第2話:音無きラグチュー
「……それで、ここが梁亀さんのロッカーねぇ。前使っていた人のハンガーが掛かっているけど、その……要らなかったら――」
「いえ、私でよろしければ……使わせて頂きたいです」
「そ、そう? だったら三本入っているわぁ。好きに使って頂戴な」
「ありがとう御座います、助かります」
「次はポットなんだけど――」
一見はスムーズな宇良川の部室案内に、しかし龍一郎は微少の棘が指先を突くような感覚に襲われていた。突然の移住者に驚いてか、トセはいつしか龍一郎の傍に立っており、笑うとも嘆くともつかない表情を浮かべ、電気ポットの使い方を学ぶ姫歩を見据えている。
どういうタイミングなんだ? 俺が彼女を認識した瞬間に、まるで狙い澄ましたかのように――。
「……」
この紅茶は私が買っているので、飲みたい時は一声掛けてくれ――宇良川がレンガ造りの家を模した茶缶に視線を移した瞬間、姫歩がふと龍一郎を見やる。トセは丁度掛かって来た電話へ応対すべく、いそいそと廊下へ出て行った。
姫天狗友の会部室で声を発しているのは、二年生の宇良川一人であったが……。
「それと、梁亀さんも好きなコップなりカップなり湯飲みなり持って来て――」
今日まで一言も言葉を交わさなかった少年少女のまにまに、音を超えた交信が確かに在った。
「……」
新たなる部員は龍一郎を見つめ、少しだけ、笑んだ。迷子が母親らしき人物の背中を見付けた時のように、希望と不安を混ぜこぜにしたそれは、龍一郎の心中を乱暴に揺らしてしまった。
「あら、私も電話かしら」
ついと顔を上げた宇良川。スマートフォンは無機質に震え、画面にはクラスメイトの名が表示されていた。
「近江君、お菓子のルールを教えてあげて頂戴な。ちょーっと電話して来るわぁ――もしもしぃ? うるっさいわねぇ、一昨日借りたばかりでしょう?」
「は、はい……」
わざとらしい程の偶然は、しかし避けようのない現実として少年を
「えーっと、梁亀、さんだよね」
「えぇ、よろしくね、近江君」
自己紹介は一〇分前に終えていたが、龍一郎は菓子類のルールを説明し始める前に一拍、間が欲しかった。慣れない案内に惑う彼を気遣ってか、取り残された姫歩は微笑を絶やさず、更に笑みを足して一礼する。
「宇良川さんの言っていたお菓子について、なんだけど、基本的に自由に食べて良い。『これだけは自分で食べたい』ってのはそこの付箋を貼って、名前を書いて……」
辿々しい自分の説明に嫌気が差す龍一郎。一方の姫歩は丁寧にメモまで取っており、早期の順応を自らに課しているようだった。
「名前の無い、あーっと付箋の貼っていないお菓子の事だな。それを食べた時は必ず一つ補充して、絶対数を減らさないで欲しいんだ」
部室には檜で作られた茶箱があり、蓋には卒業生の何者かが書いた天狗の絵、すぐ下には「カミ隠し厳禁」と書かれていたが――。
「ふふっ。天狗と付箋を掛けているのね? 面白いわ」
「えっ?」
「天狗といえば神隠しよね、付箋の紙を隠して食べちゃう事と掛けている気がするわ」
数秒置き、龍一郎は合点がいって目を見開いた。
「…………確かに」
「あら、今まで気付かなかったの!」
宇良川に連れられて部室へやって来て以来、初めて声を上げて笑った彼女は、すぐに「ごめんなさい、話の腰を折って」と謝罪した。
「いや、良いんだそんな事。――二人とも、いつまで電話してるんだろうな」
溜息を吐きつつ扉の方を見やる。時折宇良川の笑い声が聞こえてきたが、最初に脱出したトセの気配は感じられなかった。
逃げたな、おトセ――あれ、俺は何故そのような考えに至ったのだろう?
付箋の在処を伝えつつ、龍一郎は眉をひそめた。
「……これで一通り、かな。他に何か分からない事あるか? 何でも訊いてくれ」
「ううん、大丈夫よ」姫歩はかぶりを振った後、室内を物珍しそうに見回した。時々視線が定まり、一秒程見つめてから次へと動いていく。その横顔は代打ちを頼みに来る者とも、些事に悩まされる者とも違っていた。
今日からここに住むんだ……。
例えば姫歩の表情は、転勤先の社宅に到着したばかりの社員に似ていた。自分で選んだ訳ではなく、AからBへと住居を移せと、やんわりと強制されたかのようであった。
転居を余儀なくされた少女を見つめる内に、龍一郎は「そもそもの疑問」の気配にようやく気付いた。
「梁亀さん」彼の呼び掛けに姫歩が眉を軽く上げ、振り向いた。
どうして君は、この部室にやって来たんだ?
問おうとして――他意は無くとも棘の目立つ言葉であると少年は悟った。
「……」
口を少しだけ開き、二の句を継げない龍一郎の顔を見つめる姫歩は、やがて微笑み……。
「私も分からない事が多いわ。うん、色々と……色々とあった」
色々と。
短い言葉の裏に潜む醜悪な気配に、未だ青きを捨てられない少年は、唯拳を握るばかりであった。今日知り合ったばかりの男子生徒が見せた所作を、姫歩は横目で見やり――。
「けれどね? 今日は近江君や一重さん、宇良川先輩とも知り合えた。こんな素敵な場所に連れて来てもらえた……」
眼前の小さな熊の縫いぐるみを撫でる姫歩は、目線をそのままに言った。
「幸せね、私」
「ごめんごめーん! 見てみて梁亀さん!」
「お待たせしたわねぇ、梁亀さん? おトセちゃんが良いもの持って来たわよぉ?」
寸刻置かずにトセと宇良川が扉を開け放ち、賑やかな様子で部室へと戻って来た。トセは長机の上にレジ袋をドサリと置き、ニッコリと姫歩に笑い掛けた。
「まぁ! どうしたのこれ?」
「へっへーん、私はそれなりに稼いでいるからね、お菓子をタップリ買い込んで来たよ!」
「優しいわねぇおトセちゃんは! ほらほらそこのお坊ちゃん、せめて紅茶でも淹れなさぁい? 温度に気を付けなさいよ、それとカップ。この前みたいに黒色を使ったら剛拳が飛んで行くわよぉ?」
分かりました、と龍一郎は頷き、大量の菓子に盛り上がる新三人娘を見やった。新参者の姫歩は何とも嬉しそうに袋を開き、一つずつ取り出しては「これ、美味しいわよね」「あら、いつも食べているわ」と買い手のセンスを褒めちぎった。
紅茶は一〇〇度で淹れる事……宇良川は去年の四月から何度も少年に忠告をした。最適な温度の話題に限らず、彼女が「龍一郎にとって聞き飽きた忠告」を口にした時、密かに多少の不安を覚えているという事を――。
「さぁて梁亀さん、好きなお菓子は持ったかしら? それじゃあ次はお茶汲み坊やを待って、楽しい闘技と洒落込みましょうかぁ」
彼は短くない付き合いから、その癖を見抜いていた。
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