第5話:寄り添う羽
噛み切れていないものを飲み込んだ時のように、京香の細い首は強い閉塞感に襲われた。形を持たぬ「それ」は何とか食道を通り、胃の辺りで猛烈な毒気を撒き散らし始めた。
続いて呼吸が乱れてきた。息切れするような感覚は、沸き立つ憤激の為だった。
今、京香はどうしようも無い程の怒りを覚えている。相手が上級生――友膳達の親しい先輩でもある――でなければ、「ふざけた事を言わないで」と怒鳴り付けたくなった。
「…………萬代さんは、例えば、私が鶉野さんと縁を切るべき充分な根拠を持っている、と考えて良いんですよね」
萬代は頷いたり、首を振ったりはしなかった。唯、盟友を侮辱されて怒りに震えている、「事情を知らぬ憐れな下級生」を救出するにはどうするか――それだけを迷っているらしかった。
「ご忠告は感謝します。が、余りにも萬代さんの言葉が少な過ぎて。正直なところ、理解が出来ません」
つい先月まで……彼女は他人に、更には年長者に対して明確な反意を伝える事は無かった。出来なかった。
京香は明らかに変化していた。それはトセとの思考パターンの擦れ違いであったり、花ヶ岡に巣食う悪との接触であったり――鶉野摘祢という、孤独の強みと弱味に苦しみ続けてきた三年生との出会いが……。
「……鶉野さんは、私の大切な先輩であり――親友です」
持つべき、かざすべき、決してぶれぬべき意志の重要性を彼女に教えた。
「呼び出されて、いきなり親友と『縁を切れ』だなんて……何かを心配してくれるのはありがたいですが、少し、乱暴ではありませんか?」
苦言を言い切った後、心に浮かんでくるボンヤリとした後悔も……今の京香には感じられない。出会い、過程に多々問題はあれども、彼女にとって鶉野の存在は日増しに大きくなっていた。
椅子をギシリと撓らせた萬代は、辛い腹痛に耐えるようなしかめ面で……。
「夢を壊すようだが」
秘匿されるべきあの件について語った。
「あの女は曰く付きの打ち手。要するに、だ。打ち場で……
間髪入れずに京香が返した。
「何故、萬代さんはその事を知っているのですか」
何だと――萬代が俄に眉をひそめたが、正対する京香は微動だにせず、彼女の猛々しい双眼を見据えた。
「……その口振りだと、テメェはどうやら知っているみたいだな?」
「お答え下さい。萬代さん、何処でそのような話を聞いたのですか」
この瞬間、京香は兄の卓治の口調や雰囲気、その他「彼らしさ」が頭頂部から注ぎ込まれるような感覚に陥った。
今、ここで怖じ気付いたら絶対に後悔する。私はもう、あの頃の私じゃないんだ――内心呟き、睨め付けてくる萬代を直視した。
「もしくは……」
一拍置き、続けた。
「誰かから聞かされましたか」
壁掛け時計の秒針は規則的に動く。思い出したようにカチリ、カチリとやはり一定のリズムで小さな音を立てる。針の音は文芸部室全体に、鉛の如き重量感を持った空気を充満させた。
身動ぎ一つすれば、何倍もの音量で響き渡るようだった。互いのブレザーから微かに鳴る衣擦れは、書棚に並ぶ本の背表紙に跳ね返り、彼女達の耳へと飛び込んで行った。
時間にして約二分間。一二〇秒程の時間で萬代は長大で複雑な思考を終えたような、疲弊した表情で答えた。
「……私が、鶉野の技を見抜けないとでも言いてぇのか」
何かを隠そうとしている――京香は即座に判断した。
「友膳さん達から聞いています。萬代先輩は《株札》ばかり打つ、と。一方、鶉野さんは《株札》を打ちません、《八八花》ばかりです」
萬代の目が眠たげに閉じられた。何らかの「痛点」を押されたようだった。
「お二人が同じ場を囲む可能性は――限り無くゼロに近いと思います。萬代さん、教えて下さい。誰に聞かされたんですか? 考えれば考える程……」
私達だけの問題じゃないような気がします。
下級生の勇気ある質問に、萬代はフゥと溜息を吐き、憂うような瞳で京香の手元を見つめた。一〇本の指が今後に幾度札を打つのか、ゆっくり計数しているようだった。
果たして――萬代は苦虫を噛み潰したような顔で言った。
「知っている奴は、知っているんだよ……」
数瞬の後、京香は椅子から立ち上がって一礼した。
「ありがとうございます。萬代さんが義理立てを大事にする人だと、よく分かりました。私は――鶉野さんと縁を切るような真似は……」
絶対にしません。
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