2章 千人同心
歳三は、おときの家をあとにすると、二ヶ領用水をわたり登戸宿に入る。
津久井道は、往還ではないので、伝馬の取次ぎはなく、正確には宿場ではなく村であるが、このあたりでは矢倉沢往還の
溝口が戸数二百二十八軒に対して登戸は二百二十五軒。どちらも人口は千人弱と、ほとんど同じ規模の宿場で、主な産物は、日本最古の甘柿と言われる禅寺丸柿と黒川炭。下駄造りが盛んで、下駄屋が十四軒もある。
二子溝口は、どちらかというと商業の町であったが、登戸には、居酒屋が十二軒、煮売り屋が七軒もあった。
居酒屋の数は、ほぼ倍の規模を持つ甲州道中の日野宿より六軒少ないだけで、この宿場が、歓楽街的な性格を持っていたことがわかる。
宿場町にしては珍しく道筋は、円弧を描くように湾曲しており、ちょうど真ん中あたりが
歳三は登戸宿に入ると、すぐ左手にある荒物屋の脇の路地に入る。街道沿いに家屋がならぶだけで、裏手には田畑が続いていた。
畑の奥には、こんもりとした屋敷林を背にした長屋門が、そして、その奥には、大きな茅葺きの屋根が見える。気の置けない友人の千人同心・戸倉又兵衛の屋敷である。
又兵衛の先祖は、武田家の騎馬軍団に属してしたが、主家の滅亡とともに八王子の犬目村で帰農した。しかし、関ヶ原の戦いを控え、兵の増強と武田遺臣の処遇を一挙に解決する策として、家康の勘案で八王子千人同心が発足すると、それに組み込まれた。
その後、新田開発で登戸村に移り住み、この地において、農業を続けながら千人同心に属していた。
「おう、ごめんよ。又兵衛さんいるかい?」
長屋門をくぐりながら、歳三が声をかけると、
「おおっ、トシさんか。よく来たな」
前庭の土蔵の前で、着物をはだけて棍棒のような木剣を素振りしていた男が、ほがらかにこたえた。戸倉又兵衛である。
又兵衛は、天然理心流・近藤周助の門人であるが、この近辺には、門人があまり住んでいない(文久三年の神文帳に、登戸二名、中之島、
なにしろ普段の稽古は、歩いて一刻近くかかる川向こうの
「トシさんが来ると稽古に張り合いがでるって、ゆうべ吉沢さんと話していたところさ」
「それは、お互い様だ。今回も世話んなるぜ」
歳三がそう言ったとき、ぐらぐらと地面が揺れた。
「おっと、また地震かよ。こりゃあ、地面の下で、
又兵衛がおどけて、身体をくねらせる。どうやら
「去年は、大きな地震が二回もあるし、先月は、豆州で大きな地震があったそうだ。海の向こうから
歳三が嘆息すると、又兵衛がにやりと笑い、
「地震はともかく、さすがに今日は、商いで疲れただろ? どうだい、おごるから一杯つきあえよ」
「おっ、いいね。いま荷物を片付けるから、ちょっと待ってくれ」
歳三は、厳重な旅装から、着流し姿になった。
ふたりは連れだって、津久井道と八王子道が交わるあたりにある居酒屋に繰り出した。
八王子道は高幡不動道ともよばれ、東海道川崎宿から二子溝口を経て、八王子に抜ける街道で、西にゆけば歳三の実家の近くにある高幡不動に出る。
現在の川崎市域を、南北に貫く交通の要衝なので通行量が多く、その角地にある安くて美味い居酒屋『ひたち屋』は、いつも混雑していた。
店のなかは、ほとんど満席で、ざわついているが、それはいつものことだ。ふたりは、空いていた街道に面した奥の入れこみに案内される。
衝立を隔てた歳三たちの隣では、馬丁らしい三人の男が陽気に騒いでいる。反対側の席は、身なりのよくないふたり連れの浪人が、陰気な顔で、顔を突き合わせるように、ちびちびと酒をのんでいた。
「ところで、景気のほうはどうだい?」
草履を脱いで上がりこむと、さっそく又兵衛が切り出す。
「ああ、好調だ。さっきも百姓代の深瀬さんのところで、話をまとめたところさ」
「へえ。深瀬さんのところか……あそこには、年頃の綺麗な娘がいたはずだ。さてはトシさん……」
又兵衛が、にやにやと笑いながら言うと、
「勘弁してくれ。素人女には懲りごりだ。そんな気は、さらさらねえよ」
「なんだい。勿体ないなあ……あそこの娘は、かなりの上玉だぜ」
「それがさ、じつは……」
歳三は、先ほど不逞浪人から娘を助けた顛末を、秘密めかして小声で語る。それをきいた又兵衛は、
「おいおい。そんな据え膳が揃っていながら、ご馳走をいただかないなんて、いまにバチがあたるぞ。だいたいトシさんはだな……」
又兵衛の冗談に、苦笑を浮かべながら杯を口にして、視線をそらす。格子窓の外を見ると、埃っぽい街道を、忙しなく人馬が行き交っていた。
店の小女に肴を注文しながら、又兵衛の品のない冗談をきき流していると、衝立をはさんだ後ろの席で、酒をのんでいた陰気な浪人たちの話す声が、耳に入った。
「やつらは、ほんとに、この街道筋におるのか?」
「ああ、一昨日、たまたま秋吉のやつが高幡不動に参ったら、八王子道を東に向かうやつらを見たという話だ」
「一昨日……では、われらが内藤新宿で待っているのを見越して道筋をかえたわけか」
「やつら、まさか秋吉が、高幡不動などに参っているとは、思ってもみなかっただろうな」
「なんとしても奪い返す。このまま舐められてたまるか」
「もうこんな刻限だ。やつらが通るなら、とっくに通っているはずだが……」
「もしかしたら、すでに先へ行ってるかもしれぬ。陽が暮れる前に、溝口まで足を伸ばそう」
浪人たちが店を出ると、
「又さん悪い。ちょっと待っててくれ」
と、断って、歳三が店を出る。縄暖簾から顔を出すと八王子道を、二子溝口宿の方向に歩いてゆく、ふたり連れの浪人たちの後ろ姿が見えた。
「なんだいトシさん、あの柄の悪い浪人たちが気になるようだな」
歳三が席に戻ると、又兵衛が怪訝な
「ああ、なんだか気になる話をしていやがったが、二子溝口に行っちまったんで、もう関係ねえ話さ」
そう言うと歳三は、杯を干した。
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