第7話:最終手段

 おおよそ一〇秒も経たぬ内に、中室は「舟原貴枝と同じ目に遭わされた」と和納に訴えるはずだった。はず……では無い。――矧名は痛切に理解していた。


 途端に「見たくもない絶望的未来」が、怪物じみた恐怖感と現実味を兼ね備え、矧名の脳内で強制的に広がっていく。


 事象の流転が好きだった。人間と人間がぶつかり合い、小さな問題が次第に泥沼化して、やがては巨大な腐れた湿地帯になるのが好きだった。湿地帯の成分、規模は予想と離れている方が、もっともっと離れている方が好ましかった。


 但し――遠い安全地帯から、望遠鏡を以て観察する場合に限る。面白がって覗き込む内に、は避けたかった。


 今、矧名涼の両足は……暗色に染まり切った汚水に浸され、毒泡が彼女の仲間入りを歓迎する拍手のように、パチパチと湧き上がっては破裂した。




 私って、この後はどうなるんだろう?




 脂汗が額を流れ、目尻に沿って床に落ちた。《札問い》の当事者達をも笑顔にしてしまう優しい目は、今や焦燥と絶望に怯えてしまい、限界まで見開かれていた。続いて目眩が彼女を襲う。昏倒してしまえばその場は凌げるだろうが、追求から逃れられる訳は無い。むしろ、和納達に「抜け目の無い論理を組み立てる時間」を与えてしまう。


 中室だけなら、もしくは暴力で――舟原貴枝のように――屈服させられるはずだった。しかし中室の傍には、「成人男性を完全に制圧出来る女」がいた。矧名は強い混乱の中で、「次はもっとバレないように暴力を使わないと」と自らを戒めた。


 次っていつだろう? 矧名は思った。自分によく似た声が何処からか聞こえた。


 次? 何を言っているの? 次はもう無いよ――。


 胸の奥に溜まっている液体を、滅茶苦茶に掻き混ぜられたような不快感は……完全に手詰まりとなった彼女に対し、揺るぎない終末を悟らせるに充分だった。


 鼻の奥が痛くなった。質の悪い風邪を引いたように、顔の下半分が重くなった気がした。


 私の行いが悪かったんだ――などと遅過ぎた反省は、しかし彼女の心に生まれていない。


 ――浮かんだ言葉はこれだけだった。


 そして矧名は三秒後、毛頭信じてはいない何処かの神、或いは天上からもたらされた「最後の好機」を、数瞬の内に膨大な言葉を以て喜んだ。


 砂を靴底で擦るような音が、焼成室の外から聞こえた。


 が焼成室にやって来たはいいものの、中の異常な様子を感じ取り、思わず後退ったような音。




 今……そうだ、今の時間は…………。これしかない。これしかない。これしかない。これしかない。今出来る事はこれしかない――!




「っ、何処に行くんですか!?」


 急に立ち上がった矧名に和納が叫んだ。外に飛び出そうとする容疑者の身体を制止するべく、右手を伸ばしたが……。


 果たして、矧名は室外へと放たれてしまった。矧名は緊張の糸がプツリと切れたかの如く、に縋り付いて子供のように泣きじゃくった。


「だずげで、だずげでぐだざいぃ! 、鶉野ざん! お願いします、お願いじまずぅうぅ!」




 涙とは程遠い存在――矧名涼が人目も憚らず、涙と鼻水でグチャグチャになった顔も気にせず、「助けてくれ」と泣き付いて来た。有り得なく、しかし実際に起こった奇事に……。


 現時刻は一八時半。


 この時間のである鶉野摘祢は、唯々驚き、「お姉ちゃん」と言って同じように泣き付いて来る弟達と矧名とを重ねてしまった。


 破滅に追いやるはずの対象が、あらゆる平穏を打ち壊そうとしていた悪魔のような女が――恥も外聞も捨てて、「鶉野さん」と泣き叫び、助けを求めて来た。


 決定的な弱味が、鶉野摘祢には存在する。


 それは……。


「うぅ、うぅううぅ! お願い、お願いでずがらぁ……もう、もう悪いごどはじまぜんがらぁ!」


『うわぁーん! お姉ちゃん、ごめんなさい、ごめんなさい! 人参捨てようとしてごめんなさい! ちゃんと食べるからぁ!』


「もうじまぜん、もう、もう、もう誰も困らぜだりじまぜんがらぁ! 止めまず、も止めまずがらぁ!」


『ごめんなさいお姉ちゃん……ひっく、ひっく……夏休み……宿題溜めてて……』


「だ、だがらぁ……今、今までの、今まで……赦じで、赦じで……」


『ごめんなさいお姉ちゃん! 僕、僕……木登り……お姉ちゃんに見せたかったのぉ……うぅ、お姉ちゃん……高くて……怖いよぉ……』


 お姉ちゃん――鶉野さん――お姉ちゃん――鶉野さん――!


「わ、私を…………」




 助けて下さい。




 泣いている人間を、どうしても……彼女は放って置けなかった。


 嫌いな人参を捨てようとした弟を叱り、彼女は一緒になって人参を食べてやった。


 夏休みの宿題を溜め続け、最終日に泣きながら助けを乞うて来た弟を叱り、彼女は共にプリントを終わらせていった。


 自らの勇敢さを姉に認知して欲しかったが為に公園の高い木へ登り、果たして降りられなくなった弟を叱り、彼女はスカートのままよじ登って助けた。


 鶉野摘祢は、優しかった。


 優しい彼女がどうして……泣き付いて来た矧名を、見捨てる事が出来よう。


 それから、鶉野は無意識に屈み込み、持っていたハンカチで矧名の顔を拭いてやった。風紀管理部の二人はしばらくの間、呆然と立ち尽くして矧名を見つめていたが、やがて和納が沈黙を破った。


「……三年生の方、ですよね。私、風紀管理部の和納万波実といいます。すいませんが――」


 。この言葉に呼応して、矧名の身体はガタガタと震え始めた。「怖い、怖い」と譫言のように繰り返しもした。鶉野が返事をしようと首を伸ばした瞬間……。


 矧名の両手が、鶉野の制服を力無く握った。フゥ、フゥと恐怖による呼吸の乱れが生じ、極度の興奮と落涙によって体温の上昇すらもハッキリと感じられた。


 どうしようも無く弱り切った矧名涼からは、最早花ヶ岡の暗黒を取り仕切る《造花屋》の度胸は見出せず、とうとう彼女は札の一枚も打てない、泣き虫な少女へと成り下がった。


「お願いします。矧名さんを此方に寄越して下さい。その人は……赦されざる行為を二度も犯しています。花ヶ岡の治安を守る立場として、見過ごす訳にはいかないんです」


 そこにいて――和納は中室に囁くと、ゆったりとした足取りで……。


 鶉野達の方へ近付いて来た。

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