第4話:逃げるよりも楽な事
八月三〇日。
深夜の二時過ぎに――目代は小さな悲鳴を上げながら、布団から勢い良く跳ね起きた。
「……はぁ、はぁ……はぁ」
一寸先も見えぬ暗闇で、彼女は首筋から胸元に掛けて触れてみた。指に絡まるような汗の感触が、目代の顔を歪ませた。強い喉の渇きは、尋常では無い寝汗に由来するらしかった。
「……」
カーディガンを羽織り、パジャマ姿で階下にある冷蔵庫へ向かう目代。寝癖が酷く、余程眠りながら「悶えて」いたのだろうと彼女は想った。
麦茶をコップに注ぐ音が、時計の秒針を真似たように一定のリズムで聞こえた。並々と注がれた麦茶を一気に飲み干してから、再び目代は覚束無い足取りで私室に戻った。
「…………うぅ」
布団を目元まで引き寄せ、強く目を閉じた。ヒンヤリとした外気に曝された為か、睡魔は何処かへ去ったようだった。
深夜、大量の寝汗を掻いて跳ね起きる事に――目代は馴れていた。この悪しき習慣は一年前、ある《札問い》にて「無様な敗北」を喫した頃より続いていたが、最近になって悪化したように思えた。
自分を頼って来た生徒を恥ずかしげも無く勇気付け、恥ずかしげも無く闘技に向かい、恥ずかしげも無く――「
そして……恐らくは、転校を余儀無くされた依頼人よりも強く、根深い怨みを抱いているはずの女――鶉野摘祢の怨言が、目代の耳にこびり付いていた。
憶えていなさい、いつの日か……貴女が――お前が一番嫌な方法で、一番辛い状態に貶めてあげる! 憶えていなさい、どんな事をしてでも、どんな方法を使ってでも! お前を必ず堕としてやるわ――。
何をされるのだろう? 私は一体どうなってしまうのだろう?
考える度に恐怖で言葉が出なくなり、表情は彫像のように凍り付き、呼吸は痛みを覚える程に荒くなった。最も辛いのは――幾ら考えても「自分が悪い」と帰結してしまう事だった。
当初は布団の中で震えながら、何度も依頼人に謝罪した。しかし時間が経つにつれて罪悪感よりも恐怖感が勝り始め、今ではひたすらに鶉野摘祢が「動き出さないように」祈るばかりだった。
同時に……彼女は悲愴的な決意を抱いてもいた。
復讐者――鶉野摘祢による断罪の時を、目代は静かに待ち受けていたのだ。
一時期は転校によって逃避しようとも考えたが、既に「外法」へ手を染めていた彼女は、これ以上の穢れを良しとせず、受動的ではあるものの……自分なりの償いを以て、暗愚な霧で包まれた高校生活に裁きの光をもたらそうとした。
《姫天狗友の会》という共同体が、償いに向けた姿勢を否定している事に、目代は最近気付いてしまった。
事情を知りつつ、それでも「姐さん」と慕ってくれる宇良川。一時期は関係にヒビが入ったとはいえ、やはり可愛い後輩であるトセ。そんな彼女が連れて来た、花ヶ岡に新風を吹かせる少年――龍一郎。三人と賀留多を打ったり、取り留めの無い会話に花を咲かせていると、少しずつとはいえ、「恐怖」が薄れていく気がした。
特に、龍一郎の登場は目代の陰惨な高校生活に潤いを与えてくれた。近しい異性というだけでは無く、彼もまた――未遂ではあるものの――
「私は彼に好意など寄せていない」と、彼を好いていたトセに言い聞かせていたが、例えば布団の中で「本当にそうだろうか」と自問すれば……「勿論だ」と自信満々に頷く自分がいなかったのは、目代にとって屈辱でもあった。
ハッキリとは判明しないが、「龍一郎を一人の男性として見ている」と欠片でも思ってしまう自分のふしだらさ、単純さに――目代は大変な精神的疲弊を覚えていた。愉楽と淫蕩は手を取り合い、次第に彼女から恐怖を奪っていった。
恐怖こそが自身を「罪人であると自覚する分を弁えた女」と規定するのに、これが薄まっては「罪も忘れた大愚人」に成り果てる事を彼女は知っており、しかしながら恐るべき希釈に目を瞑る事を平行していた。
故に――睡眠という無意識下に訪れる罪の意識は、以前よりも一層巨大に、一層悍ましい怪物に変貌し、平穏に馴れ始めた目代を徹底的に痛め付けた。受けた傷は血を流さず、代わりに寝汗となって肌から滲み出るし、目の下に「隈」を出現させ、女子高生らしからぬ不健康さを周囲に勝手に誇示した。
「…………ふぅ」
スマートフォンの刺激的な発光に目を細めながら時刻を確認する。
二時五三分。真夜中である、誰かに電話を掛けて気を紛らわす事も出来ない。彼女はこの瞬間、真に一人だった。
猛者集う花ヶ岡にて、非公式ではあるものの「打ち手の序列」が存在した。生徒達が熱心に「あの人はどうだ」「あの人はこうだ」と討論した結果――常に一桁台へ名を連ねる目代小百合は、打ち場を離れ、学校を離れ、一人自分の部屋に落ち着くと……。
「…………っ」
布団を被り、恐怖に怯えるだけの……唯の気弱な少女に戻った。懲罰として――何かしらの外圧が働き、大好きな賀留多が打てなくなれば良いとも考えていたが、すぐに罰される事を喜ぶ自虐的な自分が、「それでは軽過ぎる」とかぶりを振った。
それでも彼女は――目を閉じ、息苦しさを必死に堪え、カーテンが藍色に染まり出す時間を待ち続ける。
朝の六時。スマートフォンからジリジリと、目覚まし時計の音が鳴り響く。即座に目代は止める事が出来た。
当然である、彼女はスマートフォンが鳴り出すのを「起きて」待っていたからだ。その後、フラつきながらもパジャマを脱ぎ、制服に着替えて朝食のトーストを砂でも噛むように咀嚼し、機械のように淡々と歯を磨き、鏡に映る目元の隈が昨日よりも濃くなったのを認め、幽鬼のように玄関を出る。
今日も――目代はキチンと登校し、自分の席に着いて授業をしっかりと受ける。持たされた弁当を何とか食べ、飲み込み、「目代小百合」を演じた。物静かであるが、賀留多に滅法詳しく強い、頼れる女子生徒として……彼女は花ヶ岡で暮らさなくてはならない。
転校せざるを得なかった依頼人の為、そして鶉野摘祢を刺激しない為……。
彼女は逃げなかった。
助けも求めなかった。
何故か?
簡単である。「勇気が無い」――唯、それだけだ。
起きた出来事を黙って受け入れる程……。
楽なものは無いのだから。
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