第6話:ペルソナ
一六時五〇分。姫歩がなるべく居心地の良さを感じられるように、と宇良川に電話で頼み込んだ龍一郎は、花ヶ岡高生がショッピングにデートに暇潰しにと利用する、駅前の目抜き通りを歩いていた。
一七時に、駅裏の『釣りっこサブロー』で待っています。
六時間目の授業中、小さく折り畳まれたメモが彼の背中を打った。校内で話し込むにはあまりに人目が多く合点もいくが、何故釣具店を指定したのかは全く不明であった。
そこまで隠れなくとも、少し離れた喫茶店ぐらいでいいだろうに……。
つい飛び出た白い溜息が、五時間目の体育で疲弊した少年の頬を撫でていく。特にこの日は冷え込み、駅からやや離れた釣具店へ辿り着く前に、両足が直に凍り付いてしまうようだった。
「……へぇー……」
待ち合わせ場所の『釣りっこサブロー』は二階建てだった。大きな自動ドアを潜った瞬間、龍一郎は双眼を思い切りに開いた。一度も釣具店に出入りした経験が無く、聞き知らない日本語で紹介される見知らない用具の数々に圧倒されるばかりであった。
「プラスチックのトング? バーベキューでもするのか……? 柄杓? 何の為に?」
眉をひそめた横から更に不可解な情報が目に飛び込み、謎が謎を呼ぶ事態に目眩すら起きそうだった。しかしながら……一切釣りに興味を持たない訳ではなく、釣り好きな叔父から幾度となく聞かされた武勇伝によって、若干の羨望すら抱いていた。
「何だこれ、ベルト……? ……ファイティング? ベルトで魚と戦うのか――」
「ファイティングベルト。キハダとか釣る時に使うと良いんだよ」
不意打ちの説明に驚きつつ振り返ると、そこには買い物カゴを提げた溜渕恵琉その人が立っていた。既に幾つかの商品が入っており、龍一郎よりも早く来店したらしかった。そして――。
「竿尻を腰に当てて、魚とファイトするんだ。身体全体で持ち上げ、必死の抵抗をねじ伏せる……だからファイト。ファイティング」
わざわざ釣具店を指定した理由が、即座に判明したのである。
「ごめん、もうちょっと見ていい? 最近来られてなくて……」
「えっ、うん。いいよ」
「やったっ。近江はどうする? 好きに見る? それともボクと来てくれる?」
「……じゃあ、付いて行こうかな」
「わぁ、ほんと? それじゃあまずは……あそこ行こ、あそこ! ホッケ特集やってるから! メルマガでクーポンあるし、今が旬だし……! あのね、ボク去年まではサビキでやってたんだけどね、今年はルアーでじっくりやり取りがしたくってね、何ていうのかな、数より体験を――」
溜渕恵琉。彼女はドの付く釣り好きギャルであった。
「ごめんね、長々と……ボク、はしゃぎ過ぎちゃった」
「いや、それは良いんだけど……俺が選んだやつ、何か釣れなかったら悪い気がして……」
多少の疲労を滲ませた横目で龍一郎が見やったのは、溜渕が弄ぶ青色のルアーであった。「近江のセンスで選んで!」とルアーコーナーに連れて行かれたのが二〇分前、「選んだやつが釣果に乏しかったらどうしよう」「そもそもこんな小さなもので釣れるのか」「色で違いなんてあるのか?」首をグルリと捻り、頭を痛め、何とかそれらしいものを見付けたのが五分前だった。
「大丈夫! ボク、これでもまぁまぁ上手い方だから! パパにも褒められるんだ、『恵琉がいればボウズにならなくていい』って!」
「ボウズ? 釣れなかったら罰ゲームがあるのか……?」
素っ頓狂な少年の発言に、溜渕は数秒目を見開き、教室では聞けない程の大音声で楽しげに笑った。
「あっはっはっはっは! ある訳無いよそんなのぉ! ボウズってのはね、一匹も釣れなかったって事!」
目尻をソッと拭った少女は、手に入れた大量の釣具を灰色のデイパックに詰め入れ、冷えた外気を胸一杯に吸い込んだ。
「……っ、ふぁー。寒いねぇ、外。ねぇ、暖かいところから一気に寒いところ行ったらさ、何となくスッキリする感じしない?」
「まぁ、分からなくもないな」
「ねっ、分かるよね? 今何時かな? もうこんな時間かぁ……」
そうだ――溜渕はピアスを揺らしながら振り返った。
「ご飯行かない? ボク、ファミレスの雰囲気大好きなんだよね」
「ちょっ、ちょっと待ってくれ!」
急に立ち止まった龍一郎につられたのか、白金の髪を持つ少女は前のめりに倒れ掛けた。
「……ボクとご飯は、嫌だった?」
「違う、そうじゃなくって……!」
「歌? 違う違うー、そうじゃないーって」
似たようなやり取りをいつの日かした記憶がある……少年は思いつつ、本来の目的――梁亀姫歩の、そして代打ち同士という発言の件――について一気呵成に語る。一方の溜渕はどうにも響いていないのか、「あぁ……」と宙を見上げて呟くだけだった。
「それなら、なおさらファミレスに行こうよ。穴場を知っているんだ、そこ凄いんだよ! ドリンクバーにスムージーがあってね、ボク、いっつも飲み過ぎちゃうんだ」
「…………なぁ」
「どうしたの?」
既にファミリーレストランへ向けて歩き出している溜渕の背に、龍一郎は不安を混ぜ込んだ声色で問うた。
「学校と今……性格が違うというか、その――」
「裏表が無い人、っているじゃん?」
龍一郎が一歩後ろを付いて来ているという確信を得ているのか、少女の足取りは淀み無く、むしろ軽快にすら見えた。
「ボク、そういうの有り得ないって思うんだ。誰だって一つや二つ、別の顔を持っているのが普通じゃない?」
ニッコリと笑んだ溜渕恵琉の横顔は、歩行者信号で並び立った少年の目にハッキリと映った。
「ほら、あそこだよ、ファミレス! 詳しい話はあの中で、ね」
慣れた様子で入店する彼女に……何処となく、例えば霞に手を伸ばすような感覚を覚えた龍一郎は、周囲を一度見渡し、顔見知りが一人としていない事を確認した。
不埒。その二字が脳裏を過った故である。
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