近江龍一郎、出迎える

第1話:藁と船

「どしたん? リュウ君」


 パイプ椅子に深く腰掛けたトセが、首だけを回して龍一郎の方を見やった。独特な柄の膝掛けがパサリと落ちた。


「部室に来てから、ずっとそんな感じじゃん」


「いや、別に……」


「そう?」数度、瞬きをするトセ。何をする訳でもなく、唯窓の外をボンヤリ眺める龍一郎。一分と経たない内に「ははーん……」と、トセが口端をあげた。


「喧嘩したね? と……」


 龍一郎はトセの方を振り返り、苦い顔でかぶりを振った。


「おトセは知っているか? 今日の事」


 読み掛けていた雑誌を閉じ、トセが椅子ごと向き直った。


「今日? 何かあったっけ?」


「ほら、始業式の時だ。八組の……」


 あっ、と手を打ったトセ。「知ってる知ってる! 梁亀さんでしょ」


「やっぱり有名なのか、彼女」


「有名っていうか」少女は複雑な表情を浮かべ、冷蔵庫に歩いて行った。


「……何て言ったらいいんだろ」


「もう大丈夫だ、何となく予想が付く」


 それ以上の言葉を龍一郎は聞きたくなかった。《代打ち》という他人の諍いに首を突っ込むを始めて半年以上が経ち、彼なりに「花ヶ岡に蔓延る陰日向の出来事」を見知ったつもりだったが、次々と発生する大小種々の紛争に、厭世の感すら抱いていた。




 たった三年の共同生活だろう? どうしてすぐに虐めが起きる? どうして簡単に人を嗤える? どうして多少の思い遣りが出来ない……!?




「気になるの? 梁亀さんの事」


 いよいよ雑誌を長机に放り、トセは電気ポットの方へ歩いて行った。龍一郎はほっそりとした指が引き戸に掛かる瞬間を、無機的な虚ろな目で見つめ、


「……どうして皆、そう言うんだろうか」


 フッと思い出したように口にした言葉で、少女の動きを封じた。大きな目は彼の一挙手一投足を見逃すまいと、やや開かれて一点を見据えている。


「皆そうだ。『梁亀さんの事が気になるのか』……逆に問いたいぐらいだ、『お前は気にならないのか』と……」


「おトセの事を責めている訳じゃないんだ」慌てて龍一郎が補足するも、既にトセの表情は薄曇りとなっていた。


「まぁ、リュウ君の言いたい事は何となく分かるけどさ……」


 止まったままの手を動かしたトセ。間も無く笑顔を取り戻した彼女も、何処か世間知らずな令嬢を窘めるような相貌であった。


「最近、宇良川先輩が言っているじゃん? 『札問いが少なくて良い』って。私も同感さ、やっぱり平和なのが一番――」


「平和じゃない」


 言下に龍一郎が言い切った。


「どう見ても――少なくとも俺が見る限りでは、この学校は平和なんかじゃない。今日だってそうだ、始業式初っ端からだ。まるで梁亀さんに嫌がらせするのを待っていたかのように……」


 胸奥からせり上がる、見るも腹立たしい腐った光景。


 消してしまいたいぐらいの不快感を以て、体育館での映像は少年の初心な衝動を刺激した。


「それじゃあリュウ君は」灼熱の正義感は……しかしながら、彼の数段もしているトセを焼き尽くす事はなかった。


「助けたいの? あの人を……話した事、無いんでしょ、梁亀さんと」


 トセは少年の方へ向き直り、寂しげな目で続けた。


「また……なっちゃうよ。確かに梁亀さんは可哀想な人らしいね、何でもいわれの無い理由で虐められているとか」


「じゃあ放って置けって事か……?」


 数秒の沈黙の後、トセは斜め下を見やりながら言った。


「…………有り体に言えば、ね」


 無造作な金管楽器の音がした。吹奏楽部が本格的な練習に向け、各々のウォーミングアップを始めたらしかった。価値観の合わない会話に苛立ちながら足を組んだ龍一郎は、軽く溜息を吐いて戸棚に目線をやった。目代の置いていった賀留多の数々が、なおも整然と並んでいた。


 代打ちの依頼の減少。即ちという事態に、龍一郎は当然の喜びと――ある種の不気味さを同時に感じていた。容姿も行動も考え方もまるで違い、規則性を欠いた万華鏡のような花ヶ岡において、彼のような性善説論者は実に生きにくい空間だった。


 争いが起きないなんて事は無い!


 願望と現実のギャップは如何様にも龍一郎の心を削り取れたし、またこの軋轢を我慢出来なければ今後に続く人生は大変な茨の道へと変化する。賀留多の勝敗によって他者の青春を多少でも左右する境遇は、未だ青い彼の精神を嵐の時代へと放り込んでしまったのである。


「リュウ君は優しいんだね。本当に優しい…………優し過ぎるのかも」


 再び椅子に腰掛けたトセは、読む訳でもないのに先程の雑誌を手に取り、最初の数ページを指で開閉した。


「もし、梁亀さんが代打ちを依頼して来たら、その時は全力で助けてあげるべきだよ。でも――」


「自分から行くのは賢くない。そう言いたいんだな、おトセは」


「助け船は何艘も用意出来ない。溺れている人全員に声を掛ければ、リュウ君だって海中に引き摺り込まれるかもしれないよ……」


 分かり切っている事柄を説く程、その人を逆撫でする方法はない。一生徒として、そして花ヶ岡史上初めての男子代打ちとして、更には敗北を知らない(札問いでは)打ち手として……龍一郎は頷く事も、かぶりを振る事も出来なかった。


 遠方で水面を叩く人の自力を信じるか、それともを承知で急いて船を出すか。


 賀留多という櫂を握る龍一郎は、握る指先に認めたくない迷いを覚えた。


 二人の間に微かな霧が立ち込めてから五分後、部室の扉が廊下側から開かれた。二年生代打ち、宇良川柊子がから帰還したのである。


「戻ったわぁ、それで――」


「お疲れ様です、先輩!」


 龍一郎よりも早く声を掛けたトセは、宇良川の好きな紅茶を淹れようと席を立った、その瞬間――。


「…………っ!」


 眼球が零れ落ちんばかりに目を見開き、宇良川の立つ扉の方を注視した。トセに倣い龍一郎も視線を移す。


「…………」


 指二本は入る程度に口が開いた。


「あーっと、ねぇ……」


 宇良川は実に居心地の悪そうにそっぽを向き、「勝手に決めて悪いんだけど」と苦笑いを浮かべた。


「今日から、その……が増えたのよぉ。顔ぐらいは合わせた事あるでしょう? 紹介するわ――」


 姫天狗友の会新入部員は、宇良川の紹介を待たずに一歩踏み出し、慇懃に龍一郎とトセに頭を下げ、言った。


「一年八組。。……訳あって、、入会させてもらいます。よろしく……お願いします」


 呆然とする龍一郎と不意に目が合った梁亀姫歩は、よそよそしげに……しかし人懐こい笑みを以て、軽く目礼した。




 海、河川を問わずに溺れた者を、自ら泳いで助けに行くのは禁忌とする――。


 水難救助の基本であった。

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