第8話:正義、虚構

 二二時三八分。鶉野摘祢は暗い自室の天井を、温かな布団の中からボンヤリ見つめていた。


 数時間前に――自分が取った行動の一つ一つを思い起こし、安堵とも後悔ともつかない、漠然としたやり切れなさに沈んでいた。




 あの時……泣き付いて来た矧名を介抱しながら、鶉野は複雑怪奇なジレンマと格闘していた。


 矧名を風紀管理部に引き渡せば、恐らくは――委細は分からぬものの、張り詰めた空気から矧名がに出たのは明白だった――彼女を破滅に追いやれる。当初の目的は達成出来るという訳だ。


 一方で、風紀管理部に捕まって破滅した矧名が、自暴自棄となって「花ヶ岡の暗部」を曝露し、も捨て切れなかった。そうなれば途端に《金花会》の評判はガタ落ちとなり、賀留多文化自体が崩れ去ってしまう。


 自分だけが不幸になるのは耐えられるが、「忌手イカサマの使用者」と繋がっている生徒――羽関京香や安居春音が巻き添えとなるのは避けたかった。普段なら荒唐無稽な噂は無視されがちだが、争乱の真っ只中でその影を見せれば、不思議な説得力を備えてしまうのが恐ろしかった。


 何より――病的な程に震え、怯えて涙する矧名を……幾ら憎くとも放って置くのは余りに残酷に思えた。


 彼女に備わる異常性は大変に厄介でありつつも、忌手イカサマの技術や道具を供与してくれたのは紛れも無い事実だった。花石さえ払えば精度の高い道具を作ってくれたし、生徒会や金花会の動向を逐一教えてくれたのも彼女だった。


 泣き、震え、怯え、今も和納の接近を恐れている矧名涼は――最低限の救出に値する気がした。本当かどうかは分からないが、「もう悪い事はしない」「アレも止める(造花屋の事だろう、と鶉野は考えていた)」と反省の弁も述べたのを鶉野は憶えている。


 諸々の事情と矛盾を引っくるめて……鶉野は和納に言った。


「提案があるわ。和納さん」


 俄に顔をしかめる和納。風紀管理部にとってである事を見抜いているようだった。


「焼成室で起きた事――いいえ、和納さんが問題視している事を、全て、


 出来ません――和納は即答した。果たして矧名のすぐ後ろまでやって来た彼女は、赦されるなら蹴りの一つでも喰らわせたいのか、矧名の震える背中を憎々しげに睨んでいた。


「幾ら上級生の頼みと言えども……矧名さんを放置出来るはずがありません。そもそも……何故、矧名さんを庇うんですか?」


「それは教えられない。――言えない事は言えない。お互い、難しい立場にあるのよ」


 少しの間を置き、和納は「では教えます」と冷たく言い放った。


「矧名さんは、私の後輩である中室さんと……広報部長である舟原貴枝さんに暴行を働きました。どうです、これでも矧名さんを庇う必要がありますか」


 俯く矧名はビクリと身体を震わせた。制服越しに伝わった振動から、「暴行」は事実である事を悟った鶉野は……「何と愚かしい事をしたのか」と溜息を吐きたくなった。


 狡猾で、暴力的で愚かな女。そんな矧名をそれでも庇わなくてはならない自分に、鶉野は嫌悪感すら覚えていた。


「ええ。庇う必要があるのよ」


 ごめんなさい、和納さん。鶉野は心中で何度も謝った。


「それに、一つ訊くけど――」


 この次の言葉は、実に悪党じみたものであり……暗い天井を見つめる鶉野を今も苦しめていた。



「……しょ、証拠…………?」


 血も涙も無い質問に絶句したのか、和納は泣き出しそうな顔で鶉野を刮目した。


「そう、証拠。矧名さんが中室さんと舟原さんの首を絞めたとして、その証拠は何処にあるのかしら。少なくとも私には、『確実に首を絞めた』と言い切れる証拠が揃っているようには思えないけど」


 ごめんなさい、本当にごめんなさい……鶉野はなおも心で謝罪し、戸惑う和納を口撃した。


「仮に矧名さんを連れて行って――会議か何かで――吊し上げたとする。皆は言うでしょうね、『証拠はあるのか』と。失礼を承知で言うけど、矧名さんは《目付役》、貴女達は風紀管理部。書類上は同じ立場でも――」


 


 最低な発言をした――鶉野は当時も、そして帰宅した今も……自覚していた。


 風紀管理部の立場は弱い。


 誰も口にはしなかった。それは風紀管理部員の皆が「置かれた立場を分かっているから」だった。全体会議の座席が隅の方に追いやられても、発言時間が他の部局より少なくとも、予算が少しずつ削られていっても……決して誰も口にしなかった。


 をしていた方が、何事も安楽に過ごせるからだった。


 現実は不公平である――鶉野がその事実を無慈悲に叩き付けた時、和納は拳を握り締め……歯噛みして落涙した。


 声を出さず、唯悔しそうに俯き、肩を恐らくは怒りと遣る瀬なさに震わせ泣き出した和納に、ようやく泣き止んだ中室が寄り添った。


 正義は貴女にあるわ――そう言葉を掛けてやりたかった。


 この女が悪い事ぐらい、誰でも分かるもの――と慰めてやりたかった。


 鶉野は項垂れる矧名を抱き抱え、その場を立ち去ろうとした。「分かっています……」と暗い声で和納が背後で言った。


「……風管部が弱いって事ぐらい……分かっています……。何を以て線引きしているのか、誰も教えてくれない。でも……下に見られているのは痛い程分かります。……貴女は三年生でしょう。教えて下さい。これだけは、これだけは教えて下さい……! 私は、私がやろうとした事は――」


 絞り出すような和納の声は、今も……鶉野の耳にこびり付いて離れなかった。




 間違っていませんよね……?




「……っ」


 暗闇の中、鶉野は掛け布団を引き上げて顔を覆うと、瞼を思い切りに閉じた。腹部の激痛に耐えるような表情は、しかしながら誰にも認められない。


 私がやろうとした事は、間違っていませんよね。


 何度、和納の訴えが頭で響いた事か……鶉野自身にも分からなかった。果たして返事もせずに遠ざかって行く二人を見つめ、泣いていたはずの和納を思った。


 その姿はやがて白い靄で包まれる。ゆっくりと靄が晴れていき……第一の仇敵――に成り代わっていた。黒い隈の目立つ顔は、あの和納のように「正当性」を訴え始めた。




 鶉野さん。私、一生懸命に勝とうとしたんだよ。、垂野さんを助けようと思ったの。


 私は代打ちだから。負けたら駄目なんだ。勝たなくっちゃ意味が無いんだよ。


 ねぇ、鶉野さん。私の取った行動って……。


 間違っていたのかな――。

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