第4話:暗色のオーロラ
その日の晩……鶉野は激しく疲弊していた。肉体的にではなく、精神的なものであった。
「お姉ちゃん、お休みなさい!」
ガチャリと部屋のドアが開く。長兄の勝樹率いる弟達が、パジャマ姿で就寝の挨拶にやって来た。鶉野はいつも通りの声色で「お休み」と答えると、階段を駆け下りる足音を聞きながら、壁に貼られた一枚の写真を見やった。
「……」
親友と肩を並べ、笑顔を浮かべる自分が写っていた。若干の幼さが残る二人は、地元の中学校の制服を着ている。今後に起きる悲劇も知らずに、何もかもが「順風満帆に行く」と思い込んでいるようだった。
鶉野は――この写真を眺める事が余り好きではなかった。当然ながら、親友の笑顔は何よりの気付けになるし、長大な時間が必要となる「計画」の為にあらゆる犠牲も払う勇気が湧いた。
唯一つ、小さな四角い世界から此方に向けられた、「親友の笑顔」だけが……鶉野に写真を眺めるという習慣を赦さなかった。
現在鶉野は親友と連絡を取っていない。事件が起き、彼女が転校してから間も無い頃は頻繁に取っていたが、次第に親友の方が弱り始めた。
心的外傷――所謂「トラウマ」が親友の心を蝕んでいた。
親友にとって花ヶ岡での記憶は全く忌むべきものであり、例えそれが掛け替えの無いもの――鶉野との関係であっても、トラウマは容赦無く彼女の心を破壊した。
もう、私に連絡して欲しくないの。
去年の秋頃、鶉野のスマートフォンに届いたメッセージである。鶉野はすぐに電話したが、幾ら掛けても親友が出る事は無かった。焦燥感と共に「訳を教えて」とメッセージを何通も送ったが……その実、鶉野は「自身が与えるストレス」に気付いていた。
摘祢のせいじゃないよ――この有り得ない一言が欲しかっただけである。
鶉野という「花ヶ岡の要素」が関わり続ける事で、親友はその都度トラウマに悩まされ、一層鶉野と距離を置きたくなってしまう。彼女が出来るケアは、「学校が変わってもずっと友達だよ」「今度、一緒に街へ行こうね」などと語り掛ける事では無く――。
「分かりました」、と短文を送信する事だけだった。
当初、関係を断ってから……鶉野は内心、親友を強く非難していた。
あれ程一緒にいたのに。誰よりも心配したのに。何を捨てても、貴女との関係は続けたかったのに――。
やがて月日が経ち、「あの子なりに出した結論なんだ」と無理矢理悟るまで、鶉野は親友の影を校舎で捜しては、寂しさと腹立たしさの板挟みとなり、精神的自傷を行う日々が続いた。
壁に写真を貼るという行為は、鶉野が苦肉の策として編み出した「自己治療方法」だった。断ち難い友情はそのまま、時間と景色を切り取る写真に封じ込め、「確かに私達は、親友だった」と慰める事が可能だった。
「……」
写真から目を逸らす鶉野。やがて机に突っ伏して目を閉じた。
目を閉じた時、完全な暗黒になる事は無い。暗く滲んだオーロラのような……不定形の何かが、閉じられた視界を縦横無尽に蠢き回る。人間とは、常に物体を観察する生物だった。
暗色のオーロラに、鶉野は黙したまま問い掛けた。
私が、あの女を討ち倒した時に、彼女は喜ぶのでしょうか?
私の考えは、何処までが正しく、何処からがおかしいのでしょうか?
私の理解者だという「後輩」を、本当に利用して良いのでしょうか?
「……っ」
オーロラの答えを待たず(幾ら待てども返答が無いのは彼女も知っていた)、鶉野は顔を上げてかぶりを振った。
明確な精神の弱体化が……彼女を襲っていた。
『私の事を、存分に使って下さいね』
放課後、下校する鶉野を追って来た少女――羽関京香の発言である。この発言は鶉野を酷く困惑させ、同時に……心奥で眠っていた罪悪感を揺り起こした。
計画を遂行する為とはいえ、忌手を使う鶉野から花石を巻き上げられた生徒達は明らかに「被害者」である。
計画に必要であるとはいえ、疑心暗鬼にさせたり仲間割れをけしかけられた生徒達もまた「被害者」である。
鶉野にとって、京香の発言は――積み上げられた被害者の骸が一斉に起き上がり、腐敗した顔を歪めて「これがお前の望みだろう」と笑い掛けてきたのも同義だった。
事実……京香のような駒が増えれば、鶉野の計画はいとも容易く遂行出来るかもしれない。しかしながら輝かしい成功劇の裏では、「どんな犠牲も厭わない」といった彼女自身の決意が襤褸切れの如く横たわっているのだ。
全てが終わった後、自分は被害者達から一斉に糾弾されるべきで、目代小百合と同じく、否、それ以上の地獄を味わうべきだ――そう彼女は考えていた。
罪人は鞭を打たれ、見世物として引き回された挙げ句に磔となり、最後の最後まで罵詈雑言と石礫を浴びなければならない。仮に、一人でもそこに駆け付け、「この人は悪く無い」と叫ぶ者が現れたとすれば、それこそ目代小百合と同じく「理解者を得てしまった悪人の偽物」として成り下がる。
目代小百合との討伐は、「善対悪」では無く、「悪対悪」の構図でなくてはならない。アニメや映画のような「悪に染まらざるを得ない過去を持つ、悲しき主人公」のような扱いを受けては――守り抜いた信条に反してしまう。
故に……京香の存在は危険だった。
一瞬たりとも鶉野は「私の行いは正義だ」と誤解するのは避けたかったし、善の世界で生きる人間を堕とす事は出来なかった。
彼女の計画に理解者は不要である。必要なのは完遂後、自身を襲う「破滅」であった。
完璧だったはずの計画に……水を差した者が現れた。
それは羽関京香でも、一重トセでも、生徒会監査部でも目代小百合でも無かった。
「……」
鶉野はスマートフォンを手に取り、ごく短いメッセージを「ある生徒」に送った。
『明日、一二時に焼成室で待つ』
文面にはそう書かれていた。
翌日は土曜日であったが、鶉野は制服を纏い、グラウンドの片隅にある焼成室へ向かった。
中に誰がいるか――確認もせず、彼女は勢い良く戸を引いた。突っ掛かる事無く動いた戸は、ガタンと大きな音を立てた。
「あーぁ……ビックリしたぁ。そんな急いでどうしたんですかぁ?」
間延びするような声の主――《造花屋》、矧名涼が室内にいた。チョコレートの入った袋に手を突っ込み、「お一つどうぞぉ」と差し出して来たが……。
「……うぅん? 鶉野さん、なぁーんか雰囲気が違うなぁ」
すぐに矧名はチョコレートを袋に戻し、丸椅子に座った。
「矧名。随分と貴女はお節介焼きなのね」
お節介? 矧名は微笑みながら首を傾げた。
「焼くのはオーブン粘土だけ――」
「無駄口を叩け、とは言っていないけれど」
座ったままの矧名の方へ、鶉野はツカツカと歩み寄ると……。
一メートルの間合を取り、立ち止まった。
「私の問いに答えなさい」
ぷっ――矧名は吹き出し、ケラケラと笑い出した。
「アハハハ! あぁーあ……いや、本当に凄いですねぇ鶉野さんは。いつでも高圧的なんだからぁ……仲良くしましょーよぉ?」
「そうね。貴女が私の質問に、正直に答えれば、の話だけれど」
ゆっくりと矧名は立ち上がると、鶉野と鼻先が触れ合う程の距離まで近付き、言った。
「何だろうなぁ……鶉野さん、もしかしてぇ……私を怒らせようとしていますぅ? 知っていますよねぇ、私、とーっても短気だって事ぉ」
無作法に鶉野のネクタイを掴む矧名。しかしながら、鶉野は彼女の狼藉を咎める事無く、自らの手をソッと重ねた。
「奇遇ね。丁度、私も――」
俄に、矧名はネクタイから手を離すと……浮かべていた笑みを消した。
「怒っているのよ」
鶉野の双眼が――真正面から無作法者を射貫いた瞬間であった。
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