徨姫篇

序章

御簾の外へ

 一月一五日。小正月のその日は小雪が降り、道行く人は皆外套に顔を埋めるようにして、底冷えのする真冬日を凌いでいた。


 花ヶ岡高等学校は始業式が一〇時丁度から始まり、校歌斉唱、校長挨拶、冬期休業期間中に起きた事故件数の発表とその反省、各生徒会からの報告……粛々と式は執り行われる。一応は居住まいを正して着席する生徒達も、彼方此方で耳打ちをしては、休業中の思い出話に花を咲かせ、教員から目ざとく注意をされていた。


「……おい、おい! 龍一郎……!」


 恐れ多くも生徒会執行部の報告中に、やはり恐れを知らない(というよりは無知な)楢館が、ボンヤリ前を向く龍一郎の肩を叩いた。既に生徒会組織は大半が代替わりを終えており、壇上に立つ執行部長もまた、二年生の初々しさを残した女子生徒が、脈々と伝わる「それらしい喋り方」に則り、緊張を押し殺して全校生徒へ語り掛けていた。


「何だよ……今じゃなきゃ駄目か……?」


「お前……アレか?」


 クスクスと楢館が下品に笑う。周囲の女子生徒が毛虫でも見るかのように彼を睨め付けた。


「くふっ……お前、左山さんとのか?」


 龍一郎には楢館の言葉が解らない。上品下品を問わず、今は与太話に付き合う時間ではなかった。


「……言っている意味が解らん」


 惚けんなって……楢館はなおもしつこく問い質す。


「去年の話を忘れたか? 俺と羽関が言ったじゃねぇか、お前と左山さんはそろそろ――」


「一同、起立」


 司会のアナウンスが場内に響き渡る。龍一郎と楢館は一拍遅れて立ち上がり、慌てて一礼を行う。遠くから教員がジロリと二人を見やった。


「馬鹿っ……! テメェのせいで遅れたろうが……!」


 絞り出すような怒声が楢館を叱る。反省だけは上手な子犬よろしく、楢館はしょぼくれた様子で肩を竦めた。


「着席」


 生徒達は指示通り、ゆっくりと座席へ腰を下ろした。その瞬間、


「きゃっ……」


 短い悲鳴と共に、誰かが椅子からずり落ち――座面か何かに頭を打ったような音が聞こえた。龍一郎達と同じく、一年生らしかった。


「どうしたってんだ」


「誰か倒れたみたいだな?」


「相当な音だったな」


 二人の近くに座っていた羽関が首を伸ばす。人集りの位置から、被害者は八組の生徒と判明した。数人の教員が人混みを掻き分け、一人の少女を抱き抱えるようにして連れ出した。


「あっ、あの子……」


 後方から女子生徒の声が聞こえた。男子三人は振り返り、クラスメイトの古市蘭の言葉を待った。


「確か……梁亀……梁亀姫歩はりがめきほさん……だったかな……」


「へぇ、梁亀っていうのか。可愛いなあの子」


 いつでも舌舐めずりを欠かさない男、楢館。しかし古市は彼の醜態を咎める事は無く、駆け付けた校医と共に退場して行く梁亀姫歩を見つめている。彼女の様子が気になり、龍一郎が思わず問うた。


「どうした古市。友達なのか?」


「ううん、私が一方的に知っているだけだから……うん」


「可愛いもんな、梁亀さん」


「うるせぇぞ楢館」


「すんません」


 欲求のままに活動する男を制した羽関は、溶けていくように小さくなる人集りを眺める、龍一郎の肩をソッと叩いた。


「気になるのか、近江」


「…………いや、何で転んだのかなって」


 見てみろよ――龍一郎が三人に椅子を指差した。


「第一体育館のワックス掛けが遅れているから、今日は第二の方だろう? 椅子と椅子の間隔も狭いし……まるで誰かに――」


「止めなって、近江……!」


 古市が急いた様子で龍一郎の袖を引いた。苦虫を噛み潰したような表情であった。


なんだって……そういう事……」


 男子達は揃って口を噤んだ。古市は皆の顔を見やって一度頷き、「可哀想だけど」と声を潜めて言った。


「やっぱりあるよ、女子って……そういうの……。ましてや花ヶ岡なんだし……」


 やがて司会が式の再開を宣言し、混乱していた参加者は引き摺られるように前を向いた。ふと、龍一郎が八組の方へ目線をやった。


「……」


 一人分空いた空間、その傍で――意地悪く嗤う女子生徒がいた。




 始業式の放課後は一三時過ぎから始まる。生徒は掃除も手早く済ませ、部室棟や購買部、市街地と思い思いの場所へ繰り出して行く。つい先程まで保健室で寝ていた少女――梁亀姫歩もまた、うなじの辺りを撫でながら部室棟へと向かっていた。


「……いてて」


 休業明けという事もあり、棟内は一層の活気に満ちていた。各部室内からは割れんばかりの声が上がり、廊下をランニングする運動部員の顔も何処か晴れ晴れとしている。


 彼女の属する――正確には――《奉仕部》の部室は、四階の最奥に位置していた。壁はところどころ剥げ落ち、照明も何個か切れ掛かっている。扉の鍵は既に壊れ、という始末であった。


「お疲れ様です」


 か細い声が室内に消え入る。誰もいなかった。スリッパに履き替えて暖房のスイッチを入れ、リュックサックとコートを壁に掛けてから箒を手に取る。後は隅から隅まで、寒々とした部室を掃除していくのが姫歩の日課だった。


 掃除は三〇分間、丁寧に施す。片隅に集められた椅子や机を拭き、座布団の埃を窓際で叩き落とし、段ボールに詰められた種々の賀留多、懇意にしていた三年生から「貴女にあげます」と受け継いだを磨く。《八八》に使用する道具一式は二組あったが、最近は指紋一つ付ける事が無かった。その技法は一人では行えないからだ。


「ふぅ……綺麗になったわ」


 彼女の属していた奉仕部は、先月を以てとなっていた。理由は至極単純、「本来の存在意義と現在の状況とが乖離している為」であった。


「……何か、飲もうかしら」


 二度も生徒会へ虚偽報告を行って予算を騙し取ろうとした奉仕部は、先日まで「花ヶ岡の賀留多文化に仇なす生徒、《凶徒》を匿う《救華園》」として機能していたが、《賀留多免許制度》の施行という金花会の急激な方針転換により、凶徒のと相成った。


「あっ、まだ残っていた……やった」


 姫歩もまた、逃れる事の出来ない不幸から凶徒の辱めを受けていたが、今月中に発行される免許証によって、忌まわしき凶徒の立場から解き放たれるのだった。


「お湯……」


 部室棟四階奥――その部室には誰も来なかった。かつて賀留多を楽しんだ仲間は免許を求めていなくなり、姫歩を可愛がった三年生達も大学入試を控えている為、数える程しか登校しない。今や彼女は閑古鳥に呪われた貸元であり、勝ちも負けもしない賭客だった。


 電気ポットからカチャンと音が鳴った。まだ室温は低く、マグカップに湯を注ぐと濛々と湯気が立ち上った。戸棚には彼女のマグカップと、に備えての紙コップが置かれている。


「……」


 ホワイトボードの日付を変え、一人で掃除を終わらせ、淹れ立ての番茶を飲み、《週刊賀留多馬鹿》を読む。それだけの活動だった。


 一応は部室の不法占拠に当たったが、庭の石を引っ繰り返して、這い出たワラジムシに「ここは私の家だ、出て行け」などと怒鳴り付ける暇人はおらず、生徒会からも「無視出来る存在」として放って置かれていた。


 捨て置いて良い人物――梁亀姫歩は今、だった。


「あらっ」


 姫歩の背筋が伸びた。目線は隠れた扉の方に向いている。外側から叩くような音がした、ようだった。


「どなた?」


 落ち着いてはいたが、多少上擦ったその声色に多分の期待が含まれていた。




 誰かが帰って来たんだ! きっと、きっとそうなんだわ!




 期待を胸奥から湧き上がらせ、駆け出さぬよう、しかし最短最速で扉を開ける為に、競歩の如き様相で彼女は近付いて行く。


「今、今すぐに開けます」


 ドアノブに手を掛け、捻るその数瞬の内に……姫歩は「悲劇」を幾つか思い浮かべた。例えば、彼女を部室から追い出そうとする生徒会。例えば、救華園の残党狩りを開始した金花会。


「きゃっ……!」


 不意に開かれた扉に驚き、姫歩は尻餅をついてしまった。臀部を摩りながら顔を上げた、その先には――。


「貴女が梁亀姫歩さん?」


 緩いパーマの掛かった髪を揺らす、二年生の女子生徒が腕を組んで立っていた。


「そ、そうですが……」


 答える姫歩に二年生は名乗り返しもせず、部室の中を興味深そうに歩き回った。


「あ、あのっ! 生徒会の方ですか、それとも金花会の……」


「準備をしなさい、今すぐに」


 二年生は片隅に置かれた姫歩の私物を掴み、狼狽する彼女の前に置いた。


「……すいません、よく理解が――」


「貴女、何でも一人でやりたい? コミュニケーションが酷く苦手?」


 訳も分からず、だが姫歩は微かにかぶりを振った。


「それじゃあ、賀留多は好き? 八八花、虫札、株札、小松、黒札、伊勢札……何でも良いわ。を使って遊ぶのは?」


 今度は頷く姫歩。どうやら二年生は生徒会、金花会のどちらでもないらしかった。徽章も見当たらず、何より公的な雰囲気を感じられない人物であった。


「そう、それじゃあ良いわ。早く準備をなさい」


 貴女は一体何処から来て、何処に私を連れて行くつもりなのか……。


 姫歩はすぐにでも問い質したかったが、あまりにも二年生の放つ空気が刺々しく、下手な質問を投げ掛ければ即座に粉砕されるのは見て取れた為、後程訊ねる事にした。


 何より、今の姫歩は根無し草よりも頼りない、水面の枯れ葉も同然だった。いつ吹き付けるか分からない風に逆らわず、手慰みに引き千切られないよう、右に左に吹かれていくのが唯一の方法――と、木箱を寄越した三年生が言った。


「これと、これと……」


 準備、といっても彼女の私物は殆ど無く、小型の段ボール一つでも十分過ぎる量であった。本当は様々な賀留多やポスター、博技の結果を付けたノートなどを持って行きたかったが、出入り口付近で待っている二年生に「それは置いていけ」と却下されると感じ、止めた。


「……準備、出来ました」


「そう。それじゃ――」


 二年生がふと、段ボールの中心に置かれた木箱に目をやった。


「秘密箱かしら、それ」


「ひ、秘密……?」


「パズルみたいなものよ、正解なら箱が開く」


「へぇ……知りませんでした、ありがとう御座います」


 ぎこちなくも微笑む姫歩を、しかしながら二年生は眉をひそめて眺める。


「さぁ、行くわよ」


 扉を閉める時、姫歩は部室の中を見渡した。少なくない仲間達が打ち場を囲み、和気藹々と賀留多を楽しんでいる光景が……ボンヤリと蘇った。


 飲み物を注ぐ音、袋菓子を開ける音、札を打つ音、思い掛けない展開に笑い出す声。


 誰かを、自分を呼ぶ色々の声。




 二度と、私はここに戻れないのだろう。




「早くしなさい! 先に行っちゃうわよ!」


「ご、ごめんなさい!」


 ペコリと誰もいない室内へ向けて、姫歩は素早く頭を下げたのち、既に歩き出しているぶっきら棒な二年生を追った。


 翌日、金花会の下部組織である《銀裁局》と設備部が元奉仕部室を訪れると、残っている賀留多や書類、ポスターの類いを全て接収し、「生徒会設備部管理」の紙を扉に貼り付け、慌ただしく去って行った。


 元奉仕部室は今後、銀裁局の出張所として機能する事となった。

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