第6話:隣の部屋で

「っ……」


 やや口を開き、首を微かに傾げる萬代。彼女を説き伏せるように……京香は続けた。


「萬代さんは私を気遣い、年長者として処世術を教えてくれた事は感謝しています。でも……鶉野さんに関わるを踏まえてもなお、私は鶉野さんとお話したいし、賀留多を打ちたいんです。それ程までに……鶉野さんは素敵な人です」


「……あの女は忌手を使い、今でも石っころを稼ぎまくってんだぞ。悪事がバレてみろ、。テメェはそれを理解した上で……抜かしているんだろうな!」


 萬代も呼応するように立ち上がり、京香の胸ぐらを掴んで怒鳴った。


「賀留多が強ぇようだが、世間の事は一切知らねぇみたいだな。人間ってのはな、悪評をいつまでも憶えているもんよ。いつまで立っても後ろ指を指されんだ、やってもいない事で虐めに発展する事だってある……」


 故を語ろうとして――遂に萬代は口を噤むと、一度京香から目を逸らした。


「……萬代さん」


 よく聴けひよっこ――意を決するように息を吸った萬代は、怖がらせるというよりかは……説得を試みるかのような声調だった。


で――これでも言葉を選んで喋っているつもりだ。テメェの言う通り、私は義理を何より大事にする。それが……花ヶ岡で勝ち抜く、というよりは『揉め事を避ける』唯一の方法だと考えている」


 カッとなるのが悪い癖だ……萬代は悪びれるような目で京香の胸元を見やり、ソッと手を離し、乱れたネクタイを直した。


「……羽関は、友膳と倉光を大事に思っているのか」


 俄に京香が頷いた。「だったら」と、萬代が被せるように続けた。


「二人が悲しむ顔なんざ、見たくねぇだろ」


 常に朗らかな笑顔を浮かべる友膳、その横で呆れながらも楽しげにしている倉光が、を浮かべ……京香は思わず涙しそうになった。


「……見たくありません」


 ですが――京香は俯きながら言った。


「鶉野さんを切り捨てる事も出来ません」


 何事も無く、三人で手を取り合い笑い合う京香達を、物陰から沈痛な面持ちで見つめている鶉野を思った瞬間、胸の奥が引き裂かれるように痛み、目頭が熱くなり、空想の中でも走り寄って――彼女を抱き締めたくなった。


 一人にしません、一人にしませんよ、と。


「羽関。人間誰でもな、『どちらも捨てたくない』といってその願いが叶うなら……苦労はしねぇんだ。男女共学とはいえ、まだまだ女の数は圧倒的だ。羽関、花ヶ岡ってのは……」


 甘くないんだぞ――。


 言い終え、萬代はパイプ椅子を軋ませながら座した。数秒後、立ち尽くす京香の方に目をやったが……説得の語を継ごうとはしなかった。唯、諦めたように「見上げたもんだ」と呟いた。


「……どれだけぶっ叩いても、テメェは考えを曲げねぇらしい。何で年下ばっかり、芯の強い奴がいるものやら……」


 上履きを鳴らして向き直った京香は、深々と萬代に一礼した。


「萬代さん。今日はありがとうございました。お陰様で……、強く決心出来ました」


 萬代はそっぽを向き、一切返事をしない。しかし京香は構わず続ける。


「きっと……昔の私なら、萬代さんの言葉をそのまま実行して、鶉野さんと縁を切ったと思います。これで良いんだ、これで自分は傷付かないんだって……言い聞かせて……」


「なるほどな」


 窓の外を見つめながら萬代が呟いた。


「昔の方が賢いな」


「かと、思います。でも、正しい事じゃありません。……萬代さんの言う通り、私は花ヶ岡のごくごく一部しか知りません。萬代さんの忠告を守れば、きっとこの学校で平和に暮らせる……でも、!」


「漫画の読み過ぎだ。博奕と同じよ、誰かが笑って誰かが泣く。勝ちと負けが存在するから成立するんだ。テメェも石っころで遊んでいるなら、分からねぇ訳は無ぇだろ」


 でしたら! 京香の語気が強まった。


「誰も泣かないように……私の大切な人達が、一人も置いて行かれないように――私が戦います!」


 ゆっくりと……萬代は京香の方を見やる。興奮の為に息を荒げ、頬を紅潮させる下級生を通じて、浮かび上がる「闘争の未来」を心底憂うようだった。


「…………仮に、羽関があらゆる害敵と戦うわな。戦って、勝ったとして……そん時、信じていたはずの奴らに?」


 京香が目を閉じる。暗黒は「有り得るかもしれない悲劇」を鮮明にかつ、現実的に予測してみせた。


 離れて行く友人達。


 崩れて行く信頼。


 薄れていく……楽しかった時間。


 一人残された自分を、遠巻きに指差し、嗤うかつての友人達は、もしかするとトセであったり、友膳や倉光、鶉野や安居かもしれない。兄の卓治ですら――妹の愚かさを庇わず、周囲に同調して罵詈雑言を浴びせるかもしれない。


 純粋に、京香は怖かった。


 流石は年長者、流石は花ヶ岡高校三年生、流石は《株札》の手練れとして評価すべき、萬代の「あらゆる推測」に……京香の青く幼い思考は追い付けなかった。


 それでも、時間は有限である。いつまでも悩む暇など、今の京香にある訳も無かった。


 石のように硬く、飲み込みにくい生唾を喉に収め――自分の為に時間を割いてくれた萬代を見つめた。


「……その時は、まだ私を信じてくれている人の為に、戦い続けます」


 失礼します――京香は再び一礼し、文芸部室を後にした。


 廊下を歩いて行く間、萬代の問いが幾度も繰り返されたが……その内に、京香の中である変化を遂げた。これを認めた時、彼女の足は止まり――。


 そういう事なのかもしれない……と、京香の決意を堅固なものにした。




 万が一……誰かに裏切られた時も耐えられる程の、自我を保つ為の「強さ」を手に入れろ――もし、そう教えてくれたのだったら……。


 萬代さん。どんな過去が……貴女を強くしたのですか。




 同時刻。


 静かになった文芸部室隣の教室で、壁に背を着けて蹲り、後悔に打ち震えて泣いている一人の女子生徒がいた。彼女は先程文芸部室にいた一年生を追い、果たして「会話」の内容に姿を見せる事が出来なかった。


 鶉野摘祢。


 つい最近まで――孤独だった少女の名前である。

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