第3話:ヤベーグル

 翌日、空腹に眉をひそめる四時間目になった頃、「今日の弁当の中身は何だろうか」と青春のエネルギー源に思いを馳せた龍一郎は、寝坊から慌てて家を飛び出した記憶が蘇った。


 ……あっ、弁当忘れてんじゃねぇか!?


「えー、そいでだなぁ。プロレタリア文学を理解する為には、文書だけじゃなく、その時代背景をしっかり頭に浮かべてぇー」


 現代文の教科担任は実に目ざとく、少しでも目を閉じている時間が長い生徒は親の恨みの如く叩き起こし、早弁を仕掛ける者でもいれば烈火よりも激しく怒り出した。ただし、求心力の高い授業を行っている訳ではなく、「教師生活二〇年が生み出した珠玉のマニュアル」と自賛する手帳片手に、カリカリと黒板にチョークを滑らし、板書に次ぐ板書を強制するばかりであった。


「……」


 コツリと消しゴムを突き、机の下に落とす龍一郎。拾い上げると同時に鞄の中身を検める魂胆だった。もし弁当が無ければ製菓部特製、という逸品を買い求めなくてはならない。冬期休業期間によって久しくベーグルを食べていない為、既に口内がベーグルを求めて唾液腺の尻を蹴飛ばした。


「そもそも、こういったプロレタリア文学というのはだ、あー、金持ちが労働者を使って金を稼ぐという、まぁ資本主義的考えがー」


 毎回毎回、プロレタリア文学に絡めやがって――やや思想に偏りのある教員を横目に、龍一郎の手がゆっくりと床面へ伸びていく。そして、彼の右手がピタリと止まった。


「龍一郎……! 落とすなんてお前らしくねぇぞ!」


 何とも余計な手助けを楢館から受けたのである。普段気の利かないその男の手中から、龍一郎の確かにが顔を覗かせた。


「言っていたじゃねぇか……『俺は運気も消しゴムも落とさない、何たって代打ちだから』ってよ……!」


 龍一郎の顔面が酷く歪む。そのような発言は一度もした事が無かったからだ。


「ったく、気を付けろよ……ほら、勉強頑張れ!」


 テメェこそ頑張りやがれ、赤点常習者が――怒鳴り散らしたい気持ちを何とか押さえ込み、パイロットのようなハンドサインを見せた友人に微笑み掛ける龍一郎。賀留多の闘技に長時間触れている代打ちだからこそ可能な、精度の高いであった。


「あー余談になるけども、先生が若い頃、いやもっと若いかな、その頃に近所の資産家の家で、毎日犬の散歩をするだけのバイトをやっていて――」


 資産家宅での余談は既に一〇度聞いていた生徒達、一部の真面目な者を除き、思い思いの方法で無益な時間をやり過ごしていた。結局その後も教科担任は余談に継ぐ余談を披露し、授業時間の五分の一を消費するという暴挙に出たが……。


「……くっ」


 どういう不幸か、原始共産主義を唱える教科担任の目線は龍一郎の方を向いており、鞄の中を弄る事が出来なかった。丁度その時、少年の母親が忘れていった弁当を昼食代わりに食べ始めた――。




「おい龍一郎! そんなに焦ったって無くならねぇよ!」


「うるせぇ! 黙って走れ! いや飛べ! お前は階段を降りるな、飛べ!」


「近江、飛ばせたら駄目だ、怪我でもされたら面倒だぞ!」


 時は流れて昼休み、男子三人組は仲良く昼食に舌鼓を打つ――余裕は無かった。果たして龍一郎の弁当が無いと判明した矢先、一人は自ら、もう一人は嫌々ながら、彼の昼食を調達すべく、休息の時間を削って購買部へ駆けているのだった。


「その角を曲がったら購買部だ……流石に間に合ったな……!」


 相貌の恐ろしさと内面の優しさがミスマッチな羽関は、実に危険な台詞フラグを口にしてしまった。楢館も「、今日は食べられそうだな!」と拍車を掛ける。


「着いたぞ――……っ!?」


 羽関が目を見開き、楢館が口をアングリ開き、龍一郎が――膝を折った。


「嘗めていた、花ヶ岡をっ……!」


 楢館の声など彼方に吹き飛ばす程の賑わいが、最熱狂時間ピークタイムを迎えた購買部にはあった。龍一郎のように弁当を忘れて来るうっかり者、毎日昼食を購買部で調達するお大尽(の通称)、そして……。


「はいはい押さないで押さないで! 製菓部特製、ヤベーグルはまだ充分にあります! 押さないで押さないで! お一人一個、お一人一個! プレーンにクランベリー、チョコレートにキャラメル、抹茶もまだふんだんにありまーす!」


 花ヶ岡高生の腹の虫を満足させる魅惑のベーグル、その名もヤベーグルを求める猛者達が、火砕流の如き勢いで店内へ押し寄せているのだ。


「げっ、ベルが鳴った!」楢館が素っ頓狂な声を上げる。ヤベーグルに限り、在庫が半分を切った時点で購買部員がハンドベルをけたたましく鳴らした。リンリンと鳴り続ける中、「プレーン!」「こっちはキャラメル!」と生徒が手を上げる様子は、何処かの競場のようだった。


「俺達は雑誌コーナーにいるわ、まだ立ち読み出来ていない雑誌があるから」


「たまには買えよな……」


 羽関の溜息も、しかし楢館には届かない。金花会に出向けば花石を毟られ、駄菓子を人気取りの為に女子生徒へ配る彼の巾着袋は、底に穴を開けたも同然だった。二人が人混みを掻き分け雑誌コーナーへ向かって行くのを見送り、龍一郎は一歩、また一歩と進む行列に身を投じた。


「ねぇ、あの一年生何なの?」


「知らない、ルール守れやって思うわぁ」


 二年生の女子生徒二人が、不愉快そうに耳打ちをし合う。彼女らの視線の先、行列の先頭で、見憶えのある後ろ姿が購買部員とをしていた。


「……っ」


 龍一郎の顔が俄に強張る。彼の変貌など知る由もない、の一年生――梁亀姫歩は、若干声を震わせながら、ベーグルの追加購入を依頼していたのである。

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