近江龍一郎、華と共に

お馬鹿さんだらけ

「や、や……やったぁあぁあああ! やったよ、やったんだよぉ!」


 龍一郎の決戦役となった《雨四光》が完成した瞬間、彼の背中に猛烈な勢いで飛び付く者がいた。


 前日に胸の内を曝け出し、果たして彼と心を通わせた女子生徒――トセだった。


「ちょ、ちょっと止めろ!」


 彼の制止も意に介さず、トセは人目も憚る事無く涙を流して「ありがとう、ありがとう」とくぐもった声で言った。目代、宇良川も満面の笑みで彼らの頭を何度も撫でた。


「さすがは期待のエースねぇ! 姐さんも大喜びよぉ!」


 宇良川の言葉に普段は口を開かない目代も「喜ぶに決まっているよ!」と、寝癖を激しく上下させながら大きな声で答えた。


「…………あぁ、負けたのですね……私は……」


 ポツリと呟く羽関妹は、座布団の上でカス札に重なる《柳に小野道風》を見つめ、大きな溜息を吐いた。


 燃え尽きた彼女の肩に手を掛けたのは、依頼人である間瀬であった。


「……申し訳ありません、私……」


「謝らないで。それとも、全力で打ってはいないって事?」


 違うでしょう? 間瀬は厳しい目付きで彼女を見据える。横に立つ酒田はオロオロと間瀬の動向を窺っているようだった。


「近江君」


 間瀬はトセを背負う龍一郎を呼んだ。


「……何でしょうか」


「酒田、証文を」


 酒田は急いで証文を取ると、間瀬にソッと手渡した。


 彼女は改めて中を開く、自分の名前と龍一郎の名前が書かれている重要な証文を――。


「約束、だったわよね」


 間瀬はそう言うと、その場で勢いよく証文を破り始めた。


「なっ、何をしているの!?」


 目代が血相を変えて彼女を止めるも、果たして証文はただの小さな紙片へと変わっていた。目が点になっている目代達に、間瀬はニッコリと笑い掛けた。


「この札問いは。賀留多文化は続くし、貴方達はいつも通り代打ちをする。金花会は毎週のように開かれるし、靖江天狗堂からは通常通り賀留多を仕入れる、そして私達生徒会は変わらず業務を遂行する……。言っている意味が分かるかしら」


 そんな事じゃ――目代が言い掛けたのを制止したのは龍一郎だった。彼は間瀬を見つめ、闘技中とは正反対の柔和な表情で返した。


「間瀬さん、よく分かりました。ここで今打たれていたのは、札問いでも何でも無い……ただの《こいこい》ですよね?」


「生意気ね」間瀬はニヤリと笑い、酒田に向かって「戻るわよ」と言った。


「すっかり道草を食ったわ。酒田が作った、来月分の靖江天狗堂への発注書……間違いを幾つも確認した。それが終わるまで今日は帰れないから、覚悟しなさい」


「……は、はいっ、部長!」


「えっ……、と、という事は……?」


 間瀬はフン、と笑った。


。……靖江店長に伝えておいて、『今後ともよろしくお願いします』とね」


 羽関妹は熾烈な闘技を終えた直後にも関わらず、すぐに立ち上がって頭を下げた。


 それに応えるように、酒田も龍一郎、羽関妹に幾度も礼をして、いち早く教室を出て行った。


 間瀬は酒田を追って廊下に出る寸前に、振り返って龍一郎とトセに目をやった。


「疑ってごめんなさい、もう迷惑は掛けないわ。代打ちの仕組みをとやかくも言わない、でもね……」


 しばらく間を置き、間瀬は少しだけ辛そうに続けた。


「《札問い》に勝って喜ぶ人もいれば、負けて泣く人もいる。賀留多は、もっと純粋に楽しめるものじゃないのか、って……私は思ったの。だから、だからね……」




 せめて、を増やさないで。お願い……。




 間瀬は背筋を伸ばし、まだ教室に残る者達に向かって目礼し、足早に去って行った。


「……あの人も、本当は優しい方なんでしょうね」


 龍一郎の呟きに、目代が「そうだね」と小さく返した。


「ところで……おトセちゃん、いつまで近江君とイチャイチャしているのよぉ?」


 クスクスと笑いながら、宇良川は龍一郎の背中にピッタリと付いているトセを見やった。


 慌てたようにトセは顔を赤らめて、涙を袖で拭ってから「エヘヘ」と誤魔化すと、散らばった証文の欠片を拾い上げた。


「どうします、これ? 一応拾って保管しますか?」


 うーん……と目代は小首を傾げて思案に耽ったが、果たして彼女は龍一郎に問い掛けた。


「近江君が決めると良いよ、何はともあれ闘技に勝ったのは君なんだからさ」


 少しの気恥ずかしさを覚えながらも、龍一郎は「じゃあ」と全ての欠片を拾い上げた。


「捨てちゃいましょう、何も無かった……という事で」


「そうだね。今日は何も無かった、素晴らしい模擬戦を見た……それだけだね」


 斗路が用意したゴミ袋に紙片を入れた後、宇良川が「提案がありまぁす」と手を挙げた。


「どうでしょう? この後は……部室でを開きませんかぁ? 美味しい紅茶を偶然持って来ているんですよぉ。勿論、皆さんは来ますよねぇ?」


 龍一郎達はすぐに頷いたが……ただ一人、名目上は生徒会側の代打ちであった羽関妹だけは、気まずそうに顔を伏せ、教室の扉に手を掛けようとした。


 その矢先――。


「ちょっとちょっとぉ! 何処に行こうって言うのよぉ?」


 宇良川が無言で立ち去ろうとした羽関妹の肩を叩いた。ビクリと身体を震わせた彼女は、フルフルとかぶりを振った。


「……私、一応敵でしたから……それに、もう充分賀留多を堪能出来ました。いつまでも居座れる程……そこまで馬鹿じゃありませんから……」


 何を言っているのよぉ? 宇良川が呆れたように羽関妹の身体を掴むと、無理矢理に龍一郎達の方へ振り向かせた。


「模擬戦と言ったでしょう? それに……ここにいるのは、賀留多を愛して止まない、とんでもないお馬鹿さんだらけなのよぉ。同じお馬鹿さんなら、絶対に仲良くなれるわぁ」


 しかし納得のいかない様子の羽関妹に、斗路が「羽関さん」と優しく声を掛けた。


「実に鮮やかで大胆な打ち方をされる女性だなと、私、いつも拝見しておりました。……どうでしょうか。時間の許す限り、私達と賀留多について語り合っては頂けませんか?」


「……で、でも――」


「京香ちゃん!」


 トセが彼女に駆け寄った。闘技中とは違い、か弱く震える手をトセは掴んだ。


「一緒に行こうよ、部室に! ねっ、君!」


 皆の前で渾名を呼ばれた龍一郎はサッと顔を赤くした。宇良川が生温かい視線を彼に送っていた。


 羞恥の余り逃げ出したくなる龍一郎の返答を待つように、羽関妹は上目遣いで彼を見つめていた。


 そして龍一郎は照れ隠しに頭を掻きながら……満面の笑みで言った。


「俺からも頼むよ、京香さん」


 胸中に居座る「暗い何か」が、一瞬で砕けたような表情――羽関妹はモジモジと身体を捩りながらも、そのような面持ちで頷いた。


「では……お邪魔します」


 決まったわぁ! 宇良川が明るい声で羽関妹に飛び付き、そのまま部室へとズンズン歩を進めて行った。


 連行に近い状態にある羽関妹も、心無しか楽しげな顔であった。二人の後を追っている最中、目代は龍一郎に囁いた。


「ねぇねぇ、リュウ君」


「ちょ、ちょっと止めてくださいよ……恥ずかしいですから」


 悪戯っぽく笑う目代は、斗路と話しているトセを見やって言った。


「上手くやれたんだね? 昨日は」


「……いや、まあ……特訓、はい、特訓をしましたから……」


「本当に特訓だけだったのかな?」


 勿論ですよ――龍一郎は目代の顔を見ずに素気無く返答する。横から感じる強烈な視線に「秘め事」を看破されるようで、彼の心は俄にざわついた。


「フフッ……リュウ君――」


 格好良かったぞっ……目代はからかうように、初心な少年の頬を突いた。


 この日、姫天狗友の会部室では夜遅くまで賑やかな声が、そして賀留多の打音が響いたのであった。

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