第8話:そんなボクにも武器がある

 一月五日の事である。遅めの初詣へ行こうと誘い合い、龍一郎と恋人の左山梨子は中心街から一駅離れた《山雀神社》へやって来ていた。比翼入母屋造が自慢の古社では、最近になって「恋愛成就」のお守りとして、山雀の縫いぐるみ型キーホルダーが人気を博していた。




 ……およそ一二〇〇年前、旅人が雄の山雀を見付けた。目元に白い傷跡があり、小鳥にしては妙な精悍さと野性味を覚えた為、旅中もその山雀の事ばかりを考えていた。


 長い旅の終わりに、旅人は朽ち果てた神社に辿り着く。腐り掛かった鳥居の上で、あの山雀が楽しそうに囀っている。隣には可愛らしい雌の山雀がいて、ジッと雄の声を聞いているようだった。


 やがて二羽は一度二度と鳴き合った後、寄り添うようにして何処かへと飛んで行った。旅人はその神社に長逗留し、二羽の木彫りを作った――。




 境内に設置された由緒書きの抜粋である。すぐ傍に建つ社務所の前で、その日……梨子は「ねぇ、見て」と、少年の裾を引っ張った。


「恋愛成就のお守りだって」


「あぁ、最近テレビで見たなぁ。でも俺達、もう成就しているよな」


 一つ上の梨子に対し、ようやく敬語を完全に取り払った会話が出来るようになった龍一郎は、大量に並ぶキーホルダーを一つ取り上げ突いた。赤い鈴が参拝者の喧噪に紛れて鳴った。


「でも可愛いよ。欲しいな……私」


 チクリと龍一郎の胸が痛んだ。「まさか」を予想し自らの愚かさと、目にしたくない裏切りの未来とが、彼の青い精神に小さく鋭い棘を落とした。梨子はすかさずニヤリと笑み、少年の頬を人差し指で突く。


「うぅーん……? 何その顔は? まさか私が他に――って顔しているね?」


「いや、別に」


「へぇー? 龍一郎、強がっている?」


「……別に」


「実はこのキーホルダーですが」人懐こそうな巫女が割って入った。


「すでにお付き合いされている方々にも人気なんです」


「え、何でですか?」


「山雀って鳥は、ずーっと同じ相手と暮らすんです。ですから恋愛成就、または円満持続のお守りとしてはなんです。本当の鴛鴦夫婦ってやつですね」


 数百回は繰り返したであろう説明を、しかし巫女は自信ありげに言ってのけ、さぁ買えと言わんばかりに紙袋を取り出した。即座に梨子が財布を取り出し、龍一郎の分と合わせて二つを購入した。


「……俺の分、払うよ」


「いいの、ほら、受け取って」


 社務所から離れた後、気恥ずかしさから仏頂面を浮かべる龍一郎は、手の中でチリン、と鳴る軽やかな音に耳を澄ませた。


「本当はね」


 少年の腕に抱き着くようにして歩く梨子が、何処か寂しげな声で言った。


「私の方が不安なんだ」


「……俺、何か梨子に――」


「違うの。違うんだ。これは私の取り越し苦労で……」


 塗り潰したような青空の下、梨子の手が一層強く――少年の腕を握った。


「ほ、ほら……いつもハンバーグばかりだと飽きるから、たまにはパスタを食べたい……みたいな。ごめんね、何か。私、今日ちょっとおかしいや……年明けたばっかりなのに」


 眩いばかりの幸福の中で、自らの影が生む密かな不安、得体の知れぬ恐怖が胸奥の更に深く……無意識エスから来訪する破滅の気配が、彼女の肢体を蝕んでいる事に――少年はようやく気付き……。


「……今日、俺の家、誰もいないんだ。明日まで」


「…………行きたい」


「うん、俺も――来て欲しい」


 自らの肉体によって、強制的な解決を図ったのである。




「ねぇ、雪が降ってきたよ」


 小雪がチラつく中、溜渕恵琉は大きな目を街灯によって輝かせた。


「あはは、おあつらえ向きって感じ」


 俄に――少年は思い出す。塀の上に積もった初雪を手で掬い、愛おしそうに見つめる恋人の横顔を。


「近江って、家はどっちの方角だっけ?」


 俄に――少年は思い出す。自動販売機から出て来たコーンスープの缶を握り締め、それから頬を寄せて微笑む恋人の目を。


「確か、ボクの家と近かった気がするね。ほら、一〇月頃に話したじゃん」


 俄に――少年は思い出す。カーテン越しの陽光を肌に照らし、赤らんだ顔でペットボトルの麦茶を飲む……。




 幸せだね、私達って。




 はにかみながら言った、愛する梨子の事を。


「……負けない」


「えっ?」


「俺は負けないぞ。誰に頼まれたか知らんが、俺は絶対に負けない! その写真をばら撒くなら、ばら撒けばいい。噂を流したいのなら流せばいい。やるならやれ、その代わり――」


「ちょ、ちょちょっと待って近江!」


 慌てて溜渕が龍一郎の手を掴み、「一回落ち着いて! ねっ」と困り笑いを浮かべた。


「あのね、何か勘違いしているみたいだけど……ボク、誰かに近江を嵌めろとか、変な事を頼まれていないよ? 本当だから!」


「今更信じられるか! テメェが撮った写真だって――」


「それじゃ、はい」溜渕はスマートフォンを取り出し、目を三角に怒る龍一郎へ手渡した。


「……何の真似だ?」


「写真、消していいよ。メールでバックアップ取っているかもって思うなら、そこも見ていいからね」


 嫌々……といった様子は無く、回覧板を隣家に届けるような落ち着き振りで彼女は言った。一方の龍一郎は実に居心地が悪く、しかしながらスマートフォンを引ったくり、件の写真を消そうとした。


「あ、そっちには無いよ。こっちのフォルダに纏めているから」


「うるさい! ……ほら、消したぞ!」


「バックアップは? 確認しなくていいの?」


「いいんだよ! 俺もお前も席を一度も立ってないし、スマートフォンだって一回も弄ってないだろうが!」


 ポン、と手を打つ溜渕。龍一郎の簡単な洞察に感心したようだった。


「それで、ボクへの誤解は解けた?」


「解ける訳無いだろう! 第一、俺を籠絡してどうしようってんだ! 好きだの、彼女にしてだの……!」


「うーん……どうしようかな、本当に好きなんだけど。ボク、結構これでも緊張しているんだけど」


 数秒間、少女は目を閉じ……「仕方無いね」と頷くと――。


「ボクは大して頭も良くないし、語彙だって無いんだ。でもね、そんなボクにも武器がある」


「武器だと?」


「そう、一回限りの武器」


 凶器でも飛び出すのか――龍一郎が身構えた瞬間、溜渕は意を決したかのように前進し……両手を伸ばすと、彼の肩をしっかりと掴んだ。


「なっ……」


 目の前を振り落ちる雪の一粒が、龍一郎にはまるでストップモーションのように見られた。遠くを行く自動車のエンジン音、何処かから聞こえる笑い声、駅前の電光掲示板から鳴り続ける名も知らぬ曲。


 彼を包む全ての音と映像が活動を止め、だが眼前の少女だけは……。


「んっ」


 自らと少年の唇を重ね――。


 しばらくの間、硬直する少年の身体にもたれ掛かり――。


 閉じた瞳を潤ませていた。


「ばっ、馬鹿野郎がぁ!」


「いたっ」


 顔面を深紅に染め上げた龍一郎は、思わず溜渕を力一杯に突き飛ばしてしまった。


「わ、悪い……でもお前が――」


「悪いと思っているなら、教えてよ近江。ボクのキスは本当に嫌だった? 心底不快だった? 絶対に受け入れたくない、何よりも悍ましいものだった?」


「……どうせ、誰にでもそうやってしているんだろう」


 瞬間、少女はスックと立ち上がり、龍一郎の頬を軽く叩いた。叩かれた側は起きた事態を飲み込めずにいたが……。


「流石に失礼だよ、近江。ボク、こんな身なりをしてはいるけど――まだ、誰とも付き合った事が無いんだ。当然、


 笑顔を絶やさなかった少女は一転、何かを訴えるかのような眼差しで龍一郎を見据え、続けた。

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