第5話:注がれた毒

 五時間目が終わり、最後に待ち受ける現代文に向けて教科書を取り出す京香は、何度も黒板の隅に書かれた日付を確認した。


 八月三一日。鶉野との「約束」の日である。


 何を見聞きし、させられるのか……全く不明なこの日の「予定」を、京香は未だに「本当にあるのだろうか」「もしかしたら鶉野さんは忘れているかも」などと、現実逃避を以て足りない覚悟を責めずにいた。


「京香ちゅわーん! 元気してるー?」


 後ろから急に飛び付いて来た友膳は、何も本日初めて京香に出会った訳では無い。昼食を一緒に楽しみ、成果の無い《八八花》勉強会で京香から指導も受けていた。


「えぇ、勿論元気ですよ」


 友膳は微笑む京香の横顔を見つめ、「本当かねぇ」と眉をひそめた。


「なぁーんか、《五枚株》で良い切り方が出来ない感じの顔をしているねぇ」


 元気が無いのではありませんか? と、彼女は問いたいらしかった。


「そんな京香に最高な提案です、この後さ、早希とカラオケ行くんだけど……今日こそ一緒に行って欲しいのです!」


 京香は――酷く歌が苦手であった。人前で歌声を披露するという行為自体に、強烈なアレルギー反応を示していた。即座にかぶりを振った京香は、丁重に断る事にした。


「すいません……カラオケはちょっと……」


「大丈夫大丈夫! 今日はね、私の喉が勝つか、マイクが勝つかを決めようと思ってね! 友膳要の歌謡ショーって事だよ! とりあえず目標は、ハウリングなんかに負けないぞ、って感じ」


 途轍も無い程、迷惑なイベントであった。九割九分九厘、マイクが勝利して友膳の喉が破壊される事は明確だった。遠くから倉光が「行くって言ってないから」と手厳しい返事をした。


「それに、今日はちょっとがありまして……」


 鶉野との約束を恐れながら……しかし友人との交流を断る理由に仕立て上げた事に、京香は軽い酩酊感と共に首を傾げたくなった。




 私は求めている、何を? 鶉野さんと落ち合っても、きっと良い事は無いのに。それでも私は――友膳さんの誘いを断ってしまった……。




「えぇーっ……割引券もあるのに? ソフトドリンク飲み放題、ポテト食べ放題(限度あり)、友膳さんの歌声聴き放題、おまけに楽しいトーク付きっていうスペシャルプランなのに?」


「ごめんなさい、ご一緒したいんですけど……今日は行けないんです」


 いたく残念そうに俯く友膳に、心中で何度も謝る京香であった。やがてチャイムが鳴った。生徒達は気怠そうに自席へ戻ったり、賀留多を素早く片付けた。


「まっ、しゃあねぇな! そういう時もあるよねー」


 いつまでも自席へ戻らず、「チャイムが鳴ったら席へ戻る、これは実に家畜的で嫌なんですよねぇ」と衒学的に語る友膳は、果たして教科担任に首根っこを掴まれ、廊下に放り出されてしまったが……。


 自業自得だ、とクラスメイトは腹を抱えて笑い出した。「もう帰って来ちゃ駄目だよ」と倉光が茶化すと、廊下の方から「お慈悲を下さーい!」とふざけた声が返って来た。反省という概念から一番遠い女、それが友膳要である。


「はい、じゃあこの組から一人減ったけど、皆さんは気にしないように。日直、号令頼む」


 教科担任の無慈悲な挨拶に、またしてもクラスメイト達は笑い出した。一年七組の日常に――京香は少しだけ、を貰った気がした。




 放課後。


 落ち合う場所を指定された訳では無かった。しかしながら京香は……必ず鶉野と出会う事が可能であると信じていた。


 出会う、というよりは――、そのような気がした。


 友膳達と別れた京香は人目を憚るように、そそくさと階段を降りて玄関ホールへ向かう。下校する生徒で賑わうその隅でベンチに腰を下ろし、生徒達の声がホールに反響するのをボンヤリ聞いていた。


 一人一人が意味のある言葉を喋っているはずなのに、一体となって自分の耳に届く頃には、唯の「音」としか感じられない。不可思議な感覚を……楽しんですらいる自分の成長(に似た何か)が、どうにもむず痒かった。


 下校のが収まった頃、ふと背後に冷風が吹いた感覚を覚え、彼女はゆっくりと振り返った。


「待たせたかしら」


 鼓膜を無遠慮に撫で付けるような声質に聞き憶えがあった。


「大丈夫ですよ、


 何故、私がここにいる事が分かったのか? などという無粋で無益な質問は要らなかった。


 知りたい事は唯一つ――。


「私は、?」


 鶉野は立ち上がった京香を認めてから、下駄箱に向かって歩き出す。京香も後を追った。


「羽関さんは、私に協力すると言ったわよね」


「はい……確かに言いました」


「私に協力する以上、貴女にはがあるの」


 外靴に履き替えた京香は、当然のように鶉野が校門を出ず、グラウンドの方へ歩いて行くのを……大して驚きもせず、黙して追従した。


 この程度で驚いていては、身が持たない――京香は考えていた。


「この事実を知ったら、私の隠している『秘密』など、ほぼ露呈したも同然よ。最後通告よ、羽関さん。私の秘密を――、そう考えているのね?」


 鶉野は立ち止まり、振り返って京香を睨め付けるように見据えた。




 今なら、まだ戻れる。


 今なら、全部に目を瞑れる。


 今なら――私は私でいられる……。




 生唾を飲み込み、京香はハッキリと答えた。


「覚悟はしています」

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