酊のおわりの頭痛のようなものである。なしとげた行為の大きさに、かれ自身すらも驚いているふうだった。その顔は凄惨に引き攣り、足はなんらかの本能でふるえている。

 茫然と立ちつくす映子の横を、ひとつの影が過ぎ去っていく。……混野が拳を振り上げ、佐藤に躍りかかっている。もはや威嚇をものともせず、かれは正面から佐藤の鼻を折った。壜が手許から離れ、床に落ちて砕けるが、それにもかまわず、混野は仰向けに転がった佐藤の腰の上にまたがり、血まみれになるほどその顔面を殴った。報復や制裁の域ではない。かれの表情は不明である。ただはっきりとわかるのは、かれが黙々と、冷静に佐藤を嬲っているということだ。やがてそれに影響されたか、ようやく我に返った一部の生徒たちのほか、教員たちもみな台本にしたがうように怒りと使命感とをあらわにして、かれらを取り押さえるために、また樹里亜の救護のために、舞台の上へわらわらと群がってくる。

 どこかへ運ばれてゆく樹里亜。いつまでも顔面への殴打をやめようとしない混野。大勢に取り囲まれ、咳き込みながらなにごとか呻いている佐藤。これらすべては、劇の本番最中、きっかり三十分の間に行われた。


 照明が落とされ、辺りはまったき暗黒にみたされてゆく。中心を欠いたざわめきが遠鳴りのように低く押し寄せ、慌ただしく走り回る音に混じって、啜り泣く声や、ひそひそと囁く声、あるはずもない哄笑までもが、たがいに呼応しつつ、どこからともなくひびいてくるようだった。いま映子はそれらのものとひとつになり、横死した舞台に膝を折りながら、全身を支配している異常な鳥肌について、闇から訊ねられている。(了)

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walpurgis 鹿路けりま @696ki

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