第2話:私を知っている人
「確かに、それはとても失礼な事ね」
そう言う鶉野の顔は、特段怒りに打ち震える事も無く、書かれた文章を感情を込めずに読み上げるような声調だった。対する京香も「すいません」と謝りはするが、内心は微塵も悪びれていなかった。課題に少しも着手しない学生達が、二人のすぐ近くでゲラゲラと腹を抱えて笑っていた。
「でも、思った事を隠している人よりは、ずっと好ましいと思う。私、貴女のような性格は好きよ」
好きよ――字面だけは聴者を温めるはずだが……京香は感情の高ぶりを覚えず、嫌悪感に心中を冷やしてしまった。
「ありがとうございます。私も……鶉野さんのような方とは初めてお会いしましたが、きっと好きに――」
「世辞は要らない。この場に不要よ」
話を戻すわね、と鶉野は初めてカフェモカに口を付けた。
「利用、と羽関さんは言ったけれど、強ち間違いでは無い。面倒だとは思うけど……少し、協力して欲しい事がある」
やっぱり、そういう事ね……居住まいを正す京香は思った。
申し訳無いが、甲とまではいかないので、乙を頼めないだろうか――このような言い方で一見は「誠心誠意の依頼」をするような人間は、須く甲をしろ、と「命令」をして来るものであると……京香は経験から学んでいた。
以前の彼女なら「分かりました」と納得はせずとも、仕方無しに助力を買って出たが……。
「自分の事を好きでは無い、と踏んでいる人間に……協力を依頼するのですか?」
様々な人間と問題が渦巻く花ヶ岡、その一員として暮らす羽関京香は、座布団の上で繰り広げられる闘技から――拒絶を習得していた。
この学校は楽しい、とても楽しいけれど……自分を見失ったら終わりだ。
刺激的な日常、奇々怪々な文化、多種多様な生徒達の中に身を置く彼女にとって、現状最も重要な「鉄則」であった。
いわば――上級生、鶉野摘祢との静かな舌戦は、真新しい鉄則が果たして花ヶ岡に通用するか……その試金石に思われた。
「もっと……ハッキリ鶉野さんに好意を持っている方に、お願いした方が良いかなと思います」
「出来ればそうしたい。けれど、それが出来ない理由が二点あるの」
一点目、と鶉野は口を殆ど開かず言った。
「私を好ましく思う人間はいない。何処にも」
何故、感情を込めず平気な風に言えるんだろう――京香は眉をひそめず、内心思った。
「そして二点目。協力者は……羽関さん、貴女でなくてはならない」
あぁ、なるほど……京香は目を伏せて返した。
「一重さんの事ですか」
カップの縁をなぞりながら、鶉野は口角を微かに上げた――ように京香は感じた。
「ご名答……あら」
チラリと京香のカップを見やり、呼び出しボタンに触れる鶉野。程無くしてやって来た店員に「同じものを」とカップを指差した。
「要りません」
「気にしないで。飲まなくても良い、唯、貴女のカップが満たされていたらそれで良いの」
そう言う鶉野はカフェモカを半分まで飲み、初めて店内を軽く見渡した。
掴み何処の無い人――京香は無理矢理に満たされたカップに視線を落とし、揺らめく湯気にトセの顔を浮かべた。
一重さん、私、分かりません。どうしてここまで不気味な人が、まるで対極な貴女に気を回すのでしょう?
「彼女は先輩といざこざがあった……。羽関さん、いざこざの内容を知っているかしら」
かぶりを振った京香。長い髪に結わえたリボンが微かに揺れた。
「そう。全て貴女に話していると思ったけれど。彼女も意外と秘匿主義なのね」
ごく、軽い力が……京香の心を小突いた。恐らくは――より長く濃密な関係を築いている友人が、自分に打ち明けず、よりにもよって「こんな人」にだけ打ち明けているなんて! 友情が生む小さな嫉妬心が、京香の眉をひそめた。
「仲の良い貴女には、きっと教えたくなかったのでしょう。この問題は……余りに淀んでいるから。まぁ……それも、一重さんの思い遣りね」
俄に鶉野がポケットに手を入れ、スマートフォンを確認した。しばらく画面を注視してから、「残念だけど」と、やや低い声で言った。
「すぐに帰らなくてはいけないみたい」
「えっ……?」
思わず出てしまった驚嘆に、京香は慌てて口を噤んだ。気にもしないように、鶉野は「ごめんなさい」と頭を下げ、財布から二人分の代金をテーブルに置いた。
「一番下の弟が風邪を引いたみたいなの、続きはまた今度にしましょう」
立ち上がり、テーブルから一メートル程離れた位置で鶉野は振り返り、「今日の事」と……京香の目を見つめて言った。
「一重さんには言わないで。誰にも言わないと約束した手前、彼女を徒に傷付けてしまうから」
呆然とする京香を愛おしむように、開かれた鶉野の双眼は妖しく、半分だけ閉じられた。
「私達、仲良くなれるかもね」
その日の晩、京香は布団の中に潜り、鶉野摘祢という女の事を思い出していた。
花ヶ岡高校の上級生――たった一つの情報しか与えられず、釈然としない時間を過ごしている内に……。額を叩かれたような予感が訪れた。
鶉野摘祢。
あの人は、恐らく――私の事を知っている。
きっと、何もかも。
どうしてかは分からない。でも……電話番号とか、お兄ちゃんの事とか、色んな悩みとか……。
あぁ、誰か教えて下さい。
友達って、何でも教え合う仲では無いのですか?
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