遅刻

相沢昭人

遅刻

 高校生にとって朝の数分ほど大切な時間はない。



 自慢じゃないが、いつもぎりぎりながらも、一度たりとも遅刻したことがない。


 それどころか、怒られる可能性のあるありとあらゆることを回避してきた。


 精々全体で怒られたことがあるぐらいだ。



 朝のホームルームが始まる8時30分まであと7分。



 学校の最寄り駅まではあと1駅だが、今いる駅から発車するまでの時間も考えると4分はかかるだろう。



 駅から学校までは100メートルもない。



 でも、坂道だから1分はかかるとみておいた方がいい。



 つまり、ここから校門までかかる時間は5分だ。



 校門をくぐってからも教室が5階にあるので、すぐとはいかない。


 でも2分もあれば、教室は射程圏内だ。



 十分間に合う。




 そんな目算を立てていたが、電車は今いる駅を2分遅れで出発した。



 もう無理だ。


 間に合わない。



 こんな中途半端な遅延だと、遅延証明書ももらえないじゃないか。



 ふざけやがって。



 今となっては、遅刻から逃れる手段は一つしかない。



 人身事故だ。



  それが起これば遅延証明書を入手でき遅刻扱いにはならない。



  頼む!誰か飛び込んでくれ。



  崖から飛び降りたり、毒を飲んで自殺しようとしている人は、どうか考えを改めて線路に今身を投げてくれないだろうか。


 こう願っているのは何も僕だけじゃないはずだ。


 同じ立場の人は何人もいる。


 どうせ自殺するならその命、世のため人のために使ってくれよ。



 そんな腹黒いことを考えているうちに、電車は学校の最寄り駅に到着した。


 2分の遅れを取り戻そうとしたのか、遅れは1分になっていた。



  今は8時28分。



  急げば間に合うか?



  これは運も味方してきたのかもしれない。



  電車の扉が開くと僕は一目散に駆け出した。


 途中強く誰かとぶつかったが、そんなものに構っている暇はない。



 駅から学校までの坂を全力で駆け上がると、1分もかからず40秒ほどで済んだ。



  残りは1分20秒だ。



  これはもしかしたら本当に間に合うかもしれない。



  乳酸がたまった足から聞こえる悲鳴を聞こえないふりをして、ペース配分も考えず常に全速力で階段を駆け上がった。



 今この状況を乗り切れるなら骨折ぐらいはしてもいい。



 だから頼む間に合ってくれ。


 


 そんな思いむなしく3階から4階への階段を上っているときに、ホームルーム始まりの合図となる鐘がなってしまった。


 全速力で走っているつもりでも、体はそれについていけていなかったようだ。



 それでも先生が教室に入るのが少し遅れるという一縷の望みにかけて、決して足を緩めなかった。


 結果、8時31分丁度に教室についた。




 扉を開けると、案の定、鬼の形相を浮かべた担任の先生が教壇の上に立っていた。



「今日は何で遅刻したんだ?」



「すいません、寝坊です」



「それは嘘だ。本当に寝坊したなら、20分や30分場合によっては数時間は遅れるはずだ。1分や2分の遅刻は心意気の問題だ。走れば間に合うのを走らなかったり。遅刻しそうなのをわかっていてゆっくりしたり。つまり、お前は俺のことをなめているんだ」



「そんなことありません。見ての通り僕は寝坊した以外では最善を尽くしました。歩いてきてたらこんなに汗はかいていないはずです」



「うるさい。言い訳をするな。お前のせいでホームルームの時間が無駄になっただろう」



 こんなに一生懸命急いだのに、ここまで言われるのは心外だ。


 たとえ結果が出なくても努力を認めるのが学校ではないのか。



 これが怒られるというものか。


 その日一日はどんよりとした気持ちで過ごすこととなった。




 今日は寝坊したせいで散々な目に遭ったのだから、明日は寝坊してはいけないと、いつもより早めに寝床に就いた。


 目をつむっていると朝の出来事がありありと浮かぶ。


 段々と今日の担任の態度への怒りが再燃してきた。



 目がさえたせいで、結局前の晩寝た時間より遅い時間になってしまった。



  早く寝ないと大変なことになる。



  いっそのこと徹夜してやろうか。



  そんなことを考えていたらいつの間にか眠りについていた。




 朝起きた時間は昨日より2分遅かった。


 時計を見た瞬間の絶望は筆舌しがたい。


 今日寝坊しないためにいかなる努力もいとわなかったことは誓ってもよい。



  早く寝床についたし、目覚ましもかけた。


 それなのに、僕はまた遅刻してしまうのか。



 駅まで全力で走ったものの、やはり間に合いそうにない。


 昨日だって全力だったんだから、昨日より遅い今日は間に合うはずがない。


 そして、人身事故も起こっていないし、きっと起こらないだろう。


 線路に身を投げる以外で自殺するやつのことを僕は絶対に許さない。



 ふと脳裏に


「1分や2分の遅刻は心意気の問題だ」


 という昨日の担任の言葉が浮かんだ。


 これは裏を返せば、大きく遅れれば、心意気の問題じゃないから許されるのではないか。


 僕は今までなんて頭が固かったんだろう。



 その日ゲームセンターで時間をつぶした後、昼から学校に行った。


 予想通り怒られることはなかった。


 これはいい。


 今まで悩んでいた自分が馬鹿みたいだ。


 それから毎日昼から学校に行くようになった。



 ある日帰りのホームルームで、担任が僕のところまで近づいてきた。



「最近よく昼から学校にきているが、どうしてなんだ?病院でも行ってるのか?」



「いいえ、何か用事があるわけではありません」



「じゃあ、どうして?」



「1分や2分の遅刻は心意気の問題になってしまうからですよ。それは先生に失礼です。だから、昼から登校してるんです」



「じゃあ、本当は数分の遅刻で済むところを、わざと昼まで遅らせてるんだな」



「はい、そうです」



 褒められることを期待しているかのように、笑顔で元気よく返事をした。



「馬鹿野郎! そんなのもっと駄目に決まっているだろう。どんな些細な遅刻でもいけないことだけど、遅れる時間は短い方がいいに決まっている」



 せっかくいい答えを見つけたと思っていたのに、また怒られてしまった。



 そして、次の日再び間に合わない時間に起きてしまった。


 急いでいけば、5分ほどの遅れで済むがそれは失礼だ。


 かと言って昼から行くのも良くないことらしい。


 いずれにせよ怒られてしまう。



 その時、画期的なアイデアが頭に浮かんだ。


 そうだ。


 学校に行かなければいいんだ。



 その日から遅刻しそうな時は、学校を休むことにした。



 これなら原理上怒りようがない。



  その日は早く起きることができたので、普通に登校した。


 すると、担任が僕のもとへ向かってきた。



「最近よく学校を休んでいるが、体調でも悪いのか? それとも何かあったのか?」



「いえ、遅刻しそうな日は学校に行かないことにしているだけです。数分遅れるのは失礼ですし、大きく遅れるのはよくないことです。だから、休んでいます」



「でもな、ずる休みはもっと悪いことだ」



「ずる休みなんかじゃないですよ。失礼のないようにしたらそうなっただけです」



「言い訳をするな」



 また、怒られてしまった。


 でも、実は怒られている最中に答えを見つけた。


 そうか、そういうことだったのか。



 その日から学校に行くことはなくなった。



 そう、学校にずっと行かなければ怒りようがないのだ。


 前のだと、早起きして普通に学校に通った時に、怒られてしまう。


 でも今回のだと怒られようがない。



 学校を休み始めてしばらくたったある日のこと。



 ピンポーン



 家のチャイムの音が鳴った。


 誰かと思いドアを開けると、そこには担任がいた。



「最近学校に来ないじゃないか? 何かあったのか?」



「学校に行くと休んでたことを怒られるので行ってないだけです」



「理由はそれだけか? じゃあ、ずっとずる休みしていたということか?」



「ずる休みじゃないです。僕はただ先生を怒らせたくなかっただけです」



「馬鹿にするのもいい加減にしろよ。お前が学校に来ないなら俺は毎日家に通い続けるからな」



 結局、逃げ場はどこにもないのか?


 どうやっても担任には怒られてしまう運命なのだろうか?



 次の日、僕は早起きして駅に向かった。


 今からくる電車に乗れば、余裕でホームルームには間に合う。



 電車が自分のところを通り過ぎる直前に線路に飛び込んだ。


 瞬殺だった。



 僕はちゃんと皆の役に立ったんだ。



 担任は亡くなった生徒の母親から手紙を受け取った。



「なあ、どうして自殺なんかしたんだよ。何かあったなら俺に相談してくれたらよかったのに」



 そう言って、担任は泣きながら手紙を読んだ。



『先生へ



 きっと先生は「どうして、お前は自殺なんかしたんだ」と思っていることでしょうが、それはこの世にいると先生に怒られるからです。



 先生から怒られずに済む手段なんかないんじゃないかと半ば諦め気味だったので、この方法を思いついた時は我ながら感動しました。



 随分と回り道をしてしまったものです。


 流石に先生もあの世にいる僕を「何で家にいないんだ」と怒ることはできないでしょう。



 もう散々怒られたのでしばらくは怒られたくないです。



 先生が長生きすることを祈っています。』

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