第2.5話 痛みの生成過程。


 帰り道、馬車は僕の家を目指して走っていた。


 夜明けが近いはずなのに、太陽は未だ頭を出さず、相変わらずどんよりとした暗闇が街を覆っていた。僕の家は街の北端のほうにあった。老婆の屋敷がちょうど中心部にある。街の道路は複雑に入り組んでおり、直線距離では近くとも、その倍以上の時間がかかってしまう。蹄と車輪の音が淡々と響いている。僕が再三に渡って御者台のあまりの固さに文句を言い続けていると、相棒は率直に「死ね」とつぶやいた。


 いつ目の前に人外の恐ろしい姿が表れるかわからない状況で、僕らの心はすっかりささくれていた。


「そうだ。健康のためにもここから歩いて帰ってくれないか? 明日になって、もし生きてたら駄賃をやるからさ」


 さも名案を思いついたかのように相棒が言った。


「馬鹿言うな。引きずられたって荷馬車にしがみついてやるからな」

「困ったな。そうなったらドンドン速度を上げなきゃいけなくなる。ボロクズになった死体は客のウケが悪いんだけど」


 それっきり、会話がぷっつりと途切れた。


 疲れのあまり、真綿が水を吸ったように、全身がずっしりと重たい。だんだんと強まっていく潮の匂いと、腐敗臭に緊張ばかりが張りつめていく。やがて、その糸もぷっつりと切れてしまって、僕は無心のままぼんやりと抱えた黒い鞄を見下ろしていた。


「……はい、わかりました。か」


 先ほど、屋敷で吐いた言葉を、くりかえしてみる。なんて空虚な言葉なんだろう。『はい、わかりました』自分で思い返しても、吐き気がする。僕はそんなこと、少しも思っていなかった。ただ、そう言えばあの人外の老婆は、今後も僕に薬を寄越すだろうと考えただけだ。


 僕が前向きさを見せれば、生きていた頃の老婆も、きっと僕に薬を渡し続けただろう。人外とは、そういう存在なのだ。死体に残された脳みそをのぞき込み、その常識や習慣を真似ているだけに過ぎない。


 だけど、だからといって僕の行いが褒められたものでないことはわかってる。打算と妥協。そういう薄汚い考えが僕の中にも当たり前にあるということ。それ自体がどことなく後ろめたくて、心が少し、痛かった。


 僕は、昔からこんな様だっただろうか。


「お兄ちゃんは痛がり屋ね。自分でそれがわかってる?」


 あれはいつのことだったか、ヨルコが僕に言ったのだ。

 昔の記憶が、頭の中を駆け巡る。暖かな陽のひかり。柔らかな土の匂い。何もかもが懐かしい。家には父と母がいて、妹であるヨルコはまだ小さかった。そして、ヨルコは他の同年代の子どもたちと同じように、陽の下で元気に駆け回り、転んで大泣きし、ときおり、こちらがはっとするようなことを言った。僕は家族を愛していた。僕は幸せだった。そして、そんな大切なことに気がつくのは、いつも取り返しがつかなくなってからなのだ。


「どういう意味だよ、それ」


 ヨルコの頭を撫でてやろうと手を伸ばしたが、するりと躱される。動きに合わせて、肩口で切り揃えられた黒髪が、柔らかく散った。ヨルコはくすぐったそうに笑う。「わからないのね。だとしたら、きっととってもつらいわね」ヨルコはそう言った。そして、僕の頭をそっと撫でた。


 幼いヨルコの言葉の意味が、僕には理解できなかった。それは今でも同じことだ。しかし、それ以外のすべてが変わってしまった。両親は消息を絶ち、妹は病に臥せり、僕は死体を漁っている。


「明日もここに来ましょうよ。ねぇ、いいでしょう?」


 確か、街外れの野原に遊びに行った日のことだ。ヨルコは野原を駆け回り、野原で冠をつくったり、虫に怯えたりしていた。楽しい時間はあっという間に過ぎて、大きな夕陽が山間に沈もうとしていた。鋭い陽射しを背にして、ヨルコは僕をふり返って言ったのだ。


 明日もここに来ましょうよ。ねぇ、いいでしょう?


 僕はなんと言って返しただろう? きっと、なにも考えずにうなずいたのだと思う。明日が必ずやってくると、信じる必要すらなく、うなずいたんだろう。


「約束よ?」

 

 あの時の野原は、もうなくなってしまった。度重なる戦に備え、畑にするために根こそぎ掘り返されてしまったのだ。ヨルコとどこに寝転がったのか、どこで野花を摘んだのか、今ではもうわからない。


 いつの間にか、僕は黒い鞄をぐっと抱き締めていた。


 思い出の場所が消え失せても、僕にはまだヨルコがいる。ヨルコのために生きていける。死体だって漁る。金をむしり取る。薬を買う。ヨルコと、これからも末永く生きていくために。


「おぇ……。臭いがキツすぎる。まずいぞ、きっとこの辺りにいやがるんだ」


 相棒はげんなりした様子で言い、仕事用のマスクを口元にずり上げた。そして、馬に鋭く鞭を打った。短い嘶きと共に、馬はゆるやかに速度を増した。市街地を走るにしては、少々速いくらいだ。角灯も消したままだ。さすがに危ないのではと相棒のほうを見やると、「どうせ、誰もいやしないだろ」と言った。その通りだった。


 その時、路地裏に続く小道から、小さな人影がふらつきながら飛び出してくるのを見た。


「あぶない!」


 僕は叫んだ。


 





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