第2話:部長の為に
ワッフル屋に行きたい――中室が照れながらそう言ったのは五分前の事だった。
時として、誰かが台本を用意しているのではと疑いたくなるくらいに……偶然は物事同士を連結させていく。中室を従えて廊下を歩く和納はまさに――。
事態の急転を後押しする、見えざる手の存在を敏感に感じ取っていた。しかしながら和納は「偶然」の出現を好ましく思えなかった。
万波実、良い事など起きたとしても、ピンと切れて後は続かん。続くのは悪い事ばかりだ――空手の技術以外に、世間の陰日向に潜む不文律を教えてくれた祖父の言葉だった。
本丸がワッフル屋にいるんですよ――意を決して伝えるべく和納は振り返るも、初めての仙花祭に浮き足立つ中室は目を輝かせ、装飾された廊下や掲示板、充満する甘い匂いや愉快な雰囲気の感想を口にした。
「部長、やっぱり凄いですね花ヶ岡は……! 中学の時から噂は聞いていましたが、本当に神宮祭、いやそれ以上な気がします!」
駄目だ、この子を巻き込むなんて出来ない……ウキウキとした後輩に微笑み掛けた和納。同時に「彼女が犯人である事を突き止めて、自分は何がしたいのか」と首を捻りもした。
「部長、着きましたよ! あぁ……美味しいそうな匂いですね」
美味しいワッフルはここだけ! 丸っこい文字で書かれた看板の横を過ぎて行く中室の後を、保護者のように一歩退いて付いて行く和納は――二年一組の教室内に容疑者の姿を捜した。
「いらっしゃーい。あれ? 和納じゃん、警備は良いの?」
「はい、今は休憩時間ですからね」
一年生の時に知り合った女子生徒、
「こんにちは! ワッフルを買いに来ました!」
陸上部に所属する分藤は中室の態度を気に入ったらしく、「活きが良いね」とウインクした。
「和納の後輩なら安くしとくよ! この時間の店長は私だからねっ」
「本当ですか!? ありがとう御座います!」
やがて中室は販売係の二年生に連れられ、お勧めや売り切れのワッフルについて説明を受け始めた。微笑ましい後輩の姿を見つめる和納の元へ、分藤が「どうした?」と眉をひそめて尋ねて来た。
「何か、いつもの和納じゃない感じだけど」
「い、いえ……そんな事は――」
水臭いぞ和納――自らのと和納の肩をぶつけた分藤。
「一年の時、最初に友達になったじゃんか。言ってみなよ」
これ以上の隠し立ても難しく思われた。数秒の間を置き……和納は尋ね人の名を告げた。
「あぁ、アイツなら前のシフトだったからね。しばらくは戻って来ないんじゃないか? 戻って来たら和納が捜していたって伝えとく?」
「ううん、それは大丈夫です。大した用事じゃないんで」
そう? と分藤はニコリと笑い、「和納も何か買うよね?」と小さなメニューを取り出した。可愛らしいワッフルのイラストを眺めている内に――和納はハッと顔を上げた。
「そう言えば分藤さん」
「はいはい?」
傾いた看板を直しながら分藤が返す。
「工芸部の焼成室って……今、誰か使っているんですか?」
完売御礼と書かれたマグネットを該当する品名に貼り付け、分藤がうぅーんと唸った。
「そりゃあ工芸部が使っているんじゃないかな。ちょくちょく出入りはしているみたいだけど」
「例えば、誰……ですかね」
誰ぇ? 分藤は困ったように眉をひそめ、スカートに付着した埃を手で払った。
「私も付きっきりで見ている訳じゃないし…………あぁ!」
暗がりの部屋で点けた照明のような明るい声で分藤が言った。
「それこそ、この前は矧名が出入りしていたぞ?」
俄に――和納は胸中に渦巻く黒雲が増幅し、着実と人の形へと形成されていく気がした。ところどころ赤黒いそれは……いつもニコニコとして誰からも愛される目付役、矧名涼の姿へと変貌していく。
疑心が限り無く確信に近付いた、その時である。すぐ傍で紙袋を胸に抱き、心配そうに見つめて来る中室の姿を認めた。
「あっ、あぁ……中室さん。好きなものは買えました?」
普段は明るい中室が、何処か不安げな様子で頷いた。
「えーっと、何円でした?」
良いよ良いよ、と分藤が笑った。
「私からのサービスって事で! 風紀管理部は大変だからさ、それを食べて、昼からも警備よろしくね!」
仮設テントに戻った二人はそのまま椅子に座り、喧噪の中で幸運にも無料で手に入れたワッフルを齧っていた。時折どちらかが「美味しいですね」と語り掛け、もう一方が頷く。その繰り返しだった。
焼成室――その話題は互いに触れないよう、暗黙の了解を取っているようだった。思い出したように鳴る無線機に返事をする時だけ、二人の表情が少しだけ和らいだ。
「……部長」
先に口を開いたのは中室だった。唇に強力な接着剤が塗布されているかの如く遅々として、「部長」と繰り返した。
「舟原さんの痣って、さっき言っていた――」
「分かりません」
和納は即答した。似合わない断定的かつ、突き放すような言い方に中室は驚いたようだった。
「さっきも言った通り……とっても難しい問題なんです。一歩間違えれば冤罪になるし、かといって放置すれば被害は深刻化するし……」
自らに言い聞かせるように和納は続けた。
「もっと証拠が必要なんです。『犯人は貴女だ』と決め付けるんじゃなくて、『犯人は貴女じゃない』と言えるように……」
心配しないで――潮垂れた様子の中室の方を振り返り、和納が笑った。
「他の部局の協力を仰ぎましょう。そういった調査に長けた人達の方が、私達よりずっと早く、正確な情報を掴めますしね」
ですが……中室は不満げに反論した。
「風管部だってやれば出来る、とアピールするチャンスですよ。少しずつ予算が削られていって大変だって……部長も悩んでいたでしょう」
「それこそ心配はご無用です。まぁ、そういう交渉事は苦手ですけど、ほら、私も一応は部長ですから!」
トン、と胸を叩いて見せる和納。紙袋から新たなワッフルを取り出し、「もう一つ貰います」と笑った。
この時、和納は重大なミスを三つも犯していた。
一つ。中室の忠義心を完全に把握出来ていなかった事。
一つ。決して独断による調査を行うなと厳命しなかった事。
一つ。敵がどのような手段に出るか全く不明であると伝えなかった事。
姿も声も、名も分からぬ存在が……和納の過失が如何に重篤であるかを証明する場を用意したのか――。
その日の一七時四〇分、中室歌織は翌日の警備体制の最終確認を和納達と終えた後、たった一人で静まり返るグラウンドを歩いていた。
日頃より、ボランティア警備員と揶揄される風紀管理部の名誉挽回を実行すべく、そして昼間耳にした「会話」から生まれた疑念を晴らすべく……。
工芸部管轄、焼成室へと向かった――。
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