多幸有れかし、我等の姫よ

 梁亀姫歩は心優しき少女であった。


「誰にでも分け隔て無く、平等に愛を注ぐように……」


 両親は生まれて来た娘の頬を撫でて願い、また娘の姫歩も、期待に応えるように淑やかで愛深き人間へと育っていった。


 彼女にコレといった趣味は無かったが、幼い頃に祖父母の家で遊んだ百人一首の妙味に憑かれ、次第に賀留多遊びを好むようになった。ノンビリとした性格に《散らし取り》や《源平合戦》は難しく、むしろ《青冠》などといった、自分のペースで考え札を打てる技法を愛した。


 両親の勧め、豊かな賀留多文化という強烈な引力もあり、姫歩はこの春に花ヶ岡の門を潜った。今までの友人達は然程に賀留多遊びを好まなかったが、花ヶ岡高生に限っては賀留多こそが最大の娯楽であり、彼女も驚きと感動を以て、賀留多の大海へ飛び込んだ。


 坂部萌奈美と知り合ったのは入学して間も無くの頃だった。坂部は賀留多の技法を一つも知らず、口の悪いクラスメイトに笑われていたところを、姫歩が割って入り、「良い機会だわ、皆で楽しく打ってみましょうよ」と提案した。


 クラスメイトは居心地の悪さからその場を立ち去ろうとしたが、姫歩はそれを制止し、呆然とする坂部に「皆と仲良くなれる、取って置きのがあるのよ?」と微笑み掛けた。その後、《鳥刺し》という特別の賀留多を使う技法を二人に教授すると、様子を見守っていた生徒達を集めて《鳥刺し》を行った。


 難しい手順は無く、戯けたり演技をしたりと「動作」が必要なこの技法により、坂部は沢山の友人を作る事が出来た。勿論、口の悪いクラスメイトもここに含まれる。


 姫歩がクラスの中心人物へと成り上がるのは時間の問題であった。しかしながら彼女は分け隔て無くを愛し、決して他人の悪口を言わず、種々の相談にも快く乗った。「亀姫」と渾名されたのは四月後半である。


 穢れ無き陽光が降り注げば……暗く湿った日陰を好む者も現れるのが常である。彼女の眩過ぎる性質を厭い、忌避するクラスメイト達も少なからず存在した。現在、姫歩の渾名をし、嗤うのはこの連中であった。


 五月下旬――姫歩の未来が淀む事件が起こった。


 その週の金花会で《青冠》を楽しんでいた姫歩は、珍しくから誘われた事を喜んでいた。「梁亀さん、詳しいんでしょー? 教えてよ!」ニヤニヤと近寄って来る連中に、しかし他人を疑わない姫歩は「勿論! 一緒に金花会へ行きましょう!」と快諾、安くない花石を払って打ち場の一角を貸し切った。


 技法説明が終わって間も無く、一人が姫歩を誘ってトイレに連れ立った。姫歩達が帰って来てから一〇分後、別の一人が「財布が無い」と騒ぎ立てた。余りに大きな声で財布を探す為に、目付役もこれを無視出来ず、また早急な解決を目指そうと生徒会へ向かおうとした。


「いや、目付役さん。もっと簡単なやり方があります。全員の鞄をチェックして下さい」


 連中のリーダー格が言った。他の利用者も疑われては面倒だと渋々納得し、目付役に鞄の中を検めさせた。一人、二人と検閲を受けていく中、姫歩は財布を無くしたという生徒を思い、潮垂れて鞄を開いた。


 刹那――姫歩の目にが飛び込んだ。この時ばかりは笑みを無くし、有り得ない事態に困惑するしか出来ず……。


「あ、あの……こ、コレ……」


「えっ――あぁ! あった、あったよ財布!」


「えっ、ちょっと待って、アンタ私の財布盗ったって事? マジで怖いんだけど……」


 一同は響めき、「まさかあんな子が」と目を丸くした。目付役は別室に姫歩を呼び出し、「本当に貴女が盗ったの?」と訊ねた。「四月から貴女を見ているけど……財布を盗るような子に見えない」とも言った。


 姫歩は押し黙り、目を閉じ、項垂れ――やがて、意を決したように呟いた。


「………………出来心でした」




 何故、梁亀姫歩は明らかな濡れ衣を脱がなかったのか?


 何故、梁亀姫歩は悪人達を庇うような真似をしたのか?


 何故、梁亀姫歩は賀留多を愛しながら――凶徒の認定を受け入れたのか?


 常人ならば到底理解出来ない行動も、しかし彼女の中心に根差す特異な主義が、不可思議かつ無益な選択をとした。




 私は皆を愛している。彼女達もいつか、自らの行いに気付き、過ちを悔い改めるだろう。私から彼女達を責めれば、大切な気付きに出会えなくなる。


 賀留多が打てなくとも構わない、唯、彼女達が気付いてくれればそれで良い。




 人は全て善性であり、悪性の芽生えを自浄する力を持つ――姫歩は信じ、自らの不利益すらも愛する皆の為ならばと、両親にも相談せず凶徒へと堕ちた。窃盗事件は金花会内で秘密に処理されたが、これは連中側が強く求めた結果であった。


 教員にバレれば、姫歩側に付くのは明確だから……。


 一見は犯人に寛大な処分を望む、といった懐の深さを表した連中は、その実、狡猾極まりない唾棄すべき人間性の持ち主であった。しかしながら世に憚るのは悪人であり、金花会は不服としながらも他の生徒の手前、またが故に、彼女を打ち場から追放とした。


 行き場を失った姫歩はしばらくの間、消沈から笑顔のを減らしていたが、噂を聞き付けた中江の誘いを受け、救華園を新天地としてからは再び笑みを取り戻した。


 目立たないように、目立たないように……凶徒認定直後はそう思い、クラスではなるべく凶徒である事をバラさぬよう立ち回ったが、低俗な連中の「態度」が他生徒にも伝播(他言無用、と金花会から指示をされていた)、加えて頑なに人前で賀留多を打たない様子に「もしかしたら……」と距離を置かれてしまった。


 クラスは居心地が悪く、好んで通った金花会へは立ち入れない、部活動に入ろうにもまでは難しい……。


 温みを求めて彷徨う彼女にとって、救華園は実に心地良い楽園であった。中江や邑久内は優しく、打ち場を囲む仲間達は皆が脛に傷を持つ為、連帯感からかえってでもあった。


 表舞台へ浮上は出来ずとも、傷を舐め合う形となっても、それでも救華園は楽しかった。故に、中江から「救華園が潰れる」と聞かされた際、今度ばかりは自らの不遇を呪った。それ以上に……救華園に関わった生徒全ての幸福を祈った。


 現在――姫歩は唯学校に通い、授業を受け、消しゴムを投げ付けられ、嗤ってくる連中と分かり合える日を待ち望み、効力の不明な免許に思いを馳せるだけだった。


 一年と経たず、彼女は二度もを失った。常人であれば精神を病むか、或いは排他的、攻撃的な人物へと様変わりするに違い無い。しかしながら、梁亀姫歩は動じなかった。




 いつかきっと、楽しかったあの頃に戻れるはずだわ。いいえ、もっともっと……とも仲良く、素敵な未来が待っている……!




 最早盲信に近しい希望的観測を、彼女は心底であると断じていた。


 決して他人を誹らず、濡れ衣すらも受け入れる憐れな一年生を……中江、邑久内の両名はどうしても放って置けなかった。賀留多の免許が交付されると聞くや否や、多数の凶徒は救華園を脱してへ散って行ったが、姫歩、そして二年生の椿珠青だけはいつもと変わらず(互いに離れてはいたが)、奉仕部室に現れた。


 これ以上は縛り付けられないと、つい先日に中江は二人に対し、「救華園から抜け出て、君達は普通の生徒に戻るんだ」と伝えた。椿は「ここが無くなるって事? あぁそう、さよなら」と素っ気無く答え、スタスタと扉に向かった。


 椿の性格は承知していた為、中江は然程に落ち込まなかった。続いて姫歩を呼び出し、無くなる旨を伝えると、姫歩は姿勢を正し、「どうか考え直して下さい」と焦ったように言った。


「形だけでも良いのです、どうか救華園を潰さないで下さい。先輩達が卒業したら、今度は私が救華園を続けます。二人の意志は私が継ぎます」


 中江はあえて語気を強め、「馬鹿を言っちゃいけないよ」と彼女を睨んだ。


「君はもう凶徒じゃなくなる。誰もこの部室には来ないし、来ちゃいけないんだ。自ら未来を潰す真似を私達が赦す訳ないだろう? 今後……この部室は空になる。私も来ないし邑久内さんも来ない、誰一人いない場所だ。君を迎える者は――」


 分かりました、と姫歩は呟き、「上手くいかないものですね」と困ったように笑った。


「私、次は何処に行けば良いのでしょうか? 何処に向かえば、今度こそは楽しく、いつまでも過ごせるのでしょうか? 本当に救華園は楽しかった、温かかった……また、探してみます。中江先輩、邑久内先輩のような人がいる、素敵な場所を」


 その日、中江は初めて慟哭を押し殺し、力尽くで微笑する人間と出会った。


 彷徨える姫――梁亀姫歩は深々と一礼し、救華園を去って行った。

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