紅
三津凛
第1話
「あんたの貞操って、つまらないのよ」
聡子はそこで、自分の奥が凍りつくのを感じた。
「だって、考えたことある?唐津は他に女を作ってるわよ。大陸から帰ってこないのだって、女のせいよきっと。あんたの貞操はその上に築かれてるってわけ、分かる?」
20年来の友人の葉子は遠慮がない。
「でも、目の色の違う女たちでしょう?そんなの、想像できないわ、分からないわよ」
「馬鹿」
葉子は憐れむような目になった。
「唐津が満州に行って、もう5年でしょう?よく我慢できるわね、聡子。その間に、適当な贈物でごまかされて……あんたって、天然記念物みたいな女だわ」
「でも、唐津なりに気遣ってるのよ」
「ふん、どうだか。これとそっくり同じのが愛人の女のところにも行ってるに違いないわ」
葉子は白粉と紅、靴の一緒になった包みを聡子の方に押しやった。先ほど届けに来た顔馴染みの局員は、何か言いたそうにしていた。
葉子は半月ほど前に唐津の秘密を知ってしまった。唐津には満州どころか日本にも女がいる。そっくり同じ造船会社の印の入った紙袋を、局員が運んでいくのを見てしまったのだ。家の主人は若いがあまり綺麗ではない女だった。
「いい?あんたの貞操なんて、安っぽいものよ。所詮は男の作り上げたものじゃない。その男は、平気で外に女を作ってるのよ。ハリボテだわ」
葉子はたたみこむ。だが聡子はひるまなかった。
「例えそうだとしても……私には信じるしかないのだもの。他の女なんて……」
「自分と目の色が同じ女がいても?」
聡子は黙った。女を作るなら、なんとなく大陸でだと思っていた。それが日本人となると、微妙に違う。
葉子は何か知っているのか、妙に断言する。
「まあ、好きにすればいいじゃない。信じるも自由、信じないも自由だわ。でもそんなに自信がおありなら、隣町の駿河という家を訪ねてご覧なさいよ。そこで分かるわ、あんたの貞操の安っぽさ、唐津の狡さってのがね」
葉子は遠慮なく煙草に火をつけた。
「この紅も白粉も、あんたには似合わないわ」
そこで葉子は聡子の顔を覗きこんだ。きめの細かな葉子の柔肌が近づく。時折、葉子はまるで男のような目をすると聡子は感じた。
「もったいないわ、聡子は美人なのに」
唇の隙間から、涙のように紫煙が溢れる。聡子はまるで作られた絵のようにそれを綺麗だと思った。
「葉子には感謝しているわ」
「してもらわなくて結構。あんたが浮気の一つでもしてくれた方がよっぽどいいわ」
「馬鹿なこと言わないで頂戴」
「馬鹿はあんたよ」
葉子は唐津の使っていたガラスの灰皿に煙草を押しつけた。執拗に火種を潰すと、手つかずの白粉と紅に意地悪そうな一瞥を投げた。
「可哀想ね、せっかく海を渡っても無用の長物なんだもの」
葉子はそう言って、聡子を見た。
葉子が帰った後、聡子は靴を履いてみた。だがそれは大きすぎて足に合わなかった。白粉も紅も、葉子が言うように聡子の趣味ではない。どちらも色が明るすぎて、下卑て見える。本当に若い女の1人でもいるのだろうか。
靴も合わないと分かったいま、この一揃いは本当に要らないものになってしまった。
唐津の便りを読み返す。満州では役員として忙しい毎日を過ごしているようだった。女の影は見えない。そして、まだ日本に帰る予定もないらしい。
あんたの貞操って、つまらない。
葉子の言葉がよみがえる。だが聡子には待ち続けることしか、できないのだ。葉子は独身だから、分からないのよ。聡子は万年筆をとって返信を書く。白粉も紅も靴も、さも普段使いしているように書いた。嘘も海を渡る頃には本当になっているかもしれない。それは聡子の希望でもあった。
糊で便箋を閉じる。この手紙を唐津は開くことがあるのだろうかと聡子は不意に思った。
靴は履けなかった。だが、足の大きさは日本を発つ前にしっかりと伝えたはずだ。不信の種が静かに吹く。それでも聡子は待ち続けるつもりだった。
他の生き方は知らない。
手紙を出した後で、聡子は葉子の言葉を思い出した。
「そんなに自信がおありなら、隣町の駿河という家を訪ねてご覧なさいよ。そこで分かるわ、あんたの貞操の安っぽさ、唐津の狡さってのがね」
聞いたこともない家である。葉子は一体どこでそんな家のことを知ったのか。聡子は路面電車に乗って、隣町まで行った。本気で駿河という家があるとは思えなかった。聡子にとっては、目の前の友人よりも、海の向こうの夫を信じる方が固かった。
だから、これはほんの遊(すさ)びなのだと聡子は自分に言い聞かせた。だが聡子は駅に降りたところで見てしまった。顔馴染みの郵便局員が、自転車を駆っている。それになんとなく、聡子は背中を押されて勢い彼を尾行してしまった。
局員は気づかないまま、軽快に自転車を漕いでゆく。そして、ある家の前で彼は自転車を降りた。聡子はあまり手入れのされていない生垣の陰に隠れて、彼の取り出す紙袋を見た。
唐津の造船会社の印が入った、見覚えのある紙袋である。局員はまさか聡子に見られているとは思わす、呑気に玄関を叩く。
彼ははっきりと主人の名前を呼ぶ。
「駿河様、お届け物でございます」
「へぇ、どちらから」
軽い女の声が聞こえてくる。
「満州の唐津様からでございます」
局員は淀みなく答える。
女は間を置いてからようやく出てきた。
「また何か贈ってきたの」
「はあ、唐津様はご熱心なもので……」
女の横顔は聡子よりも幾分若かった。唇が薄く、顎の尖りのない顔だった。凹凸の薄い顔立ちである。そう美人ではない、聡子は密かにそう思って溜飲を下げた。
「ふん、お前はどうせまず細君の家に行ったに違いないね」
局員は聞こえないふりをしている。
「あぁ、白粉に紅に靴。これとそっくり同じのが、細君のところにもあるに違いないよ。なんでも細君と同じか、半分こだ。馬鹿にされたものよね」
「さあ、私には分かりかねますが」
「もういいよ。これは宛先不明で返しておいて」
「いや、しかし……」
局員は頭を掻く。
「お前、奥さんはいるの?」
「えぇ、まぁ」
「じゃあ、あんたの細君にあげるわ。あたしはいらないもの」
「でも困りますよ」
「あたしだって、困ってるんだ。もうこの家も引き払ってしまうし、いつまでも愛人をしてるつもりはないのよ」
「それは……」
「お前がいらないなら宛先不明で唐津に送り返して頂戴。それで分かるでしょう、あの人も」
聡子はじりじりと嫉妬を感じた。夫を気安く呼ぶこの女は一体なんなのか。
やはり唐津には女がいたのだ。それもこんな下品な女が。聡子は目眩がした。
「あたしもね、結婚するんだ。もう愛人も辞めるんだよ、清々する。あの痩せっぽちを見ないで済むかと思うとね」
局員は困り切った顔をして、紙袋を持っている。
「とにかく……それは宛先不明で送り返して頂戴」
女はそれだけ言うと、家に引っ込んだ。局員は頭を掻きながら、紙袋を忌々しそうにしまい込んだ。また大陸に戻される紙袋が、心底可哀想になった。唐津の贈物は聡子のところでも、愛人のところでも要らないものだった。白粉と紅と靴は、満州の地でどうなるのだろうか。局員の盛り上がった背中は怒っているようだった。聡子はまるでそれが自分に向けられたようで、胸を痛めた。
葉子の裸身は艶めかしかった。
石鹸のようにつるつるとして、光っている。丸い肩に手を置くと、餅菓子のように柔らかい。
「それで、唐津はまだ引き揚げて来ないのかい」
葉子は意地悪く聞いた。
「まだ当分先だわ。軍人でもないのに、忙しそうよ」
「ふうん、でも最近じゃあ荷物も来ないし、仕送りも滞ってるわね」
「……私が自分で稼ぐからいいじゃないの」
「半分買春の真似事じゃないの」
葉子は容赦がない。それでも聡子はこの辛辣な女友達に最近は不思議な心を抱き始めていた。
唐津は一向に大陸から帰ってくる気配がない。その内戦争が始まるだろうと風の噂だった。唐津の愛人をしていた駿河という女は、あれから本当に家を引き払って何処かへ行ってしまったようだった。それからしばらくは、唐津からの便りが途絶えて、またいつもの頻度に戻った。唐津が満州へ渡ってもう7年になる。ここしばらくは便りも荷物もなくなっていた。
その代わり葉子が熱心に劇場や湯治に誘ってくるようになった。
「なんだか聡子を洗っていると、野菜を洗ってるみたいな気持ちになるね」
「嫌ね、それは褒めてるの?」
「あら、もちろんそうよ」
葉子は聡子の後ろに回り込んで、腋の下をくすぐった。葉子はこの綺麗な女友達に、似つかわしくない感情を抱いていた。
「しっかり綺麗にしとかないと、あの助平画家に何か言われるものね」
「また、そんな言い方。あの人は唐津の後輩よ、何もされてはないわ」
「ふん、どうだか。あんたの貞操ってものも安くなったからね」
「喧嘩するために来たんじゃないでしょう」
葉子は黙った。聡子も黙って、座り込んだまま、体を洗う。なんとなく、葉子の視線が自分の胸や腰のあたりに絡まるのを聡子は感じた。それは次第にきつくなる。泡を切ってから、聡子は湯船に体を沈めた。
「あぁ、いい気持ち」
葉子はまだ黙っている。聡子はぼんやりとその裸身を見た。湯気の合間からのぞく裸身は雲の合間のぞく峰のように豊かだった。
「……葉子は、結婚はしないの」
「しないわね」
嫌にきっぱりと葉子は言い放った。
「あら、どうして」
「聡子を見ても幸せそうじゃないからよ。男に振り回されるなんて、まっぴらよ」
「でも、お父様はそれで納得されるの?跡を継ぐお婿さんはいるでしょう」
「そんなこと知らないわ、ただ父も私のことは諦めてるみたいよ」
「え?」
「今度遠縁から養子を取るのよ。私は正式に用済みってわけよ」
聡子は霞む友達の横顔を見た。泣いている気配はなかった。
「聡子がそんな顔することないじゃない」
葉子は軽快に笑った。
「別に勘当されたわけじゃないわ」
「そうだけど……」
「私より、あんたのことよ」
葉子はサッと泡を切って、湯船に飛び込んだ。聡子と葉子は向き合って、お互いを見つめ合った。
「唐津と離縁する気はないの」
「何を言うのよ」
「そうしなさいよ、私が養うわ」
葉子は極めて軽く言い放った。
「私、あんたが好きだわ」
「どうしたのよ、急に」
「唐津よりも、よっぽどあんたを愛してるってことよ」
葉子はぐっと顔を近づけて、聡子の唇を吸った。聡子は避けなかった。
随分と前から、こうなることを知っていたような気がする。
「……でも、すぐ離縁なんてできないわ」
聡子は震えながら、それだけをやっと言った。
唐津がようやく帰った時には、すでに戦争は終わっていた。随分と放ったらかしにしていた聡子は変わらず自分を待っていた。愛人の方はいつの間にか雲隠れして、行方知らずになっていた。
唐津は今でも根に持っている。散々贅沢させたあの女。今頃はどこかで細君に収まっているに違いない。送り返されて来た白粉と紅と靴の一揃いは、現地で囲っていた女にそのまま流してやった。それも引き揚げが決まったのと同時に断ち切った。
故郷が急激に近くなるにつれ、さすがの唐津も女房が恋しくなったのだ。
「随分と黒くって、痩せたのね」
聡子は変わらない。
「そりゃあ、最後の方は酷いもんだった。会社も潰れるし、俺は戦犯扱いだ……同期はちゃっかり再就職してるのにな」
「ゆっくりお仕事は見つければいいもの」
どこか他人事のように、聡子は言った。
「お前にも苦労かけたな……だが、それにしても豪勢な暮らしぶりじゃないか。驚いたよ」
唐津は鷹のように鋭い目をした。
「まさか、男でも囲ってるのか」
「嫌なことを言わないでください」
唐津は改めて聡子を眺めた。満州に渡る前はいかにも生娘然としていて、つまらない女だった。線が細くて、子どもみたいだった。それが10年近く離れていたら、老けるどころか艶かしくなっている。唐津は干からびた男を感じた。
「嫌に女っぽくなったな。世間は戦争でくたくたなのに。いい身分じゃないか、聡子」
唐津は糊のきいたシーツに聡子を押し倒した。聡子は心底嫌そうな顔をした。
「その顔はなんだ、聡子。旦那様のお帰りだぞ、ええ?」
唐津は鼻の穴を膨らませて覆い被さる。聡子は情けなくなりながら、体を預けた。唐津の仕送りが途絶えた間、彼の後輩の助平画家のモデルをしていた時でもこんな暮らしはできなかった。全ては葉子の愛である。
唐津は男の存在を疑っているようだった。
唐津はしばらくしても、仕事の一つもしなかった。気の毒に思った同期の連中が仕事を斡旋してきたが、それが急に虚しくなったのだ。
俺はまるで浦島太郎だ。同期はみんな課長、部長だ。役員までやった俺を、奴らは顎で使おうとするじゃないか。
唐津は一向に働く気を起こさず、ぶらぶらとしていた。
そして関心は聡子にだけ、向けられるようになった。
聡子はここ最近よく出かけていく。旧知の女友達と劇場や湯治や外食によく出かけていく。どこから金が出てくるのか、やたらと豪勢な外出だった。唐津は男の存在を疑っていた。それは次第に強烈な嫉妬になって、半ば犯すように聡子を抱くようになっていった。
肉付きのよくなっていく聡子に比べて、唐津は目ばかりが大きい痩せた男に成り下がってしまった。大陸で焼けたままの黒さが抜けず、遠くから見ると牛蒡のようだった。
「それではあなた、葉子と朗読会へ行って参ります」
聡子は活動的な女になった。仕事をしていない手前、唐津はそう大きな顔はしていられない。それに今夜も犯すように抱いた後のこと、何処へでも行ってしまえという気持ちだった。
唐津は完全に男という自分に胡座をかいていたのだ。
聡子を送り出した後で、唐津は葡萄酒を取り出して舐めていた。しばらくすると、聡子の熱っぽい柔肌の感触が思い出されて、むくむくと男が立ち上がってきた。唐津は居ても立ってもいられなくなってきた。
弛緩した脳が燃えている。本当に女友達なんかと遊び歩いているのか、女学生じゃあるまいに。
唐津は血走った目を向けた。そのまま家を飛び出して、唐津は聡子の唯一の友人であった葉子の家へと駆け出した。
爆撃のおかげか、道は随分と幅広くなっていた。それで唐津は迷うこともなく、葉子の家へとたどり着けた。濃い生垣をかき分けて、中庭の陰に身を潜める。女の声がどこかから聞こえてきて、それは笑い声にも泣き声にも聞こえてくる。
女友達の家を逢い引きに使うとは、大胆なやろうだ。
唐津はますます嫉妬に駆られた。まだ見たこともない男の脇腹を思い切り蹴り倒してやろうと、つま先に力が入る。ひと際声の響く窓辺まで這って近づくと首を伸ばした。
少し雨が降った後のようで、足元がぬかるんでよろけた拍子に泥をつかんだ。耳を澄ましていると、明らかに女の嬌声が聞こえてきた。聡子の声である。それが今まで聞いたこともないような声色と大きさで、唐津は我を忘れた。
「この野郎!開けやがれ!恥知らずどもめ!」
乱暴に窓枠を揺らして、ガラスを叩いた。一瞬で室内は静かになった。何かを推し量るような沈黙が流れた。それが唐津を更に逆撫でさせた。
「中にいるのは分かってるんだ!開けろ!開けろ!聡子!ただで済むとは思うなよ!」
ようやく窓が開けられると、唐津はそのまま熊のように飛び込んだ。
「あなた……」
聡子は青い顔をしていた。真っ白な肌そのままで、シーツに包まっている。
唐津はその奥で寝そべる憎い男を見ようと、聡子を押しやった。
「まるで山賊みたいに下品じゃない」
「お前は……」
唐津は面食らった。
悪びれもせずに寝そべっていたのは、男ではなく女だった。
葉子は恥ずかしがる気配もなく起き上がると、聡子を庇うように唐津の視界を塞いだ。
「あんた、相変わらず仕事もせずにぶらぶらとしているそうだね。あんたこそ、いい身分だよ」
「どういうことなんだ、聡子」
聡子は押し黙ったまま、口をきこうとしなかった。葉子は薄く笑いながら、言い放つ。
「聡子はね、もうあんたと一緒にはいたくないんだってよ。毎晩毎晩、あんたに犯されてたまらないって泣いてたよ。もうずっと前から私は離縁してしまえって言ってたけれど、今夜やっと決心がついたそうだよ」
「だが、俺たちは夫婦だったじゃないか。こんなのは不自然だ、女同士で」
「ふん、よく言うよ。夫婦だと思ってたのはあんただけじゃないの。聡子はもうあんたの顔も見たくないって言ってるよ。あんたに抱かれても痛いだけだってね、だから私の元へこうして来たんだ」
葉子は煙草さえ吹かせて言う。その大きな姿に、唐津はすっかりと飲まれてしまった。聡子はその影に覆われて、小さく見える。
「夫婦だの何だのと思い込んでたのはあんただけだ。随分前にあんた達は終わってたんだよ」
「でも、聡子は俺を待ち続けてたじゃないか」
「それだって、男の作ったつまらない貞操じゃないの。あんたの愛人、あれだってさっさとあんたを見限って他の男と結婚したでしょう。聡子だけが、あんたに囚われている必要はないんだよ。女はもっと自由であるべきなのよ」
「だが、こんなことは許されない……」
「許されないのはあんたの方だよ。あんたの暮らしも私の金から出たものなんだ。よく恥も知らずにのうのうと生きているものよ、聡子はあんたの顔を見ると蝮を見るようで耐えられないんだってよ、いい加減にしてやりなさいよ」
唐津は打ちのめされて、青くなった。聡子と目が合う。その顔が笑ったのを唐津は見逃さなかった。
「騒ぎになる前に、早く出て行くんだね。それでもう二度と私たちの前には現れないことね、そしたら今度こそお前を強姦魔だって突き出してやるよ」
聡子は何も言わなかった。それどころか、葉子の裸身に頬擦りして軽い欠伸をした。それはかつての貞淑な細君そのものの顔だった。全てを預けきった女の顔であった。
唐津は窓から叩き出されるようにして、飛び出した。足を挫いて、泥だらけになる。
聡子はもう唐津の聡子ではなかった。生垣を抜けて、唐津はあてもなく歩き出した。まだ夜には幾分早い時刻であった。一番星がようやく瞬き出した頃合いである。
愛人の女も今はどこかで女房をやっている。聡子の元へは帰れない。
どこで彼女が変わったのか、分からない。いや、聡子は本当に貞淑な女であったのか。
唐津はひたすら歩き続けた。男としてのあてもない。旦那としてのあてはもっとない。
唐津を待ち続けた女は何処にもいなかった。
今はまだ、ようやく一番星が輝きだした頃合いである。夜はまだ遠い。朝の気配はさらに遠い。
紅 三津凛 @mitsurin12
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