5章 本所津軽屋敷
歳三の住む日野は、御領で韮山代官・江川太郎左衛門の管轄地、つまり代官支配地である。
江川家は、韮山がその本拠地ではあるが、多摩郡にも広大な領地があり、江戸詰めの家臣も多く、本所に江戸屋敷を構えていた。
この江戸屋敷は、本所・横川、北中之橋きわの弘前藩・津軽越中守下屋敷の向かいにあるため「津軽前」と呼ばれており、名主の彦五郎などは、さまざまな雑務のため、毎月のように出向いていた。
歳三も、行商の予定と重なったときに、彦五郎と連れだって何度か訪れたことがあり、その場所は熟知している。
津軽屋敷は、
本所にすぎたるものふたつあり 津軽屋敷にすみやしおばら
などという、戯れ歌が作られるほどであった。
『すみやしおばら』というのは、炭屋塩原。一介の使用人から炭の商いで、巨万の富を築いた塩原多助を指し、津軽屋敷というのは、成功した塩原多助とは正反対の意味で、津軽屋敷に巣食う
大名家の下屋敷などは、藩主やその家族が訪れることなどは、ほとんどないのに、家格にみあった屋敷だけは維持せねばならず、管理、雑用のため多くの中間、小者が住みこんで、博打に耽るどころか、賭場として開帳しているような有り様であった。
留守居の藩士は、たっぷりと袖の下をもらっているので、見て見ぬふりを決めこんでいる。
下屋敷の長屋門に続いているのが、津軽屋敷の中間部屋である。
その中間部屋の奥の襖をとっ払った大広間では、盛んに博打が行われており、まっ昼間から三十人近い客が、博打に汗を流していた。
本所は、
賭場にはひとり、やけに目立つ男がいた。その男は、この数日、続けて通っている浪人だが、あまりよい目は出ておらず、じりじりと負けがこんでいた。
そのわりに、尾羽打ち枯らしたような惨めさは欠片もなく、むしろ、ふてぶてしい表情をしている。
男は、つぎがあたり色褪せた着物を着て、薄汚れた袴を穿き、いかにも貧乏浪人らしい風体をしていたが、どこか上品なたたずまいをしていた。
まるで役者のような甘く整った顔立ちをしているが、しかし目付きは、野生の獣のように冷たく鋭い。
賭場の中間たちは、この浪人にたいして、腫れ物にでもさわるかのように、恐るおそる接していた。
というのも、この賭場に姿をあらわした初日から、賭場で揉めたやくざ者ふたりと喧嘩になり、恐ろしげなそやつらを、一瞬にして投げ飛ばし、外に叩きだす手際が、あまりにも鮮やかだったからだ。
「さあ、張った張った。半方ないか、半方ないか。――では、丁半揃いました。壺っ!」
出目はピンゾロの丁。半に張っていた駒札が一気になくなると、その男は、鋭く舌打ちをして、盆を離れた。
博打部屋の隣には休み処があり、稲荷寿司などをつまんだり、茶や酒がのめるようになっている。
浪人は、不機嫌な表情のまま、休み処にどっかりと腰をおろし、煙草入れからとりだした銀煙管で、達磨刻みを吹かしはじめ、あたりにかすかな燻臭が漂った。
「御免……そこもと、ずいぶんと負けがこんでおるようだな」
煙草を吹かしていた男に、別の浪人が声をかけた。太い眉に、太い鼻筋。どこもかしこも厳つい造りの顔立ちである。
「ああ、おかげで懐は
「おっと失礼。拙者、備前浪人・三枝蔵之介と申す。一昨日、そこもとが、あの
「ふふん、わざわざ剣術を持ちだした……ということは、なにやら胡散臭い話のようだな」
男が、不敵な笑みをうかべた。
「不浄の金を、商人どもから、ちょっと融通してもらうのに、剣術の腕前が必要というわけだ」
「ははあ、近ごろ流行りの押し借りというやつか」
「まあ、有り体に言えば、そういうことだ」
「分け前如何によっては、その話、乗らぬでもない」
「それは期待してもらってかまわん。ところでそこもとの名は……」
「俺は、武州浪人・土方左近」
この浪人、もちろん歳三の変装である。
歳三は、商人ふうの短い髷を嫌い、町方の与力のように、月代を狭く、そして長い髷を結っていたので、大銀杏ふうに髷先をひろげれば、無頼浪人の出来上がりであった。
四日前……。
二子溝口宿で、歳三が船頭から訊きこんだ「津軽の賭場」という言葉から、どうやら押し借り一味は、本所の津軽屋敷の中間部屋で知り合ったか、あるいは根城にしているということが推測できたが、江戸は町方支配で、八州廻りの権限はおよばない。
さらに、津軽藩下屋敷は、大名の領地であるため、町方や火付盗賊改方の権限すらおよばず、捜査することは不可能であった。
せっかく糸口を掴んだのに……と、馬場俊蔵は、地団駄を踏んで悔しがったが、こればかりは、しかたのないことだ。
ようやく解放された歳三は、翌日からいつもの行商に戻り、矢倉沢往還沿いの得意先をまわって、寄宿する日野宿脇本陣に戻ってくると、そこには驚いたことに、馬場が待っていた。
「よお、トシ。おまえを待ってたぜ」
「馬場の旦那……待ってたって、まさか、あの浪人の話じゃないでしょうね」
「その、まさかさ」
「大名屋敷じゃあ、調べに入るわけにもいかないし、話しは火盗改に上げたほうが……」
「火盗改だって支配違いさ……で、おまえに相談だ」
「勘弁してください。俺は、そんな怪しげな浪人を探るなんて、まっぴら御免ですよ」
「なにも、おめえに危ない橋をわたれって、言ってるわけじゃねえ。なあに、ちょっと客のふりをして、二、三日津軽屋敷に通って、様子を見てほしいだけだ。たのむよトシ」
「そんなの旦那の手の者に……」
「馬鹿言っちゃあ、いけねえ。本所は町方の支配だぜ。俺が手下なんかを送りこんだら、あちこちに角が立つ」
ふたりが話していると、彦五郎の妻、歳三の姉おのぶが茶菓子を持ってあらわれた。整った顔立ちに、きらきら光る勝ち気な眼が、活発な印象をあたえている。
「歳三。このように、馬場さまが頭を下げていらっしゃるのです。たのみぐらいきいてあげなさい」
「いや、だって、俺がそんな岡っ引きみたいな真似……」
「あんたは、勝手じゃあ、しょっちゅう内藤新宿の賭場に行ってるじゃないの。なのに、馬場さまのたのみでは、行けないとうつもりかえ?」
矢継ぎ早にたたみかける、おのぶの啖呵に、歳三は押されっぱなしである。滅多に見られない見世物に、柱の陰から様子をうかがっていた彦五郎が、笑いを噛み殺している。
「旦那さま。あなたも言ってやってください」
おのぶが振り向き、彦五郎に声をかけた。
えへん、と咳払いして彦五郎が、
「なあ、トシ……こうして馬場さまが、頭を下げておたのみになってるんだ。少しぐらい、御上の
重々しく言うが、笑いを噛み殺すのに必死である。
どうやら馬場は、歳三にたのむ前に、すっかり彦五郎夫婦に根回しをしていたらしい。こうなると多勢に無勢。歳三に勝ち目はなかった。
しかし、その甲斐あって、津軽屋敷の賭場に通いつめ三日めにして、とうとう仕掛けた鉤に、大魚がかかったようだ。
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