第16話:辿り着いた部室
陰鬱な朝とは打って変わり、一七時半の空は丁寧に染め上げたような紅緋色であった。大気中の塵を雨が洗い流した為、京香は吸い込む空気の軽やかさを喜び――。
「今日はありがとうございました。こんなに遅くまで遊んでくれて……」
鶉野が携える《三ツ扇》の箱の煌めきに、強い達成感を見出していた。
「良いのよ。私も久しぶりに《いすり》を打てたし」
相も変わらず声に抑揚の無い鶉野を、しかしながら京香は「そういう人なんだ」と自身を納得させられる程度には……鶉野摘祢という人間を理解しているつもりだった。
「それと、これ……ごめんなさい。頂いてしまって」
木箱を軽く揺らす鶉野。コトン、と札が木肌を打つ音がした。
「気にしないで下さい。サービス品で誰かが何となくで買うより、鶉野さんにお渡しする方が良いので」
鶉野は何も言わず、木箱をボンヤリ見つめたかと思えば、次は京香の顔をジッと眺める。「羽関京香」と題された美術品を鑑賞するように、顔面に書かれた説明文を読み耽るように――狼狽えた京香が問い質すまで、鶉野は微動だにせず見つめた。
「……あ、あの……何か?」
京香の反応を待っていた、とでも言わんばかりに鶉野は「えぇ」と頷く。
「一つ、訊かせて欲しいの」
後ろ手で戸を閉め、京香は一歩前に進み出た。
「羽関さん。貴女は、貴女を取り巻く人間を――皆、信じられるかしら」
突っ込んで言えば……鶉野は答えを待たずに続けた。
「皆、自分に何かを隠している――そう思った事は……」
一度も無いかしら?
途端に――分厚い本が勢いを付けて開かれるように、京香の様々な「思い当たり」が蘇り始めた。パラパラと捲られるページには、沢山の顔が印刷されている。例えばそれはクラスメイトや、眼前の鶉野でもあり……。
親友のトセの顔も、当然あった。
仲を深めたと思い込んでいただけで、一重さんからすれば……私は何処にでもいる「同学年の生徒」に過ぎないのでは?
そんなはずは無い――胸中に不穏な風が吹く度に、気弱な少女は根拠の無い、語感の強さだけが売りの言葉を自らに語り掛けては、モグラ叩きのように湧き出る「疑念」を潰して回った。
京香が手にしていた槌を……鶉野はごく短い「質問」によって、いとも容易く取り上げてしまった。無論、潰せないのであれば疑念で心が「満たされる」のは時間の問題であり、彼女自身もすぐに事態の深刻さに気付いた。
同時に――疑念の増殖を受け入れてしまっている自分の変質に、京香は何よりも怯えていた。
Aという物質で満たされた心に、別のBという物質が少しだけ混入すれば、それは異物として判断され、俄に心は除去に打って出る。だが……異物であるはずのBが増え続け、果たしてAの居場所を埋め尽くしたとしたら?
心は、自らを満たしているべき物質を「B」と判断し直し、今度はAを異物として除去に乗り出す。
正常、異常という境界は何処にも無く、ハッキリとした「多数派至上主義」だけが存在するこの常理は、啓発と洗脳の定義すらも曖昧にしてしまう恐るべき外圧である。
「ごめんなさい、急に変な事を訊いてしまって。でもね、遊び半分で尋ねた訳じゃないのよ。今日、私は貴女と同じ時間を過ごして……悩んでしまったの」
悩む、という単語に嫌悪感を覚えているのか、鶉野は気怠そうに目を薄く閉じて続けた。
「もし、私が羽関さんにお願いをした時、貴女が酷く混乱して、何もかも信じられなくなって、質の悪い厭世観に取り憑かれてしまったら……そう考えたのよ」
「……鶉野さんは、私に一体何を――」
「質問に答えていないわよ。羽関さん、貴女はどうなの。家族、友達、好きな人、色んな人間と関わり合って来たのでしょう。一度も、唯の一度も――」
裏の顔を考えた事が無い?
繰り返された問い掛けに、京香は本心からの「答え」を用意していた。してはいたが、少しでも口にすれば――数瞬の内に毒とも薬とも分からない、無色無臭の煙が全身を包み込み、それまでの羽関京香が様変わりしてしまう気がした。
甘かった、と京香は思った。
一度の《いすり》で勝利したからといって、鶉野摘祢の一部でも理解出来たつもりでいた、数分前の自分に心底呆れてもいた。
キリマンジャロの登山ルートを一つ――最も楽な「マラング・ルート」を――踏破しただけで、五九八五メートルが自分に屈服したと思い込むクライマーの慢心と、京香のそれは酷似している。
双方が親しんでいる賀留多闘技に頼り、靖江天狗堂という自らの領域に招き、鶉野が「久しぶり」らしい《いすり》に勝利した京香は、山小屋でタップリ眠って疲れを毎晩癒し、ゆっくり高所に順応しながら登り続けるのと同義であった。
鶉野摘祢なる高山を、多少なりとも理解出来たと信じ込む自らの浅はかさが、京香は何処までも情け無くなり――今も辺りに濃度を増す「煙」で肺を満たしたくもなった。
私が理解出来た気になっていたのは、ほんの上澄み、たった一切れを更に細かくしたところだけなんだ。
分からないという事が、これ程までに不快感を伴うのは初めてであった。
「…………すいません。分かりません」
「分からない、という事は――『考えた事があるかどうか、憶えが無い』という事かしら」
力無く頷いた京香。しかし鶉野は特段彼女を責めはせず、「そう」と興味無さげに答えた。二文字の返事が凄まじい冷感を持ち、京香の体温を気軽に奪うようだった。
「やっぱり――羽関さんは知らない方が良いわね」
えっ……京香のか細い驚嘆は、巣に帰る烏達の声で掻き消された。
「ど、どうしてですか」
「誰でも彼でも不幸にしたい、なんて趣味は持っていない。私がお願いしたい事は、羽関さんにとってプラスになるとは思えないし、他の人も同じはず」
矛盾しています――京香は反論した。
「鶉野さんは、私にしか出来ない事をお願いしたいと言っていました。一重さんの問題は、私にとっても大事な事……なのに、いきなり貴女は知らない方が良いだなんて! まるで思わせ振りな感じは狡いです!」
「事情が変わった、としか言えないわ。羽関さん、人というものは変わっていくのよ。その口振りだと、誰しも初志貫徹でないと許せない性格らしいわね」
「だって……考え方や、付き合い方がコロコロ変わったりする人は信用出来ませんから」
そうかしら、と鶉野は静かに返す。
「私としては、一切考え方の変わらない、いいえ、変えられない人の方が……不思議に思えるけれど。闘技と一緒よ。毎回毎回同じ戦法でいけば、相手はそれに順応して手を変えてくるでしょう。思考の単一な人間は、後生大事に自分なりの鉄則を守り続けて、それが錆びた事に気付かず、ポッキリと折れてしまうものなのよ」
繰り返すけど――振り返り、帰路を見つめて鶉野は言った。
「事情が変わったのよ。でも、自分を責めないで頂戴。唯、変わっただけなの」
歩き出した鶉野の背に、京香は「貴女は!」と問い掛けた。
「貴女は……何かのせいで、考え方とか、色んなものが……変わった事があるんですか?」
俄に立ち止まった鶉野は、数秒の間を置き……全く関係の無い事を口にし、その場を立ち去った。
「《三ツ扇》、ありがとう。今日は――楽しかった」
柔らかな夕風が、立ち尽くす京香の髪を撫でて行った。鶉野の姿が完全に見えなくなるまで京香は注視し、幾度も「映像」を思い出していた。
変わった事があるんですか、と問われた瞬間。微かに、しかし鶉野は確実に――。
両手を握っていた。恐らくは、「怒り」のままに。
翌日の放課後、京香はある試みに出た。
鶉野摘祢という人間について知る為――最も気軽に話し掛けられる三年生の下を訪ねる事にしたのだ。
当然ながら……彼女に悪意は無かった。絡み合う事情を読み取れるような機能を、人間の目が容易に読み取れるのであれば――。
「お邪魔します……」
《姫天狗友の会》部室を訪ねる事も、そして……。
一切の元凶――目代小百合に問う事も無かった。
「あの、今日はちょっと……目代さんに訊きたい事がありまして――」
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