9章 山南敬助

「トシさんが、わたしに用事なんて、珍しいですね」

 山南が穏やかな微笑を浮かべた。試衛館の奥にある居間である。

 試衛館には、道場主の近藤周助の住居が付随しており、道場の奥が、そのまま住まいになっていた。


 山南敬助は、比較的来歴がわかっている人物の多い新選組において、かなり謎の人物で、江戸でも名流の北辰一刀流・玄武館(異説はあるが)から、あまり知られていない天然理心流に移籍したという変わり種の剣客だ。

 山南は、『同志連名記』に「仙台脱藩 山南敬助」、新徴組隊士の早川文太郎の『尽忠報国勇士姓名録』には、「松平陸奥守家来当時浪人山南敬輔二十八歳」と、どちらにもの出身とあるのだが、不可解なことに、山南姓は兵庫県に見受けられる姓で、宮城県には、山南姓というものが存在しない。

 山南敬助が亡くなったことにより、その家が絶えてしまったとしても(長男が脱藩というのは、現実的ではないが、仮に)、その親類などの一族が存在しない、などというのは、核家族化がすすんだ現在ならともかく、家名が重要視された当時においては、じつに奇妙な話である。


 という話しはともかく、歳三は、この山南という男に、自分と同じ性質があることを感じていた。

 試衛館の面々は、次期宗家の島崎勝太は、素朴で単純明快、竹を割ったようなさっぱりとした気質である。一方、塾頭の沖田惣次郎は、性格はまるで子どものままなのに、剣の閃きには天才的なものがあった。

 いつだったか、なかなか惣次郎に勝てない歳三が、柳剛流の技を仕掛けて一本とったら、ただ一度、技を喰らっただけなのに、次の試合では、その技を完全に再現して、見事に歳三をくだしていた。


 歳三は、技を理論的に考察して、なぜそうするのか納得し、そのうえで、ようやく自分のものにする。

 ところが惣次郎は、頭では理解していないのに、それを直感的に再現できてしまうのだ。

 山南も歳三と同じで、理論的に物事を考え、頭で理解しないとその技が身につかない……。という気質が、よく似ていた。

 しかし、そんなふたりには、大きな違いがある。歳三は、理論で感情を制御し、あくまでも一歩退いた視線で物事に対処するが、山南は、ともすると感情を優先するきらいがあった。


「じつは、訊きたいというのは、水戸の攘夷のこと、それに北辰一刀流に関してなんですが……」

 歳三が切りだすと山南が、驚いたように眼をみひらいた。なぜならば、この男が攘夷など政治向きのことには、まるで関心がないと思っていたからだ。

「トシさんが政治向きの話なんて、どうかしたのですか?」

 歳三は、珍しく照れたような顔を浮かべ、それがまた山南を驚かせた。

「あっ、いや。勘違いしねえでくれ、そうじゃなくて……」

 と、八州廻りの馬場俊蔵から、無理やり捜査協力を押しつけられた顛末を、理路整然と説明する。


「ははあ。そういう理由わけでしたか。馬場さまは強引ですからね」

 馬場は剣術好きなので試衛館には、何度も顔をだしているので、山南も面識があった。

「さて……なにから話したらよいですかね……トシさんは『大日本史』をご覧になったことがありますか?」

「小野路で本は見たが、読んではいねえなあ……」

 歳三は、小野路宿の名主・小島家まで出稽古に出向いているので、当主で書物好きの小島鹿之助が購入した、大日本史が山のような大部の書籍だとは知っていたし、眼にもしていたが、読んだことはなかったし、読もうと思ったことすらなかった。


 大日本史は、水戸光國が生涯をかけて編纂させたもので、勤王思想の根幹をなした書物である。光國の代では編纂が終わらず、最終的に完成したのは、編纂をはじめてから二百五十年ののち、明治三十九年(1906年)のことだ。


「この大日本史の解釈から生じた、国学者の藤田幽谷とその師である立原翠軒との間で引き起こされた論争が、水戸をふたつ党派に分裂させました。

水戸本国では、保守的な書生派が実権を握る一方で、江戸では攘夷を強く主張する改革派が多数を占めています。

藩主である左近衛中将(斉昭)さまと、その懐刀の藤田東湖どのは改革派なのに、周りの重役は保守派といったが混乱の原因です」

 山南が、すらすらと簡潔に説明する。やはりこの男に訊いて正解だったと、歳三は思った。

「南朝を正当とする大日本史が、水戸学のはじまりです。北辰一刀流の玄武館にいる水戸者は、尊皇攘夷を強硬に主張する改革派が主流でした。

彼らが範とするのは、強硬に攘夷を主張する藤田東湖どのです。その連中も、おそらくは、そうした一派にちがいないでしょう」

 幽谷の三男・東湖は、過激な攘夷論者であった。薩摩藩士の樺山三円、海江田信義は、ペリーが来航して開国を迫ったさい、彼らを前に


「ペルリの首など白刃一閃、落ちたらんのみ。果たしてしからずんば、余もまた当日まさに死すべし」


 「ペリーの素っ首など白刃一閃、斬り落として自分は即刻、腹を切る」という、過激な意見を述べたことを記している。

「なるほど……ところで、山南さんが玄武館にいたころ、これから挙げる名前を耳にしませんでしたか?」

 歳三が、石渡と松方、そして姿を見せていないが、仲間と思われる秋吉の名前を挙げるが、山南は、

「さて……わたしは、水戸の連中と仲良くしていたわけではないし……」

 と、考えこんでしまったのも無理はない。玄武館は江戸で、つまり日本で、もっとも門弟数の多い道場だ。一説によると門弟数は三千人。よほどのことがないかぎり、名前を知らなくてもしかたがなかった。


「まあ、門弟三千人じゃあ、知らなくても無理はねえか……」

「お役に立てなくて、申し訳ない」

「いや、気にしないでください。おかげで水戸の事情は、おおむね飲みこめたし……いずれにせよ、やつらが大人しく縛につかないことは、まちがいないでしょうね」 

「ええ。あの連中は危険です……昨年、玄武館の仲間に誘われて、神田三河町にある学問塾に、国学を受講しに行ったとき、水戸の連中は、過激な言動を繰り返していました」

「過激とは?」

「つまり、異人は斬るべし、といった例のですよ」

 近ごろでは、剣術道場などで黒船やペリーの話題になれば、夷狄許すまじ、などというのは定番の文言になっているが、水戸の連中は、気炎ではなく本気なところが厄介であった。

「その話、危なすぎます。馬場さまに言って、お断りしたほうが……」

「そうしたいのは、山々だけど、なかなかそうもいかなくってね」

 姉おのぶの怒った顔が脳裏をよぎり、歳三は、思わず苦笑を浮かべた。












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