マクビカノキ

イドモリ

マクビカノキ

 今からだいたい二十五年ほど前のことだ。私は、今とは異なる町に住んでいた。山あいにある小さな町で、冬は厳しいがその分夏は涼しく、過ごしやすい場所だった。

 人口はさして多くなく、住人のおよそ半分とは顔見知りであるような小さな田舎町だ。子どもの数も大きな町と比べれば圧倒的に少なく、学校も二つの学年を合わせてやっと一クラスが三十人前後になるかというところだった。

 そんな場所なのでヒーローベルトやゲーム機のような目新しい玩具がある店はなく、またそういったものが置いてある家庭もごくわずかで、子どもの遊びといえば外遊びが主流だった。

 私もその例に漏れず、小学校から帰ってはランドセルを家の玄関に放り投げるように置いて外へ遊びに行った。

 ただ、当時の私には他の子どもたちと一緒に仲良く遊ぶ、ということが難しかった。例えば、昼休みに校庭へ集まってドッジボールをするよりもブランコをどれだけ大きく漕げるか試すのが好きだったし、放課後に公園で鬼ごっこをするよりも山に入って探検をするほうが好きだった。要は、大勢でにぎやかに遊ぶのが苦手だったのだ。


 そんな私にも、外遊びに付き合ってくれる友人がいた。絹木桑一きぬき そういちという、おそらく当時の私より少なくとも十は年上の青年だ。正確な年齢も、どこに住んでいるのかも知らないがこの町の生まれで、どうやら冬の間だけ町に帰省しているようだった。

 初めて私が桑一と出会ったのはまだ小学校に入る前、五歳くらいの頃だ。私が山遊びをしていたところへ、彼がやってきたのが始まりだった。




 その頃にはもう、吐く息が真っ白になっていたことを未だによく覚えている。私は、かくれんぼをしようと盛り上がる同じ組の子どもたちを、そっと避けるようにして山へ向かった。

 冬に入り、葉の落ちた木が目立つためか、山はどこか寒々しい。枯れた草花をがさがさとかき分けながら、私は山に踏み入る。

 山に入ることに、特に恐怖はなかった。山の手入れを任されていた祖父に連れられて既に何度か入ったことはあったし、何より当時の私にとって山というのは、どれだけ遊んでも遊びきれない、どんなおもちゃよりも楽しい最高の遊び場だったのだ。


 この日の私は、ネコヤナギを探していた。

 ネコヤナギというのは、ふわふわとした穂のような花が咲く木だ。秋によく見るねこじゃらし――エノコログサと似ているかもしれない。私は冬の間のネコヤナギの芽が好きで、枝を持ち帰っては芽を切り取って手のひらで転がしながら、花とは違う少しすべすべした感触を楽しんだ。

 山に入って、裸の木の中に白い芽のついた木はないかと目を凝らす。前に見つけた木はどこにあっただろう。ひょっとすると、祖父がもう切り倒してしまっただろうか。

 しばらく根気よく山を探し回っていると、ようやく枝に白い芽をつけた木を見つけた。手を伸ばして触れてみると、芽は程よく柔らかで心地いい。これを持って帰ろうと枝を一本手折ったところで、私は気が付いた。

 日が暮れてきていた。

 見上げた枝の間から覗く空は橙色を通り越し、もうすぐ紫や藍に染まろうとしている。山の中も薄暗くなり、どちらへ向かえば山を出るのか、ネコヤナギを探すうちにわからなくなっていたようだった。

 どうしよう、と立ちすくむ私の背後からがさがさと草をかき分ける音がした。祖父かもしれない。そう期待して振り向いた私は、びくりと体を強張らせる。

 やって来たのはひょろりと細長い、知らない男だったのだ。首には草色のマフラーを巻いて、服は上下ともに黒い。父よりは若く見えるが、前髪が目を覆い隠すくらいに長いために、ぱっと見ただけでは年齢の判断がつかず、明らかに年上だということしかわからない。

「ははあ。やけに小さいのが山にいると思ったら。迷子か」

「……」

 知らない、しかも少し怪しげな風体の男に「迷子だ」と正直に告げるのは何だか癪で、私は口をきゅっと結んだ。だんまりを決め込んだ私を見て、男は困ったように頭を掻く。

「お前……、まあいいや。それ、ネコヤナギか。墨つけるといい筆になるよなあ」

「筆?」

 思わず私が口を開くと、男は「ああ」と頷いた。

「絵筆にも使えんだよ」

 と話す男に、私は感心した。確かに筆の穂先のようだと思ったことはあったが、実際に筆のように使って遊ぶことができるとは知らなかった。怪しい男だと思ったが、自分や祖父よりももっと山に詳しい、すごい男なのかもしれない。私の中で警戒心よりも興味や好奇心が大きく膨らんだことに気付いたのか、男はフウと息をついて手招いた。

「ほら。送ってってやる。もうすぐ真っ暗になんぞ」

「……わかった」

 知らない人についていってはいけません、と眉や目尻をきっと吊り上げる母親の顔が脳裏を過ぎったが、私一人ではきっと山を出られないだろう。どうやら山に詳しいすごい人で、悪い人ではなさそうだし、などと頭の中で言い訳をして、私は男についていくことにした。


 男は、山の斜面や凹凸を感じられないような軽やかな足取りで山道を進んでいく。

 彼の後ろをついてしばらく歩いていると、思っていたよりも早く山から出ることができた。どうやら私は、まだ浅いところで迷っていたようだ。

 それなのに、もう帰れないのではないかと考えかけた。そんな恥ずかしさに顔を赤くしていると、頭上からクツクツという声が降ってくる。私が見上げると、男が口の両端を弓なりに上げて、さも面白そうに笑い声を漏らしていた。

「……笑うなよ」

 私が男のことを睨めつけると、彼は肩をすくめる。

「悪い悪い。つい、なあ」

 彼の長い前髪の下にある目が、まだにやにやと笑っているような気がした。

 私が不満にむくれていると、五時になったことを知らせるサイレンが流れ始めていることに気づいた。この町の住人にとっては耳慣れた、『七つの子』のメロディだ。

「ほら、時間だ。気をつけて帰れよ」

 男が私の背を軽く叩く。それでも、まだ小さな私の体はよろめいた。

「ねえ。兄ちゃん、何て名前なの」

「ん。ああ、おれか? 桑一。絹木桑一ってんだ」

 男は、自分の顔を長い指で指しながら言った。

「良い名前だろ?」

 フフンと自慢げに笑う男――桑一になんと返せばいいのかわからず、私は曖昧に頷いた。漢字も習い始めていない私には、桑一という名前がどんな意味を持つのかもよくわからなかったからだ。

「……まあ、坊にはわからんか」

 桑一は少し落胆したように肩を落としたが、ふと何か思いついたように顔を上げ、私の前にしゃがみ込む。

「なあ、坊。山は好きか」

「えっと、うん。好きだよ」

 私が頷くと、桑一は「そうか!」と口を開けて笑った。その時私は、桑一の口元がとても表情豊かに動くことに気付いた。口の動きを見ていると、見えない目元まで見えてくるような気がする。今、目の前で口を開けて明るく笑う桑一の目は、きらきら光っているのではないかと思うほどに喜んでいるようだった。

「坊、そんならまた遊ぼう。ネコヤナギの他にも、遊び方教えてやるよ」

「ほんとう?」

 私にとって、これはとても嬉しい誘いだ。自分よりも山の遊び方を知っているひとに、遊び方を教えてもらえるのだ。祖父は山で仕事があるし、父や母はそもそも山には入りたがらない。

「遊ぶ!」

 と、私はすぐさま大きく頷いた。

「じゃあ、また明日。昼飯食ったら山の入り口で会おう」

「わかった!」

 私がまた深く頷いたことに、桑一は満足そうに口の端を少し釣り上げて笑った。辺りはいつの間にか、しんとした冬の静けさを取り戻している。

「ああ、サイレンも終わっちまった。今度こそ帰れよ。気を付けてな」

 桑一は、また私の背を叩く。しかし今度は、もっと力を加減してくれたようだ。もう私はよろめかなかった。

「ん。じゃあ、また明日!」

 母親に帰りが遅いと叱られないように、私は駆け出す。後ろから「転げるなよ!」という桑一の声が追いかけてきていた。


 それからだ。その冬の間、私と桑一はほとんど毎日遊ぶようになった。

 同年代の友達もそう多くない私が彼に懐き、次の冬が来るのを心待ちにするようになるまで、ほとんど時間はかからなかった。




 小学校に入学し、私は初めての冬休みを迎えていた。しばらくは新しい生活に慣れることに必死だったが、季節が一周して秋が終わり、葉の落ちきった裸の木が目立つようになってくると、私は桑一のことをよく思い出すようになった。

 冬の間、私の遊び相手になってくれた年上の友人。厚く積もった雪が解け始めた頃、ある日桑一は「またな」と言って、山に来なくなった。後になってどこに住んでいるのか、手紙を送っていいか尋ねればよかったと気づき、私はとても悔やんだのだ。

 また彼が町に帰ってくるのかわからないまま、この冬も、毎日のように私は山へ出かけていた。

 草が踏まれ、抜かれて土の色が露出している拓けた一帯を、町の人間は「山の入り口」と呼んでいる。そこにはいつ置かれたかわからないベンチがずっと放置されていて、三人ほど座れそうな座面は風雨に晒され朽ちているために、たった一人座っただけでぎしぎし軋む。

 私はそのベンチに毎日座って、一抹の寂しさを抱きながら桑一を待っていた。

 そんな日が何日続いただろう。少なくとも両手の指では数えきれなくなって、もう来ないのではないかと思い始めた頃だ。桑一が帰ってきたのは。


 私はその日も、山に向かった。家の裏手を通り、獣道を抜けて、坂を駆け下りる。

 辿り着いた山の入り口。いつも通りベンチに走り寄ろうとした足が止まった。昨日まで無人だったそこに、先客がいたのだ。ひょろりと細長い体、長い前髪に、草色のマフラー。

 ――桑一だ。

 一年経っても、彼は私のことを忘れずにいてくれたのだ。ずっと待ち続けていた時の寂しさも吹き飛んで、私は嬉しくなった。

「桑一!」

 私が名前を呼ぶと、彼はニッと口の端を釣り上げ、歯を見せて笑う。猫みたいだ、と思った。いつだったか絵本で見た「チェシャ猫」が、ちょうどそんな笑い方をしていたのだ。

「よお、坊」

 桑一は、決まって私のことを坊(ぼう)、と呼んだ。私が名前を名乗っても、坊、と呼ぶ。赤ん坊扱いでもされているような気がして私は何度も怒ったのだが、いくら訂正しても直さないので、すぐに諦めたのは去年のことだ。

「一年ぶりだなあ。今年から小学校に入ったんだっけか」

「うん。一年生」

「ランドセル背負って行ってんのか。あれ、重いだろ」

「そうでもないよ」

 私が少し見栄を張ると、桑一は「ほんとかあ?」と言ってにやにや笑った。桑一の前髪は随分長い(曰く、都会風らしい)ので目元が見づらいが、その分口元が表情豊かに動くことを、私は知っている。

「じゃあ坊、遊ぶか。何する?」

 よっこいせ、と年寄りくさいかけ声で桑一がベンチから立ち上がる。その姿に向かって、「山!」と私は大きく声を上げた。


 山に入ると、桑一は籠の編み方を私に教えてくれた。山に自生しているツタをとり、石で何本かに切り分けて編んでいくのだ。葉が枯れ落ちたツタはがさがさした手触りだったが、幼い私の手にも扱いやすい柔らかさだ。桑一の手元を真似ながら、追いつこうと必死に手を動かした。

「なあ、坊」

 夢中になって籠を編んでいれば、時間はあっという間に過ぎる。遠くから五時になったことを知らせるサイレンが聞こえてきた。この町の住人にとっては耳慣れた、『七つの子』のメロディだ。

「帰るか」

 地面に座り込んでいた桑一が立ち上がり、私に声をかける。

「ええ……」

 私は手元を見下ろした。編んでいた籠は、まだ半分も出来上がっていない。渋る私に、桑一が自分の籠を投げて寄越した。

「坊、嫌そうな顔すんなよ。それやっからさ、見ながら家で編めって」

「……わかった」

 桑一の籠を拾い上げる。木の実を入れるのに良さそうな、しっかりした籠だった。

 日が暮れないうちに私と桑一は山を下りて、入り口のあたりで別れた。この時間になると一層肌寒さは強くなって、私は厚い上着を持ってこなかったことに後悔しながら家に帰った。




 次の日も、私は学校から帰ってすぐに山に向かった。目指すのはもちろん、桑一のいる山の入口だ。

 山に辿り着いた私が「桑一!」と声を張り上げると、桑一はのっそりとベンチから起き上がる。今日はどうやら、ベンチで眠って待っていたようだった。

「坊か」

「そんなとこで寝たら、風邪ひくよ」

 母が、この季節になるといつも私に口を酸っぱくして言う言葉だ。家の居間で居眠りしていてもそう言われるのだから、外で眠ったりしたら風邪をひくにちがいない。

「おれは大丈夫なんだよ」

 しかし桑一は、私の忠告を全く意に介さずに、わざとらしく歯を見せてにやりと笑った。

「なんで?」

 幼いなりの気遣いを無下にされた私は、不満を顔にありありと浮かべて桑一にたずねる。

「なんでってそりゃあ、坊、そういうもんだからさ」

「ぜんぜんわかんない」

 ぶうぶうと私が不満を口に出すと、わざとらしく桑一は手を叩いた。

「ようし、今日は――」

「山! 籠の続き!」

「まあ待てって」

 桑一は、まるで動物にするようにドウドウ、と私に掌を向けた。

「ちょっとさあ、面白いもんがあるんだ。雪で通れなくなる前にさ、見に行こうぜ」

 そう言った桑一は、山の奥へずんずんと入っていく。私も面白そうだと思ってついていったが、桑一と私では歩幅の大きさが異なるのだ。なかなか追いつくことができない。

「桑一、待って」

 私は山を登るのに必死だった。桑一はすいすい慣れた様子で、軽やかに山の斜面を登っていく。しかし、その動きを真似るには、私の体はまだ小さすぎた。

「桑一! 待ってってば!」

 荒い息をこぼしながら私が名前を呼ぶと、桑一は数歩先で立ち止まった。ひいふうと息をつく私を見て、今思い出したとでもいうように「ああ」と呟く。

「坊が登るのはまだ早かったかあ。ほれ、手貸せ」

 桑一が私のほうへ手を差し出す。手袋をはめた大きな手だ。青年らしい大きく固い掌を掴むと、私の体は難なく引き上げられる。

 そのまま桑一は私を抱き上げ、再び山を登り始めた。

 抱き上げられ、目線の高さに身がすくんだ私は、思わず桑一の首のあたりに腕を回した。「おい」と桑一が声を上げたが、不安定な姿勢だから仕方ないとでも考えたのか、すぐに何も言わなくなる。父に抱き上げられた時よりも、ぐんと目線が高い。桑一は、どうやら私の父よりも背が高いようだった。どうりで見上げていると首が痛くなるわけだ。

 ふと桑一の頭を見下ろした時、私は、桑一の首に何かがついているのを見つけた。よくよく見てみると、それは糸で布を縫い合わせた時のような形をしていて、彼の首をぐるりと一周している。

「ねえ、桑一。なにこれ。縫い目みたいなの」

「うん? ああ、それかあ。それなあ、刺青」

 都会風だ、かっこいいだろ、と言って桑一が笑った。

「向こうでなあ、彫ってもらったんだ」

「ふうん」

 刺青の意味もよくわかっていなかった私は、特にかっこいいとも思わず、むしろ少し不気味に思ったのだが何も言わなかった。もし彼の機嫌を損ねて、腕からうっかり落とされでもしたらたまらない。

 その後はじっと黙って、ただ桑一にしがみついていた。


「ほら、坊。あれだ」

 足を止めた桑一が指さしたのは、古ぼけたお堂だ。めったに人もいない山の奥に建てられている割に、屋根瓦や壁の板は細かな修繕が施されているようだった。

 桑一は随分慣れた様子で、お堂の中へ入っていく。

「なあ。大丈夫なの、勝手に入って」

 どう見ても廃墟ではなさそうなお堂へ入っていく桑一に、私は誰かに叱られやしないかとひやひやした。

「大丈夫さ。誰も見てないだろ」

 私がぐるりと周囲を見回すと、桑一の言う通り人はいない。

「面白いのはあれさ、坊」

 桑一の声に、私は周囲を見回していた目を、彼が見ているほうへ向ける。


 お堂の中に吊り下げられていたのは、たくさんの布の塊だった。赤や青、黄や緑、様々な色や柄の布が白い紐で繋がれて、天井から雨のように無数に吊り下げられている。

 お堂の戸から風が入り、布同士が擦れ合って立てるしゃらしゃらという衣擦れの音が、耳に心地よい。

「すごい……」

「だろう? これくらいの時期が、一番いい音を立てるんだ。雪が降る前の風は、喧しくないからな」

 私を抱き上げたまま、桑一は喉を鳴らしてくつくつ笑った。

「これ、なに?」

 無数の布の塊を見て、私は首を傾げた。こんなにたくさんの布の塊が、まさか無意味に吊り下げられているなんてことはないだろう。

 すると桑一は布の塊へ向けていた視線をするりと私のほうへ戻し、一言、薄い唇を動かした。


「マクビカノキ」


「まくびかのき?」

「正確に言やあ、マクビカノキだったもの、かねえ。昔は、七つになるまで子どもの枕元に置くための人形で、子どもに悪いことが近寄ってくると、それを教えるんだ。最近はあんま見なくなったなあ」

 桑一は、吊り下がっている人形のうちの一つを手に取って私に見せた。

 布の塊ではなかった。木でできた体が、布を重ねた服をまとっていたのだ。ただ、人形に首はない。首が出ていたであろう部分には、鋸で切ったようなざらざらした切り口がついている。

 そのあと桑一は、東北のほうから流れてきた文化が変化したもので、本来は馬を象った頭を持つ木彫りの人形であることや、ここに使わなくなった人形を集めて祀っていること、祀られる人形は全て首を切り落とすのだということを私に話して聞かせた。

「どうして首をとっちゃうの?」

「さあて、どうしてだったかなあ。子どもと眠る人形は、そのうち魂を持つようになるんだって言われたことはあるなあ。魂を持った人形は生きているから、そのまま捨てると怒っちまうそうだ」

 桑一は軽く首元を掻きつつ、記憶を辿るような素振りをしながら答えてくれた。

「だから一旦首を落として、そうして死んだのを供養して祀るんだと」

 ただ、どうやら桑一も確かなことまでは知らないようだった。

 ふうん、と返して、私はしばらく衣擦れの音に耳を傾ける。そのうち遠くから『七つの子』のメロディが幽かに聞こえてきた。

「ああ、サイレンだ。じゃあ坊、帰るか」

「うん」

 私は、帰り道も桑一に抱き上げられて帰った。あのお堂で聞いた衣擦れの音が、こびりついたように耳の奥に残っていた。




 この冬は、雪が厚く積もるのが随分早いように思われた。

 朝起きた私はセーターを着込み、マフラーや手袋を着けて、父が雪かきをするのを手伝ってから公園に向かった。

 私が山の入り口に着くと、やはり桑一は既に着いていたようで、いつものベンチのそばにゆったりと立っていた。ベンチの座面にも、厚く雪が積もっている。

「桑一!」

「よお、坊。もう学校休みだろ。それにしちゃ遅かったなあ」

「父さんの手伝いやってた。雪かき」

 桑一にそう伝えると、彼はぱちぱちと目を瞬いて「そりゃえらいなあ」と言った。

「坊はえらいや。雪かきか。俺は苦手だ」

 ずっと年上の桑一に褒められたのが、私は誇らしかった。父や母のような、家族に褒められるのとはまた違う、少し自分が大人に近づいたような気持ちだ。

「なあ坊、今日は何する? カマクラでも作るか」

「作る!」

 私が声を上げると、桑一は大きく口を開けて笑った。

「そうか。じゃあそうしよう」

 桑一は山には入らず、その場にしゃがみ込んで雪を集め始めた。私も彼にならってしゃがみ込み、雪を集めていく。

「俺と坊では手の大きさが違うからなあ。坊、おれが固めたのを、積んでってくれるか」

「わかった」

 頷いた私の、手袋をはめた手に、桑一が固めた雪を乗せる。なんとか掴めるくらいの大雪の塊は、なるほど、確かに私の手では作るのに時間がかかりそうな大きさだった。

 桑一が雪面に描いた円をなぞるように、雪の塊を置く。「ほい」と次の塊を渡され、先程置いた雪の隣に、ぴったりと寄せるようにまた置いた。

 黙々と、ひたすら雪を並べていく。どう置けば隙間なく積んでいけるのか、懸命に私が考えているのがわかったのだろう。桑一はあまり口を出さない。そして私は、どうも夢中になると黙り込んでしまうようだった。


 ひたすら雪を固めては積み、固めては積みを繰り返していると、びゅう、と風が吹いた。風はとても冷たく、私は思わず首をすくめる。

「――が来るぞ」

 縮こまった私の横で、桑一が不意に呟いた。カマクラを作る手を止め、口元をぎゅっと引き結んだ彼の顔は、目元が見えずとも厳しい表情をしていることがすぐにわかった。

「えっ?」

 私は聞き返したが、桑一は「何でもねえよ」と言って首を横に振るばかりだ。私が何度聞き返しても教えてくれることはなく、結局何を言ったのかわからないまま、いつも通り『七つの子』のサイレンが流れ始めたところで桑一と別れた。




 真夜中。母の隣で布団に潜りこんで眠っていた私は、大きな物音で目が覚めた。

 ドンドンドン。

 玄関の引き戸を叩く音だ。こんな真夜中に、誰が。私が恐怖に青ざめていると、母も物音で目を覚ます。

 母は表情を硬くして、ただ何も言わずに私を抱き込んだ。

 二人でじっと息を殺していたが、音は鳴りやむことなく次第に大きく、強くなっていく。戸のガラスが割れるのではないかと思うほどに大きな音が、家じゅうに響いている。

 バンバンバン。

「おい!」

 と、いつも別の部屋で眠っている父の、怒鳴り声が聞こえた。やはり父も物音で目覚めたらしい。ドタドタと荒っぽく玄関に向かう足音が聞こえて、

「おい、誰だあんた! 今何時だと思ってんだ!」

 と、再び父が怒鳴った。戸を叩く音が止む。戸を叩く誰かもさすがに家主に怒鳴られれば帰ったかと、母親とそろってほっと安堵したが、今度はさらに強く戸が叩かれた。

 ガンガンガン!

 硬いもので殴っているような音だ。心なしか、ガラスが今にも割れそうに軋む音まで聞こえる気がする。

「おい! おいやめろ!」

 父はさらに怒鳴り声をあげたが、その声には戸惑いが滲んでいる。

「……しっかりお布団被って、じっとしてて」

 母が私の耳元で囁き、身を起こした。母の言いつけを守り、私は布団に深く潜り込もうとしたが、やめた。一人にされるのも嫌だったが、こんな夜中に家へ訪ねてきた、誰かの正体も気になったのだ。そっと身を起こし、部屋を出た母を追う。

 ガンガンガン!

 音は未だに止まず、家じゅうに響き続けている。

 引き戸の向こうには背の高い誰かが確かにいるようで、何度も何度も腕を振り下ろして戸を叩く動きが見えた。ガラスは擦りガラスになっているために、その姿ははっきりとはわからない。

「誰なんだ、あんた。いい加減にしてくれ!」

「そろそろ止めてもらわないと、お巡りさんを呼んできますよ」

 父の困惑と苛立ちの混じった声に続いて、母が引き戸の向こうへ声をかける。その間も止むことのない音に、私は思わず「母さん……」と母の手を握る。当然母はこっそり部屋を出てきた私に気が付いて、困ったように笑ってから私の頭を撫でた。

「ごめんなさい」

 と私が母に謝った瞬間。ぴたりと音が止んだ。父が怒鳴った時のように、すぐにまた再開されることもない。まるで、私の声が聞こえたから、戸を叩くのを止めたかのようだ。


「悪いことが来るぞ」


 戸の向こうから、今度はべったりとガラスに手が押し当てられる。人の手の形をしているが、肌にしてはやけに色がくすんでいた。

「悪いことが来るぞ」

 戸の向こうにいる誰かは、青年のような老人のような、年齢の判断がつかない男の声でぼそぼそと話し続ける。

「悪いこと。悪いことが来るぞ」

「明け方、空が白む頃」

「悪いことがくるぞ、山の方から」

「離れろ」

「逃げろ、悪いことから逃げろ」

「明け方、悪いこと」

「空が白む頃!」

「来るぞ! 逃げろ!」

 囁きかけるような、あるいは呟くような細い声は、言葉を重ねるにつれて声量を増し、とうとう喉が枯れそうなほどの大声でがなりたてる。再び、戸を叩く音も始まった。

 ひゅ、と母が息を飲むのがわかった。父も顔を青ざめさせて黙り込む。ただの悪戯ではない。戸の向こうにいる誰かには、そうとは思えない異様さがあった。

「だれ」

 母の手を強く握り、声を震わせて私がたずねる。また、音がぴたりと止んだ。


「マクビカノキ」


 そう答えが返ってきた後、戸の向こうからざり、ざり、と重たい布を引きずるような音が聞こえた。私は、桑一と見た人形を思い出す。確かあの人形は、たくさんの布を纏っていた。しかし、人間ほどに大きい人形はいただろうか――。ともかく、戸の向こうにいた誰かは去ったようだった。

「……いなくなった」

 私が呟くと、父と母は顔を見合わせる。真夜中、私は父と母に連れられて、少し離れた祖父母の家に向かった。事情を聞いた祖父母はすんなりと私たちを受け入れ、そして私たち親子は、布団を敷いた居間で三人並んで眠った。


 唸るような低い音を、うとうとと船を漕ぐ中で聞いたような気がした。


 私が目覚め、雪崩が起きたと教えられたのは、もうかなり高い位置まで太陽が登ってきた次の日の昼頃のことだ。雪崩の規模はまだ小さいほうだったが、町の中でも一番山に近かった私の家は、半分以上が雪に埋もれていたらしい。

 遅い朝食をとってから、山の様子を見に行くと言った祖父について、私は山へ向かった。桑一と何度も待ち合わせをした山の入り口も、ほとんど雪に埋もれていた。ベンチの背が雪の中から顔を出している。当然、作りかけのカマクラの姿はない。全て雪に埋もれ、押しつぶされて、春には跡形もなくなっているだろう。

 祖父が、がしがしと私の頭を撫でた。

 私がちょうど七歳の誕生日を迎えた日。そして、桑一の姿を見かけなくなった日のことだった。




 七歳になったあの冬の日から、桑一に会うことはぱったりとなくなった。

 会わなくなったのではなく、会えなくなったのだ。どれだけ山の入り口で待っていても桑一がやってくることはなく、しばらくして私は町を去り、大人になった。


 よく晴れた日の暮れのことだ。きっと夕焼けも美しかろうと、私は外へ散歩に出た。町の中でも一際見晴らしの良い河川敷までは、家を出て五分とかからない。

 空を見上げれば、思った通りに美しい。青はもう随分遠くへと押しやられ、代わりに薄い黄色や紫、橙や赤の光が、見事なグラデーションをつくって空や雲を彩っている。

 かつて住んでいた町のことを思い出した。あの小さな町にある山から、夕焼けが空や、家や、田畑の全てを赤く染め上げる様子を眺めるのが、私は好きだった。

 懐かしさに浸っていると、ちらちらと光の踊る水面が目に入る。赤く輝く河を眺めようと足を踏み出した、その時。


 歌が聞こえた。


 ああ、これは『七つの子』だ。何度も何度もサイレンで聞いた、懐かしいメロディ。

 朗々と歌う声は、一体どこから聞こえてくるのか。どうやら男のものらしい歌声は次第に私のほうへ近づいてくるが、しかし声の主の姿はいっこうに認められない。

 歌声は、そのまま私のすぐそばを通り過ぎる。声はこんなにはっきりと聞こえるのに、姿だけが、どんなに目を凝らしても見つけられないのだ。

 通り過ぎる瞬間、軽やかな足音と山の匂いを感じた気がした。ああそうか、と寂しいような、しかし穏やかな気持ちが胸中に満ちる。

 七つをとうに過ぎ、私は大人になってしまったのだ。

 じっと耳を傾けていると、やがて歌は聞こえなくなった。

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