第7話:ナルシシズムの昇華

 次の日、宇良川柊子は高校近くの喫茶店にて、無二の親友と共に紅茶を楽しんでいた。


「どうかされましたか? 、とても嬉しそう」


 ティーカップを傾けながら、彼女は一枚の書類に目を通している。「入会届」と銘打たれたその書類には、「近江龍一郎」なる男子生徒の署名があった。


「聞いて、。私、初めて男性にねじ伏せられたの」


「まぁ。花ヶ岡の方ですか?」


 コクリと頷く宇良川は、書類に記された名前を指差した。


「……近江さん? 一度お目に掛かりましたが、そのような乱暴を働くようには……」


 あぁ、賀留多ですね――彼女は鞄から判子と朱肉を取り出すと――近江龍一郎という名前の上から丁寧に捺印した。「承認」という朱い文字が眩しいぐらいだった。


「それでね、みーちゃん。私の身体、全部その子に取られちゃったの」


「一目惚れですか? 以前言われたではありませんか、一目惚れなど有り得ないと……」


「そうじゃないのよ、みーちゃん。実はね、その子と私で賭けをしたのよ。負けた方が何でも一つ言う事を聞くって……」


 クスクスと笑い出した宇良川。「何をお願いされたのですか」と小首を傾げる親友に、宇良川は「あの子、恐ろしいわぁ」とマカロンを一つ手に取り、小さな音を立てて齧った。


、だって。だから私の身体は、鶴の一声でどうにかなってしまう。どうして今年は変わった後輩ばかり入って来るのかしらねぇ……困ったわぁ」


「そう仰いますけど……しーちゃん、凄く嬉しそうですよ?」


 親友は楽しげに笑い、「それで、近江さんは今?」と問う。宇良川は腕時計を見やり、「丁度今頃かしらぁ」と学校のある方角を向いた。


「あの子の事、きっと気に入るわよ……は。――どうしたの、みーちゃん。暗い顔をして……」


「いえ……ただ何となくあのタイプの方は……些細な事で気に病んでしまいそうで」


「珍しいわねぇ、みーちゃんが人の事気にするなんて?」


 そうでしょうか? 彼女は再び表情を朗らかなものへと戻し、紅茶を静かに啜った。




 その頃、龍一郎は昨日と同じく《姫天狗友の会》の部室を訪れていた。ドアの前に立てば後ろから何かを突き立てられるのは……というトラウマを背負っている彼は、三度のノックの後にすぐドアノブを捻った。


 明日、ここに来てくださいねぇ。素敵な人が待っているから――。


 宇良川の言葉が思い出される。トセにも似たような事を言われたな……などと龍一郎は苦笑いし、最早見慣れた室内へと入って行く。


「お邪魔しま……す……」


 窓際の椅子に座る女子生徒が、ジッと彼を見つめていた。


 近付き難い印象の彼女に輪を掛けるように、が更なる防壁を顕現させるようだった。ショートボブの髪からぴょこんと跳ねた寝癖が、微かに下方へ揺れた。どうやら彼女は目礼したらしかった。


「あ、どうも……俺、近江龍一郎って言います。昨日、宇良川さんから紹介を受けて……」


 再び寝癖が動く。


「こんにちは」ではなく、今回は「分かっています」という意味を含んでいるようだった。立ち上がった彼女は、龍一郎から一番近い椅子を引き――。


 座ってください――とジェスチャーした。


 促されるがままに椅子へと腰を下ろす龍一郎。次に彼女は電気ポットの前に立ち、湯を沸かし始めた。




 何だ、この人は何をしたいんだ。というか名前は何だ――。




「あの、お名前……教えて頂けますか……」


 クルリと振り返る彼女は、そのまま龍一郎の元へ歩み寄り、胸に着けた名札を指差した。盛り上がった服の頂点に留まる名札には「目代」と書かれている。


「うーんと、めしろ?」


 フルフルとかぶりを振る目代。


「……あ、めじろ、ですね」


 目代は親指と人差し指で丸を作り、そのまま電気ポットの前に戻って行った。


 無言の空間を破ったのはポットから流れる「準備出来たぞ」という陽気な音楽であった。


 コップに何かの粉を入れる音、ブェーという情けない給湯音が妙に大きく聞こえる。彼は努めて無表情で目代を見つめていた。


 この人が三年生の代打ち、目代さんか……。


 目代は盆にコップを二つ載せ、彼の対面に腰を下ろした。中身はホットココアだった。


「俺、ココア大好きなんですよ。美味しいですよね」


 寝癖がぴょこぴょこと動いた。今回の目礼は「私もです」という意味らしい。


 二人の控え目に啜る音が部室に響く。


 食道を通るココアの温度に癒された龍一郎は、ようやくに落ち着きを取り戻し、失礼と思いながら目代に質問をぶつけてみた。


「目代さんも……代打ちなんですよね」


 寝癖が動く。「はい」との事だ。


「やっぱり強いんですよね、賀留多」


 今度は左右に寝癖が動いた。「そんな事無いですよ」と謙遜しているのだろう。ここで――龍一郎は彼女が口を開かざるを得ない質問を投げ掛ける。


?」


 思い悩むように宙を見つめる目代は、立ち上がって本棚に向かい……『花ヶ岡賀留多技法網羅集』と書かれた分厚い本を取った。机の上でパラパラと捲り、目代はあるページで指差した。


「……《きんご》、という技法ですか」


 ぴょこっと動く寝癖。


 意地でも目代は喋らないらしい。


 声が聞けなかったと残念がる龍一郎を慰めるように、目代はメモ用紙を取って来ると、ボールペンで文字を書いた。


「『ツキが落ちないように極力喋らないんだよっ』……そんな験担ぎもあるんですね」


 珍しい人もいるものだ……と龍一郎は思い、何より気になったのが文末に描かれた「星」マークである。……何だこの人、可愛いな。目の隈は凄いけど――。


「宇良川さんから聞いていますか? 例えば『近江って奴が来るよ』……とか」


 うーん……とでも言いたいのか、口元に指を当てた目代は、新たな文章を書き記した。


「『うん、お話してあげてって言われているよ』……お話ですか」


 コチコチと壁掛け時計の秒針が動き続ける中、二人はそれからしばらくの間、無言で同じ空間を過ごした。


 三度目の来訪という事もあり、龍一郎はここが教室の次に馴染みのある場所に思えた。まじまじと室内を見渡す龍一郎の前に、目代はメモ用紙をソッと置いた。


「『明日から自分のマグカップ、持って来てねっ』……え、俺まだ代打ちするって言っていないんですけど……」


 シナシナと目代の寝癖が倒れ込む。何かしらの感覚器官の如く、寝癖は喋らない主人に代わって彼女の内心を代弁した。


「『、ガックリすると思うなぁ』……あれは関係無いですよ、何で気に入られたのか……。それに、考えてみたら代打ちって怖いですよ、負けたら恨まれそうで……」


 うんうんと頷く目代。寝癖も上下に激しくぴょこぴょこと波打ち、「分かるわぁ」と同調するようだった。


 目代はメモ用紙にカリカリとペンを走らせていき、龍一郎はその様子を黙して見守っていた。この交流スタイルに彼は慣れ親しみ始めた。


「『分かるよ、とっても分かる! 私も色々あってね、悩んだ事があるよ?』……やっぱりそうですよね。俺……自信が無いですよ、正直言って……」


 出来の悪い弟を愛おしむように、目代は微笑みながらペンを動かす。


「『そうだよね、やっぱり考えちゃうよね。そういえば、おトセちゃんから聞いたよ、イカサマを許したんでしょう?』……今考えたらよく俺も許したなって思いますよ」


 実際に――龍一郎は三笠戸との一戦を思い出す度、背筋に氷が滑るような感覚に陥った。


 作戦でも気遣いでもなく、ただのであったのだ。


「ここでこう勝てば、ドラマチックな結末を迎えられる」……不意に湧き出たナルシシズムそれだけが、彼を勝利と敗北との狭間に誘導したのである。


「代打ちは徹底した勝利を求められますよね、俺はあの時……『こんな風に勝てば、正義のヒーローっぽいな』って考えていました。ナルシストなんでしょうね、きっと……」


 やや間を置いてから、目代はスラスラとペンを走らせた。


「『そういうスタイルを求める依頼者もいると思うなっ』……」


 その瞬間――龍一郎は代打ちとして勝負に挑み、劇的な勝利を収めて勝ち鬨を上げる自分を空想した。




 戦術、直感、駆け引きを総動員して依頼者の願いを叶える光景を、彼は夢に描いてしまったのだ。




 少量の自惚れ、自負心、傲慢さは身を滅ぼすが、仮にその量が大海に勝る程のものであれば、やがては「自信」として昇華し、遂には運の流れさえ引き寄せてしまう。大小全ての川が、やがては海に注ぐように――。


 遠い昔に生きた勝負師の自伝に書かれていた言葉を、龍一郎は思い出し……全身に本質が伝播していくようだった。




 俺はやれるのか? 平穏無事を祈った高校生活を、あえて波濤の寄せる汀に変えてしまう事を、もしかすると……俺は望んでいるのか――。




 目代は懊悩する龍一郎の目を見つめていたが、やがてメモ用紙に短文を書き記し、思考渦巻く彼の前に置いた。


 良い目だね――果たして龍一郎はその短文を読み終えたと同時に、眼前の景色が様変わりする感覚に陥った。


 白い座布団、その上に並ぶ札、四季を象る四八通りの図柄が発する熱気……。


 期せずして代打ちを行い、その打ち筋に惹かれたトセにこの部室へ連れて来られた事。全てが定められた道のようであった。


 彼の肢体に満ちる代打ちとしての闘争本能が、与えられた「ナルシシズム」という餌に有り付くべく――今、怯えの鎖を断ち切ったのだ。


「……俺、代打ち……やってみます。マグカップは明日で良いですか?」


 ピンと立ち上がる目代の寝癖は、そのまま彼女の喜びを表現しているらしかった。


 スマートフォンを取り出し、目代は素早い手付きで操作をすると――。一分と経たずに部室のドアが勢いよく開いた。


「マグカップ、私が見立ててあげるよ!」


 満面の笑みで胸をポンと叩く少女、一年生代打ちの一重トセがそこにいた。


「ひ、一重か……ビックリした」


「だから呼び方! おトセ、って言ったよね?」


 龍一郎を見つめる目代の顔は何処までも優しく、そして嬉しげであった……。

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