8章 牛込柳町試衛館

 本所亀沢町は、現在の両国四丁目あたりに相当する。勝海舟の叔父である講武所頭取の男谷精一郎の道場があり、町の周りには、旗本や御家人の屋敷が連なり、その隣には広い馬場があった。

 馬場の裏手には、大川から引き入れた細い堀が流れている。その堀の向こうに見えるのが本所御竹蔵だ。

 六兵衛長屋は、馬場の堤下にある九尺二間のおんぼろ長屋である。


 長屋のいちばん奥の部屋で、歳三が手持ちぶさたで煙管を燻らしていると、

「ごめんよっ。トシさん戻ってるかい」

 日野宿の道案内、山崎兼助が入って来た。

「おう。やけに遅かったな。待ちくたびれたぜ」

 兼助は部屋に入ると、歳三の顔をまじまじと見回し、

「浪人姿が似合ってるねえ。まるで親の代からの浪人者だ」

 と、笑った。

「そんなの誉められても、ちっとも嬉しくねえな……でも、そういう兼助さんも、先祖代々の折助みたいに見えるぜ」

「ちぇっ、好きでこんな格好なりしてるわけじゃねえや」

 と、印半纏の袖を、ひらひらと振った。山崎兼助は、彦五郎が用心棒として、長屋門に住まわせている十手持ちで、天然理心流の剣士でもあった。

 といっても、日野に教授に来ている近藤周助ではなく、兼助の出身地である砂川村で道場を開いている千人同心・増田蔵六の弟弟子、井滝伊勢五郎の門弟である。

 歳三が日野にいるときは、毎日顔をあわせているため昵懇の間柄で、口のききかたにも遠慮がない。

「ところで、トシさん。おもしれえことがわかりやしたぜ」

「なにか訊きこんできたのか?」

「ああ。トシさんが店に入ったんで、しばらく店の裏手で様子を見ていたらよ……」


 三枝に連れられて、歳三が『丸川』のなかに入ると、尾行してきた兼助は、店の周囲を観察して、身を隠せそうな向かいの建物の裏口にある天水桶の陰に身を潜めた。

 しばらく見張っているうちに、店には次々と客が訪れたので、そろそろ客の素振りで店に入って見張ろうかと考えていると……。


 丸川の裏口から浪人ふたりが出てきたので、あわてて身体を縮めて息を殺した。

「やつが見つかったというのは本当か」

 せっつくように、石渡が言うと、

「博打好きが命取りさ……秋吉が、やつが顔をだしそうな賭場を、あちこちとまわっていたとき、深川で見つけたそうだ」

「それにしても、あやつが小暮と坂巻を殺すとは、思ってもみなかったぞ」

「まったくだ。だが仲間といっても、やつらは勤王思想を持たぬ金目当ての下衆浪人だから、心は痛まぬが……しかし、あやつめ。三人で拙者たちを裏切ったかと思ったら、その仲間すら裏切るとはな……」

「ふん。拙者らといっしよに、藤田先生の教えを受けておきながら、やつは心底クズ野郎だな。では、さっそく斬りこむか」

「まあ待て。ひとつ問題がある」

 松方が、苦々しくこたえる。

「問題とはなんだ?」

「あやつめ……深川の小見山という御家人の屋敷をねぐらにしておるのだ」

「なんだと。御家人の屋敷では、迂闊に斬りこむわけにはゆかぬぞ。彼奴め中間にでもなって、もぐりこんだというのか?」

「いや。あのあたりも本所こっちと同じように、性悪の御家人がたくさんおってな。やつが居候を決めこんでいる屋敷には賭場があり、用心棒として、そこで寝泊まりしておるようだ」

 石渡は、鋭く舌打ちすると、思案深げな表情で、

「江戸には、やつの顔を知った家中のものが大勢おる。ほとぼりを冷まそうと、しばらくは、そこに身をひそめておるだろう……我らは、もう少し、活動資金を集めねばならぬ。その前に、ひと仕事しておくか」

「そうだな。東湖先生は主上の側近くあって、国事に奔走しておる。我ら野におる志士も皇国のために、夷狄どもに鉄槌を下すための資金を調達せねば……」

「うむ。大事の前の小事……彼奴めは、しばらく泳がせて、油断させておこうではないか」

 と、言って、店のなかに戻っていった。


「なるほど……それじゃあ、桝形山で俺がやっつけた破落戸ごろつき浪人を殺ったのは、その深川の御家人の屋敷に、もぐりこんでる野郎か……」

 歳三は眉間にしわを寄せた。

「それよりも気になるのは、あのふたり、じゃなくて、どうやら本物の尊攘浪士らしいことですね」

「ふん。たしかにな……金目当ての悪党者とちがって、いざ御用となったら、おそらく大義だなんだとぬかして、命がけで歯向かってきそうだな」

「だとすると厄介だなあ。おいらは、これから馬場さまに相談しに行ってきます」

「やつらが連絡つなぎをつけるって言ったのは、二日後だ。俺もちょっと知り合いと会ってくる」

「どんな知り合いですか?」

「ふふっ。幸い、攘夷と北辰一刀流に、詳しそうな知り合いがいるんでね」

「ははあ、わかりましたぜ。あの御浪人ですね」

「なんだ。知ってたのか」


 兼助が馬場の屋敷に向かうと、歳三も両刀をたばさみ長屋をあとにした。

 歳三が向かったのは、市ヶ谷甲良屋敷という町にある天然理心流の道場『試衛館』である。

 甲良屋敷といっても、そこに屋敷があったわけではない。甲良氏は、幕府から百俵の御切米を給る大工の大棟梁で、この当時は十代目甲良若狹がつとめた。

 甲良氏の拝領屋敷は神田皆川町にあったが、百俵の禄では配下をやしなえないため、そのほかに千住牛田と、この市ヶ谷柳町に幕府から土地をあたえられ、その土地を町人に貸して、収入源にしていた。

 したがって試衛館の周りは、町人地が拓け賑やかな町になっている。


 試衛館は、地元ところの人びとから焼餅やきもち坂とよばれている坂の上にあった。

 焼餅坂というのは、この坂の途中に美味しい焼餅を食わせる店があったからそれが通り名になっただけで、が住んでいたわけではない。正式には赤根坂という。


 歳三が訪れると、道場では十数人の門弟たちが稽古をしていたが、道場主の近藤周助と師範代をつとめる島崎勝太の姿は見えず、かわりに、歳のわりに老けて見える小柄な男と、とても剣術師範には見えない、穏やかな表情をした学者のような雰囲気の男が、門弟たちに稽古をつけていた。

 試衛館は、小説や漫画などのフィクションの影響で、すっかり百姓ばかりの田舎剣術道場にされてしまっているが、市ヶ谷という場所柄、御家人などの幕臣の門下生が多かった。


 老け顔の小柄な男は、歳三に気づくと、朗らかな笑顔を浮かべた。

「よう、トシ坊。なんだい、その浪人みたいな格好なりは。久しぶりに稽古しにきたのか?」

 井上源三郎が、からかうような口調で話しかける。歳三を呼ばわりするのは、歳三を乳飲み子のころから知っている源三郎とその兄、千人同心の松五郎ぐらいである。

「若先生なら大先生と惣次郎の三人で、布田を抜けて小野路から相原のほうに出稽古に出掛けていて、しばらく帰ってこねえぜ」

「いや、今日はかっちゃんじゃなくて、山南さんなんどのに会いに来ました」

「えっ、わたしに、ですか?」

 山南敬助は『浪士姓名簿』に「牛込廿騎町小谷陽之介地内に罷在候」とあるように、試衛館の近所に住んでいた幕臣の屋敷に居候しながら通っていた。

 この時期はまだ、試衛館で門弟に稽古をつけるだけで、巡回教授には参加していない。

「山南さん、お久しぶりです。今日は、少し教えてもらいたいことがありまして……」

「わかりました。では奥に」

 山南敬助は、門弟たちに稽古を続けるように指示すると、あとは、いっしょに門弟に稽古をつけていた免許持ちの井上源三郎にまかせ、歳三をともない奥の居間に向かった。


 











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