1年5月 ポテトカウチとインスタントメサイア 1

日本の大学生の勤勉さは本当に素晴らしいと思う。

 とある筋によれば、受験生は平均して高校最後の1年間に勉強に毎日五時間ほど費やしているらしい。私もそうだった。だいたいそのくらいか、もっとやっていたと思う。同じようなことを書いている参考書を有難がって何冊も繰り返し暗記したり、将来こんなことを使って仕事するわけないだろうと半信半疑になるような数理科学の法則を諳んじられるようにした。ここまで頑張って教養を身につけたのだから、大学でこそもっと自分の興味のあることを深められると思っていたし、やっと自由に自分の力を伸ばせるのだとワクワクしていた。少なくとも入学当初は。

 季節も五月の連休明け、桜の花びら舞い散る中、サークルの新入生歓迎を謡いながら酒と博打と淫行に誘う喧騒がキャンパスから鳴りを潜め始めたころ、私の頭の中にある疑問が鎌首をもたげていたのである。

「そも我は何者ぞ」

 私はそのころ、18歳で、片田舎から出てきた野暮ったい瓶底眼鏡の女であった。

 あくまで客観的に見て、だ。

 私はあのとき自分のことを世界一賢いと思っていたし、(わからないことはあるにせよ)、この世で正気を保っているのは自分だけだと思っていた。周りの人間はともかく必死になって自由からくる要請から目をそらそうとしているように見えて、はっきり言って苛立っていた。

 今にして思えば、高校生活にしてもあまり目立ったことがなかった人間が、大学に行けば何らかの人生の岐路が見つかるのではないかなどという浅はかな楽観が裏切られてしまったことが悔しがっていたという余りにもありふれた、凡人めいた驕りだったのだ。

 そして、学校から消えた(あまり来なくなったが正しい)彼らこそがひょっとしたら、自由に自分の力を伸ばしているのではないか。学校生活などにかまけず自分のやりたいことに邁進しているのではないか。そういう焦りがあったのだと思う。

 専門的を謡いながら時代遅れの理論をさも面白くなさそうに語る講師や、安かろう悪かろうを地で行くような学食の不味さも、そして日に日にだだっ広くなっていく構内の静けさが胸をチクチクと針で刺していたのである。

  だからその日も一限の講義が終わって、外のベンチに座ってぼんやりと何をするでもなく眺めていた。図書館で借りたハードカバーを一冊脇に置いたまま、雲が流れていく。2週間後には初のレポート期限が迫っていた。大して講義の内容も頭に入ってはなかったし、興味もなかったが、単位が取れないのも面倒である。昼の講義が始まるまで時間もあったし、やる気になるまでダラダラしたかった。

 春の日差しは暖かで、人もあまりいない十時過ぎ。講義中の学内は静かで考えをまとめるにはちょうどいい。いいのだが、こうも暖かいとせっかくなので昼寝をしてみたくなる。

「いい具合の枕もあるしな」

 さっそく私は、ハードカバーに鞄をのせてベンチの上で横になった。そうしていると風が優しく髪を撫でてくれれば、自然と瞼も重くなる。さっきまでつまらない講義を生真面目に聴いていたのだ。脳を少し休ませなければならない。これは道理なのだ。

 すぅ……。すぅ……。と寝息を立てる。直射日光が当たるせいでなかなか寝付けない。しかし、このまま寝てしまったらお昼ご飯を食べ損ねてしまうかもしれないので実はちょうどいい。これはいわば瞑想。瞑想なのだ……。断じて昼寝ではない……。

 すぅ……。ズズッ……。

 何だ鼻水か? アルバイト先を探そうと昨日求人を見て回ったのだが、よさそうなところがなかったのだ。風邪でも引いてしまったか。季節の変わり目だ。気を付けなければ……。

 ズズッ……。すズゾゾゾ……。

 さて、レポートをどう片づけたものか。講師が紹介してくれた資料は借りられたのだし、今晩にでも概略をまとめてしまおうか。その後の構成は……。それにしてもさっきから、なんだか獣臭いにおいがするな。

 すぅ……。ズズッ……。すぅ……。ズゾゾォ――――!

「なんなんだ一体!?」

――ブフォッ!?

「急に大きな声を出さないでよ~。鼻から汁飲んじゃったじゃんか」

 いつの間にか、ベンチの端に座っていた女の手にはインスタントラーメン。ごほごほと少しむせて、ぽたぽたと白濁液を鼻先から落としている。汚い。

「す、すまん。これでも使ってくれ」

 駅前で配っていたティッシュだ。タダでもらえる物はもらっておいて正解だった。

 女は、ありがとー、と気の抜けた口調で顔を拭く。にへらと笑った。

「というか、こんなところで何をしているのだ。君は」

「うーん? 朝ごはんー」

「人が寝ている横で、食事を摂るのはいささか非常識ではないか」

「いやぁ、気持ちよさそうな人の横に居れば気分が良くなるかなぁと思って~」

「どういう感性をしていたら、そう考える!?」

「ボク、花粉症なんよ」

「はぁ?」

「でもラーメン啜ってる時って、こう、幸せ! って感じがしてさ。鼻水を啜るよりよっぽどいいと思わない? それで気づいたんだけど、ボク、幸せな時間には花粉症が和らぐみたいなんだー」

「そうか、そうか。それは新発見だな。素晴らしいよ。生物学の先生にでも語って聞かせてあげるといいさ。それでは、これで失礼」

 そして、私はハードカバーを手に取り……。

 手に取り……。

――なんか、湿ってるぞ。これ!?

 明らかな染み、そして豚骨臭。そしてふやけてしまった稀覯本(定価5000円)。

 穏やかな春の風に乗ってきたそいつを今でも私は忘れない。

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モラトリアムパレェド ハッサン @kohaku_kunihiro

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