第2話 死体売買。
夜の街は、ひっそりと静まりかえっていた。
石畳を叩く馬の蹄と転がる車輪の硬質な音が闇の中に響いている。家々の窓は完全に塞がれ、灯りの一片も漏れていない。毎度のことながら、廃墟に迷い込んでしまったような気がした。
そしてすぐに気づく。街の空気がいつもと違う。どこがどう、と言われると困ってしまうが、背筋を粘液が滑り落ちていくような不快な感覚には覚えがあった。これは人外の気配だ。それも、ほんとうの姿を晒したときのものだ。
うっすらと夜霧が差し、角灯の明かりが滲む。口うるさい相棒も、今はぐっと息を詰めている。その横顔には緊張が張りつめていた。そして、一抹の恐怖。その気持ちは、僕にもよくわかることだった。
……不意に出会ってしまったら、その本来の姿を直視してしまったら。そう考えるだけで、背筋に細かい鳥肌が広がっていくのを感じた。
人外のほんとうの姿を知る者はひとりもいない。なぜなら、見たと思われる人間はみな、気が狂ってしまうからだ。発狂した人間は意味不明なうわごとをくりかえし、食事も睡眠も忘れ、やがて衰弱死する。
ほんとうに正体を見たせいでそうなるのかはわからない。うわさの真偽を確かめようと息巻いた者は、ひとり残らず発狂死した。うわさの真偽に依らず、それだけは間違いないことだった。
一寸先も見えない暗闇の中、相棒は角灯の火を吹き消した。奴等の姿を見ないために。目はすぐに暗闇に慣れるし、馬は道を覚えている。
微かに潮の匂いと、甘い腐敗臭が漂っている。街の近くに海などない。それは人外たちが通った痕跡だ。やはり、いくつかの人外が素の姿で出歩いているらしい。
「おかしいな、奴等がお気に入りから出ることなんざ、そうそうないはずなんだが」
相棒は苦々しそうに舌打ちする。
――――人外たちは、人間の死体を着ている。
なぜ、そんなことをしているのか、誰も知らない。彼らは常に死体に乗り移り、昼の間に買い物を楽しんだり、行きずりの人間と世間話をしてみたりする。より人間と親しくなろうとする者もいるが、基本的に関係の間に線を引き、一定の距離を保つことを怠らない。
人間たちを騙そうとしているわけではない、と僕は思う。彼らの表情は、いつも切なそうに見えるからだ。死体の顔だから、そう見えるだけかもしれないけれど。
ある人外の知り合いに、訊ねてみたことがある。どうして、死体を着てまで人に交じろうとするのかと。その人外はしばらく黙っていたが、最後にこう答えてくれた。
『僕たちは人間を被るまで、共通した言語というものを持たなかったんだ』
彼らは被った死体の脳みそを見ることで、人間の習慣や言語を知る。それはこの街では誰でも知っていることだ。彼(彼女かもしれない)が、なぜそんなわかり切ったことを言ったのか、僕にはわからない。ただ、やはりその表情は、とても切なそうに見えた。
「出来るだけ薄目に見ろよ。発狂した馬鹿をとなりに乗せて、走っていられないからな」
「わかってる」
僕らはそれっきり息を詰めたまま、馬車に揺られた。
馬は正確に依頼主の屋敷を目指して走る。今すぐにでも自宅へ帰りたいのはやまやまだが、せっかく回収した死体の鮮度を落とすわけにはいかない。
九十九折りの坂道をのぼると、やがて目的地の屋敷が見えてくる。建築物の様式については詳しくない。月明かりを背にして、のっぺりとした黒く大きな壁が、僕らを威圧するように見下ろしている。空を突き刺すように尖った三角屋根が連なり、如何にも怪物らしい頭部の角を思わせる。魔女の家、とも思えた。しかし、ここに住んでいるのは、もっとおっかないものだ。
馬車を止め、石畳に下りる。緊張で踏ん張っていたせいか、膝がかすかに笑っていた。相棒が僕の背中を『ちょん』と押してきて、危うく倒れそうになる。
「おい」
非難の声を上げたが、相棒はにやにや笑いを崩さなかった。
でも、おかげで緊張が少しほぐれたような気がした。
感謝なんか、してやらないけれど。
「ほら、早く」
相棒に急かされ、僕は荷馬車に積まれた死体たちを下ろしていく。手足二の腕筋肉繊維や頭部。足や脚。各種内臓の詰まった木箱は酷い臭いがしたが、先ほどの人外たちの臭いに比べたら、発狂の危険がないだけマシに思えた。
積み荷を下ろし終えたとき、ぎぎぎぎと重苦しい軋みを上げて扉が開いた。そこにはひとりの老婆が立っていた。僕らの依頼主である。つまり、彼女も人外だ。僕は思わず息を飲んだ。
「おや、今日はお早いお着きですね」
老婆は柔らかく微笑み、僕らを迎えてくれた。僕は内心ドギマギしていたが、相棒は慣れたもので、にこやかな表情を浮かべて「あぁ、どうも。こんばんは」と、あいさつを交わしている。
「今日はだいぶいいのが揃っていますよ」
「まぁ、助かるわ」
まるで、市場で見かけるような和やかな会話だ。何も知らない人間に、これは死体の売買をしているときの会話だと言っても、信じて貰えないだろう。
相棒の説明を聴きながら、老婆は果物の鮮度を見るような調子で、木箱をのぞき込んでいる。僕らの集めた諸々のパーツは、人外たちの着ている死体の補修などに使われる。好みのパーツを組み合わせて、新しい死体を作る人外もいる。それを職業にしている人間だっている。『死体接ぎ師』と呼ばれる連中だ。僕らはそいつらにも死体を卸している。
老婆の指示を受け、木箱を次々に納屋のほうへと運び込む。屋敷で働く人間たちも手伝ってくれたので、作業は思いの外早く済んだ。額に浮いた汗を拭って一休みしていると、老婆が言った。
「もう夜も遅いことですし、泊まっていってくださってもいいのよ? 夜の街は物騒ですからね」
正直、ゾッとする申し出だった。死体の山や人外といっしょに、ひとつ屋根の下で一泊するなんて、さすがに考えられない。どう断ろうかと逡巡していると、相棒が淡々とした調子で断りを入れた。
「いえ、お構いなく。家の寝床以外では、どうにも寝付けない質なので」
「あら、そう?」
老婆は残念そうな顔をしていた。
報酬を受け取り荷造りを終えると、老婆が僕を呼び止めた。老婆は黒い鞄を持っていた。それを、僕に手渡した。
「いつものよ。お代はいらないわ。少し多目に入っているけれど、オマケと思っておいて」
鞄は、ずっしりと重かった。鞄の中で、ごとり、ごとり、と分厚いガラス瓶が擦れ合う音がした。
「ありがとうございます」
深々とお辞儀をすると、老婆が僕の両肩をそっと撫でた。ぞっとするほど冷たい、死体の手のひら。だけれど、僕にはそれがとても暖かいものに感じた。
「いずれ、踏み出さなければいけないけれど、それを決めるのはあなたよ」
「はい、わかっています」
老婆に何度もお礼を言って、僕は荷馬車に乗り込んだ。
僕が抱えた鞄が気になるのか、相棒がちらちら視線を送ってくる。
「……それ、妹さんの薬か?」
「あぁ」
「ふぅん」
自分のほうが付き合いが長いのに、僕だけいい目を見ているのが気に入らないらしい。僕は溜め息をこぼして、黒い鞄から紙に包まれた大きなパンを取り出した。
「これ、きみにだって」
そう言い終えるか終えないうちにパンは奪われていた。さっそく乱暴に包みを破いてパンに齧りついている。野生の動物でも、もう少し慎みや威厳を持っているだろうに。
「あ、そうだ。さっき街中で『あなたがた』のお仲間がいましたよ。死体を被っていない、素の姿で。なにかあったかご存じでないですか?」
パンをむさぼるのを中断して、相棒が老婆に問う。
「いえ、ごめんなさいね。私には答えることが出来ないのよ」
老婆の意味深な言葉に送られて、僕らは屋敷を後にした。
その帰り道のことだった。馬車を走らせていると、路地から人影が飛び出してきた。相棒はすぐに手綱を引いたが、間に合わなかった。
馬に蹴飛ばされ、人影は石畳の上を転がっていく。
慌てふためく僕を余所に、相棒は冷静だった。その人物は血の一滴も流さずに、死事切れていた。いや、初めから死んでいたのだ。そいつは人外だった。全身がボロボロにすり切れ、たった今、墓場からよみがえったと言われても信じられる姿をしていた。そして、僕はそいつの崩れかかった顔に、見覚えがあった。
「……ノゥネ?」
僕の脳裏に、過去の風景と音がよみがえる。
『我たちは、人間を被るまで、共通した言語というものを持たなかったんだ』
今にも泣き出してしまいそうな顔で、僕の問いに答えてくれた人外の知人、その人だった。
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