第3話 邂逅。
「おい、なにやってんだ。早くしろよ」
僕の背後で、相棒が小声で急かした。返事の代わりに舌打ちを寄越し、錠前と格闘していた。遠くで鋭い鳥の鳴き声が響く。荒れていた呼吸が、途端に堰き止められる。耳に痛い静寂が流れ、その中で自分の呼吸の音がくぐもって聞こえる。自分の指先が小刻みにふるえているのがわかった。見かねた相棒が言った。
「おい、私が代わってやろうか? 自分の家の錠前も満足に外せないほど、どうしようもない存在だとは知らなかったぞ」
「黙ってろ、気が散る」
「我が家の鍵くらい、気が散ってでも開けてみせろ!」
相棒が肩越しに僕の手元をのぞき見る。我が家の扉には、五つの錠前がついていた。今、やっと三つ目が外れたところだった。「チッ」相棒が舌打ちを返す。
「妹が中に居るんだろ? 外からこんなに鍵をかけるもんかね?」
僕は返事をしなかった。すべての鍵を開け終えると、相棒が真っ先に中へ入っていった。その背中に、小さな子どもの姿をしたものを背負っている。両足がなく、左腕もない。人間ならば、もう死んでいてもおかしくない損傷だ。なのに、子どもはまるで眠っているかのように、苦悶のひとつも浮かべず静かに瞼を伏せている。当たり前だ。こいつは、最初から死んでいたのだから。その血に汚れた顔を見ていると、自然と眉間に皺が寄っていたことに気付いて、視線を外した。どうして、こんなことになってしまったんだろう。
「あぶない!」と叫んだときには、既に遅かった。
小さな人影を馬が前方に跳ね上げ、速力を落としきれずに荷馬車の車輪がさらに踏んでいった。ご、とん、と荷馬車が揺れた。相棒が手綱を引き、興奮した馬をなだめる。うしろをふり返り、ぞっとした。
路上に転がっているのは、どう見ても小さな子どもだった。
馬車を飛び降り、足をもつれさせつつも、駆け寄る。
子どもの両脚は車輪に轢き潰され、ほとんど千切れていた。馬に蹴られたときに、咄嗟に顔をかばったのか、左の上腕部に生々しい蹄の跡が残っていた。脚と違ってまだくっついているとはいえ、二度と動くことはないだろう。それさえも、生きていればの話だ。子どもはぴくりともせず、糸の切れた人形のように力ない。
あまりの痛ましさに、僕はしばらくの間、呆然とした。
「おい、なにボサッとしてる? さっさと逃げるぞ」
相棒が信じられないことを言った。
「逃げるだって? 正気で言ってるのか?」
「お前こそ正気かよ? よく見てみろ」
相棒が死体を顎でしゃくって見せる。冷静になってみると、確かに妙だった。損傷に比べて、出血の量が少なすぎる。死んだばかりの死体を切断したって、もっと血が噴き出すはずだ。つまり、この子どもは死んでからずいぶん時間が経っていることになる。そしてこの街で動く死体は、すべて人外のものと決まっていた。
「なんだかわからんが、奴等の乱痴気騒ぎはこいつが原因らしいな」
そう言って、子どもの頭を爪先で軽く蹴る。小さな頭部がヒモのついたボールのように、あっけなく転がった。フードがずり落ち、素顔が晒された。思わず、息を呑んだ。その顔の半分以上が、ぐずぐずと音を立てて溶け続けていた。まるで、強酸性の液体をかけられた直後のように。「奴等だ」相棒が端的に断定する。僕も同意見だった。人外を攻撃しようとする人間など、この街にはいない。
「さっさと行くぞ。巻き込まれたら馬鹿みたいだ」
相棒に急かされ、うなずく。しかし、僕は眼下の小さな死体から目が離せないでいた。何かが引っかかっていた。死体のそばにしゃがみ、頭を少し、傾けてみる。怪我のない、きれいな半分の顔。僕は、その顔つきに見覚えがあった。
「……ノゥネ?」
不意に幼い頃の記憶が脳裏を巡った。当時の苦々しい感情がよみがえる。そして、ほとんど反射的に、僕は彼の名前を呼んでいた。
「なんだ、知り合いか?」
相棒の問いに答えようとした、そのときだった。
言いようのない強烈な嫌悪感が僕を襲った。
「う、」
思わず、両手で口元を押さえてしまう。
突如、胃の内容物がせり上がってくる感覚に襲われた。胃が痙攣するのを、腹に力を込めてこらえる。何が起きた? と思うそばから理解する。潮の匂いが、腐敗臭が、急速にその濃度を増していた。不用意に息を吸えば、呼吸器官が順繰りに腐っていきそうな気がした。すぐそばに、いる。
僕らは無言で見合い、うなずきあった。
悠長に話し合っている場合ではない。一秒でも早く、この場を離れなければ。
僕は一目散に馬車に向かって走り出す。足は恐怖でもつれ、何度も躓きそうになる。その度に腹の底がひやりと冷たくなった。転んだところで、すぐに立ち上がれば良い。だけど、一度でも転んでしまえば、そのまま二度と立ち上がれないような気がした。
何とか荷馬車に辿り着き、奴等の気配に怯える馬を雑になだめる。御者台に這い上がって相棒のほうをふり返り、驚愕した。相棒は背中にノーネを負ぶっていた。相棒が馬車に飛び乗るや、僕は唾を飛ばして叫んだ。
「どうしてそいつを連れて来るんだ!」
誰が見てもわかることだ。街をうろつく人外共は、おそらくノゥネを追っている。それを連れて行くということは、生肉を背負って飢えた猛獣と追いかけっこをするようなものだ。そして、僕らは猛獣に襲われるよりも、もっと碌でもない末路を辿ることになる。そもそも、放って逃げようと言い出したのは相棒のほうだったはずだ。
すると、相棒は不可解なものを見るような目で僕を見た。
「お前の知り合いなんじゃないのかよ?」
相棒の真っ直ぐな眼差しに、僕は思わずあらゆる文句を飲み込んでしまう。視線を合わせていられず、僕は目を逸らした。クソ、と脳内で吐き捨てる。どうして、あのとき僕は名前を呼んでしまったんだ。
「……友達だったのは、そいつじゃない」
「ははは。何とでも言え。死体狩りも飽きてきたところだ。ここいらで人外狩りでもおっ始めて、敵国におもねるのも悪くないかもな?」
ほとんどやけくそになったような調子で、相棒は笑う。僕は溜め息をついた。疲労と緊張と恐怖で、もはやまともな思考すらままならない。追跡される危険性も度外視して、馬鹿な僕らは真っ直ぐに僕の家へと馬車を走らせた。
デストラクション・ガール。 枕くま。 @makurakumother2
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