第10話:雨四光
龍一郎は場札に最後の
最後の手札を、彼女は見抜いていたに違い無い……。
しかし彼に恐れは無かった。背負う責任の重さも、今では葉の一枚に過ぎなかった。
痩せた山札に手を掛けた瞬間、龍一郎は観客の息遣い、羽関妹の笑みが霧散していく感覚に陥った。
札を……時と共に低く、しかし険しさを増す山とするのなら、彼は無酸素の辛苦に喘ぐアルピニストであった。静寂の中で見つめ合う事だけを強要される時間に、龍一郎は裸一貫で飛び込んでいるのだ。
札と己。それだけが――確かに呼吸する存在として、花ヶ岡高校の一角に息づいている。
上澄み一枚を捲る。その刹那に……指先から何者かの声が振動となって伝わるようだった。
蛙を見よ。
柳の先を掴んだ小さな蛙を見よ。
届かぬ柳に一陣の風が吹き、果たして掴んだあの蛙を見よ――。
その一枚を引け、近江龍一郎!
力強い男性の声が、彼の耳に木霊した。
彼が勢いよく起こした札、表面には……。
昔、一人の男性書家がいた。
彼は酷いスランプに陥り、筆を折ろうかと悩み苦しんでいた。
ある雨の日、彼は浮かない気分で泥濘む道を歩いていると、一匹の蛙が柳を目掛けて何度も飛んでいたのを認める。俄に彼は嘲った。
「馬鹿な蛙だ、努力しても無駄な事はあるのに」
伸び悩む書家としての才能、遠のく成功と栄誉に苛立つ彼は、そのまま蛙と自分とを重ね、自虐的に嗤った。
しかしながら……蛙は何度も飛び跳ねる。両手を高く掲げ、右へ左へと揺れ動く柳を掴もうとする。
掴まねばならない。
小さな両生類の身体に宿る遺伝子に、そう刻み込まれているようだった。
滑稽にすら見えた蛙を、天上は果たして見捨てなかった。
ピュウ、と一陣の風を以てして柳をしならせ、蛙の両手にそれを握らせたのだった。
書家は驚くと同時に自らの愚かさを嘆いた。
「馬鹿なのは私だ、努力によって運命を引き寄せた蛙に比べて、私はまだまだ死力を尽くしていないではないか」
その後に書家は努力を重ね、やがては「書道の神」として祀られる程の人物となった。
彼の名は「小野道風」。
彼が描かれた札は、賀留多の
苦労の書家は一一ヶ月の戦いの中で近江龍一郎を翻弄し、試し続けた。
目的の成功――即ち勝利を信じ続ける力が、その少年にあるか否かを問うていた。
果たして書家は少年の克己心を認め、一二ヶ月目の八手目、最終局面にて力を貸した。
師走戦の結果、近江龍一郎は八手目に《雨四光》を完成、七文を獲得した。
既に《三光》を完成している為、六文の貯金と七文以上倍付けの規則を合わせ、計二六文を得る。
相手の羽関京香との文数差は瞬く間に逆転、運命の札問いは……。
近江龍一郎、彼の勝利で終わった――。
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