第3話:質問の時間
砂地を踏み締める度に靴底から鳴る音が、グラウンド一杯に響き渡るような気がした。遠くから自動車の走行音や生徒達の笑い合う声が聞こえて来るものの、全てが「異世界」で起きている事象に思えた。
強い緊張がもたらす外界音との別離を――中室は五月に初めて挑戦した組手の試合とを重ねていた。
頑張れ中室。緊張しちゃ駄目だよ――。
あの日、ライバル校を招いて合同練習をした五月一三日の昼下がり。
同輩先輩様々な人から届く声援も、後ろに聞いてはいるが「聴いて」いなかった。対峙する相手は呼吸一つ乱さず、むしろ「こんな素人とやらされるのか」と溜息すら吐いているようだった。
始め、と主審役の顧問が叫ぶ。両校の部員達が声援の量を一気に増やす。相手側から「無理するな」と声がした。それは味方に対してか、或いは未熟者の自分に対してか――中室は悔しくなって一歩、前に出た。相手は動かない。
今だ! 部長の和納から教えて貰った上段逆突きを、恐怖心も振り切って相手に打ち込んだ。
次に、腹部へ衝撃が走った。ドンという、痛みより先に来る拳大の衝撃。「止め」と顧問が叫ぶ。四隅に座った副審達は、皆が相手側の色――赤色の旗を揚げている。
赤、中段突き有効。続けて始め。
試合の続行を宣言する声を最後に、中室の記憶は曖昧となった。
上段を打たれた、気がした。中段蹴りを入れられた、気がした。転ばされた、気がした。もう一度転ばされた、気がした……。
試合が終わり、中室は準備運動程度の汗しか掻いていない相手と握手をし、「ドンマイ」と声を掛けて来る先輩への挨拶も程々に、そのまま格技場外にある水飲み場へ向かった。
あんなに練習したのに。部長だって「良い突きですね」と褒めてくれたのに。どうして唯の有効一つも取れないんだろう。
汗ばむ顔を洗い、荒い息を落ち着けようと深呼吸をしている内に、中室はポロポロと涙を流していた。
同輩に、先輩に、顧問に、そして部長に――恥を掻かせてしまった。
長年に渡って鎬を削っているライバル校との練習試合、そこに唯一人、一年生として抜擢されたにも関わらず完敗した……。
何と情け無いんだろう、私は。
消沈する中室は涙を拭いて格技場へ戻り、何事も無かったかのように試合を観戦し、声援を送った。やがて合同練習は終了となり、ライバル校や部員達を見送った後、彼女はなかなか帰ろうとしない和納に「帰らないのですか」と声を掛けた。格技場の鍵を閉めるのは中室の役目だった。
和納は何も言わずに近寄って来ると、いきなり「情け無いですか」と冷たい表情で問うて来た。すぐに練習試合の事を訊かれているのだと分かった中室は、コクリと黙して頷いた。
我慢しなさい――和納が呟いた。何の事だと眉をひそめた瞬間、中室は頬を強く打たれた。ジンジンと沁みるように痛む右頬を抑え、いつも優しかった和納を驚嘆しながら見やった。
「情け無さに泣くとは何事ですか。悔しいと言って泣きなさい」
私が泣いているのを見たんだ。でも、どうして――理解が及ばない中室に、和納は淡々と続けた。
「情け無いと泣く人間に進歩はありません。ちくしょう、悔しい、次は負けない――成長を決意した時に流す涙こそ……わざわざ泣く意味があるのです。そんな下らない理由で泣いているぐらいなら、空手なんて辞めなさい!」
そのまま和納は振り返り、防具を詰めた鞄を持って立ち去った。
俄に――焦りでは無く、温かな布団で包まれたような安心感が……中室を包んだ。
この人に付いて行く。落胆されても、誹られたとしても……何処までも付いて行く。私の三年間は――それしか無い。
泣いた理由を下らないと言われ、頬まで打たれた中室は、しかし上履きも履かずに走り出すと、曲がり角に差し掛かった和納を何とか捕まえた。
振り返らない和納に何と声を掛けようか……考え抜き、中室は謝罪やその他の気の利いた言葉を放棄し、深々と一礼して叫んだ。
「お疲れのところ申し訳ありません。今から、稽古をお願いします」
しばらく経ち、和納はかぶりを振った。もう一度お願いしようと中室が息を吸い込んだ瞬間、和納はサッと振り返って彼女の手を取ると……。
「良い稽古には、良い栄養が必要ですから」
困ったように微笑む和納は、中室を連れて近所のファミリーレストランに向かった。それから二人は格技場に戻り、一八時頃まで追加の稽古に勤しんだ――。
日頃面倒を掛けている部長への、せめてもの恩返しとして……今日、中室は恐らくは咎められる独断専行すらも行い、和納の役に立とうと考えていた。
「焼成室」と手書きの看板が提げられた小屋が見えて来た。誰もいない事は知っていたが、それでも中室の歩行は覚束無く、抜き足じみたものになった。ねぐらに帰る烏が鳴いた。上空を見やり、深呼吸してから扉に手を掛けた。
「よい……しょ……っと」
ガタガタと扉が鳴った。屋内に人の気配は無い。入る前に確認するべきだったと今更後悔した中室は、今一度勇気を振り絞って侵入した。
「……扉、閉めておこう……ゴホッ、ゴホッ」
何て埃っぽいんだろう……ハンカチで顔の半分を抑え、スマートフォンの明かりで探索を始めた。使われなくなったオーブン、積み上げられた段ボールからは破れた模造紙が飛び出し、その横に丸椅子が置かれていた。
「あれ? ここだけ……埃が少ない」
中室はしゃがみ込み、隅に置かれたオーブン――どの機械よりも壊れ、取っ手の部分が欠けていた――の前だけ、妙に埃が少ないのを認めた。中を開けてみるが、何も入っていなかった。続いて傍の段ボールを開けようと手を伸ばした瞬間……。
ガタン、と後方の扉が開いた。
突き刺されたような痛みを胸に覚えた。高鳴るどころではない、和太鼓を思い切りに叩いたような拍動に……思わず中室は手で胸を押さえた。
背後から強い光を向けられた。振り返る中室は眩さに顔を覆った。
「ウズラノさん? 何を――」
同じくスマートフォンを持った何者かが、「は?」と驚嘆の声を上げた。
「えっ、いや……は?」
その人物――女子生徒は後ろ手で扉を閉め(馴れた手付きだった)、硬直する中室の前までやって来ると……。
「何をやっているの?」
自らも屈み、中室の震える双眼をジッと見つめた。
「な、何も――」
「何をやっているの?」
生唾を飲み込む中室。詰問してくる生徒の柔らかな癖っ毛が、浮遊する埃の中で浮き立つようだった。
「っ、わ、忘れ物を――ヒッ」
ゆっくりと……中室の後ろ髪を、癖っ毛の生徒が撫でた。
「何をやっているの?」
その生徒は微笑んだ。が――双眼は強い怒りを湛えているようだった。
「うぅんと……お話、好きですか? それとも嫌い?」
私は大好きです。
ニヤリ、と女子生徒の口角が上がった。
部長、すいませんでした。
中室の双眼が潤み始めたのを認めた女子生徒は、「ンフッ」と嬉しそうに笑い……耳元で囁いた。
「質問タァーイム……ひとぉーつ。貴女はぁ……空手道部と風紀管理部を掛け持ちする一年六組の中室歌織さん――」
合っていますよね。
俄に――癖っ毛の生徒から笑みが消えた。
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