23枚目 「パンツの恩返し」

「直久、お母さん、もう帰るけど大丈夫?あんなことがあったから心配だわ…」


「大丈夫だよ母さん。手伝いありがとう。助かったよ」


「何かあったら連絡するのよ。あと…ユリさんによろしくね」


「…ああ、ユリが帰ってきたら伝えておくよ」


 引っ越しの荷解きも終わったところで、母はユリの名を口にして帰っていった。

 さすがにあんなことがあったあとだからか、父がいたからか、母も俺の趣味についての嫌味をいうことはないままあっというまに両親との時間は過ぎていった。


 あの事件の翌日、警察から一応両親に連絡がいき、真っ青な顔をして実家から俺の家まで飛ぶようにやってきた。

 無事な俺の姿を見てホッとした表情を浮かべていた父と母にはなんだか慣れなくて、ユリに話そうとか、ユリはいないんだったなんて脳内で混乱しながらもぼーっと心配する両親を様子を眺めていると、母が急に泣き出したことは何故か鮮明に覚えている。


「帰ってきたら…か…」


 両親もいなくなり、気が抜けた俺は新居のソファーに座ってコーヒーを飲みながら独り言を呟く。


 永本の襲撃、そしてユリがいなくなってから二ヶ月が過ぎた。

 バルコニー側の窓から轟々と黒煙があがっていたことや、開きっぱなしの玄関から聞こえる言い争いを聞いていたらしい同フロアの住人が通報のか、俺が部屋から締め出されてから3分と経たずに警察や消防士がマンションのエントランスに駆けつけてきた。

 それからのことは正直バタバタとしすぎて細かいことまでは覚えていない。

 部屋に倒れていたのは永本だけだったこと、大量のパンツやレディースの服があったことを少し警察に怪しまれたが、それよりも永本が過去に似たような不法侵入やつきまといで数回警察沙汰になっていたことが問題になったお陰で特に面倒なことにはならなかった。 

 あの日、俺を外に逃がして部屋に残ったはずのユリはどこにもいなかった。永本の証言にもユリという女が部屋にいたとあったらしいが、疾患からくる妄想と幻覚ということで片付けられてしまったらしい。

 示談にしてくれと田舎から出てきた永本の両親から涙ながらに懇願された俺は、永本の治療と接近禁止命令と共に、示談金と慰謝料を払うことなどを盛り込んだ誓約書を交わしてあの事件をおしまいにすることにした。

 万が一のことを考えて、示談金と慰謝料で俺も両親も引っ越しをして、やっと落ち着いた。それが昨日のことだった。


「パンツの恩返し…」


 言葉に出してしまうとバカバカしいにも程がある響きだ。

 でも、本当にあったんだよな…と考えて少し落ち着いたはずの気持ちがまた落ち込んでくる。

 バタバタしていたほうがユリのことを考えなくて済むのにな。そんなことを考えながら、部屋に差し込んでくる初夏の日差しに水族館で買った雪の結晶の下で泳ぐシャチのキーホルダーを透かして見る。


 母には「ちょうどユリは女友達と海外に旅行へ行っている」なんて嘘をついたけど、それも潮時かもしれない。適当にケンカ別れをしたとか説明して、また「あなたがパンツを集めるなんて異常な趣味をやめないから」なんて小言を聞くはめになるんだろうなと考えてため息が漏れる。


「パンツに戻ってもめちゃくちゃ大切にするって…言ったのにな」


 キーホルダーを買ったばかりのコーヒーテーブルに置いて、ランジェリーのカタログをペラペラと捲っていく。

 少し大きめでモダンなダークブラウンのセラミック製のコーヒーテーブルも、キャメル色の大きめのソファーもユリが戻ってくるかも…と彼女の好きそうなデザインを買ってしまった。

 クローゼットにはユリが残していった鞄を入れてあるし、ダブルのベッドを二つ…ブラウンとブラックを基調にしたものと、アイボリーとホワイトを基調にしたものを買って別々の部屋に置いてあるのも、そうすればユリがケロっとした顔をして戻ってくるかも知れないなんてらしくないことを考えてのことだった。

 

 永本の両親から支払われた示談金で以前より広いマンションや家具を一新して、二ヶ月も立つのにユリは一向に帰ってくる気配はない。

 あの騒ぎのあと、煤けた部屋で一心不乱にユリパンツがないか探したけれど焦げたパンツはどこにも落ちていなかった。

 本当にどうやらユリは消えてしまったらしい。それを認めたくなくてここまでするなんて。本当に恋ってものは人間をバグらせるらしい。

 でも、そんなバグも肝心の相手がずっといなければこうして早々に冷めてしまう。


 折角の新作情報も全く頭に入ってこないので、気分転換を諦めてコーヒーでも飲もうと席を立った。


――ピンポン


 ああ…頼んでいた新しいトルソーが届いたのかな。生活も落ち着いてきて、ユリのことはまだ引きずっているけれど、やっと新しくパンツを集め直す気力が出てきた。

 まずはパンツを綺麗に飾るために…と下着を飾る用のトルソーを一昨日通販サイトで購入したことを思い出して受話器を取りながらモニターに目を向ける。


「わたし…!あなたに助けてもらったパンツです!」


 受話器から、聞き慣れた鈴を転がすような澄んだ声が聞こえてモニターを2度見する。

 こんなふざけたことを言ってくるやつはたった一人しか思いつかない。

 モニターに写っている女性がキョロキョロとカメラを探す素振りをすると、肩上に切りそろえられた亜麻色の髪と服の上からわかるくらい豊かな胸部が揺れる。

 

「あれ?忘れちゃいました?きっとこれを見たら思い出すはず…」


「待て!やめろ!わかったから。とりあえずこっちで話を聞かせてくれ」


 あの時の深緑のニットワンピースではなく、初夏らしい青系の色を使ったレイヤード風が映えるAラインのワンピースを着た彼女は、エントランスだというのにワンピースの裾に手をかけようと背中を丸めた。

 慌てた俺の声を聞いて、両端を持ち上げた薄桜色の唇から歯をちらっと見せていたずらっぽく笑う。

 エントランスのドアを開いて、彼女が部屋に向かうまでの間、なんとか落ち着くために深呼吸を繰り返す。


 こっちがどれだけ心配したのかわかってるのかとか、なんでなんの連絡もくれなかったのかとか、あの時なんで一人で異常者に立ち向かったのかとか会って言ってやりたいことがありすぎたけれど、モニターの向こうで微笑む彼女の顔を見て全てが吹き飛んでしまった。


――ピンポン


 玄関の前をぐるぐるとあるきまわっていると、再びチャイムが鳴り響いた。

 勢いよく扉を開いて、扉の前にいる彼女を抱きしめる。

 

「ユリ…」


「直久さん、また、恩返しに来ちゃいました」


 そう言いながらユリは俺の背中に手を回して、頬にそっと口吻を落とす。

 彼女のやわらかさも、体温も、唇の感触も心地よくて、ユリのことを抱きしめたまま何度も彼女とついばむようなキスを交わした。


 彼女を抱きしめたまま、家の中に入り、鍵を閉めてからゆっくりを二人でソファーに座る。

 飲み物を取ってこようとキッチンへ向かう俺の服の裾を引っ張って、急に不安そうに眉を八の字にしたユリが引き止める。 


本当のパンツじゃない私でもいいですか?」


「ん?当たり前だろ。どうした?」


「これ…」


 なにを今更心配してるんだ…と笑い飛ばそうとする俺に、彼女はどこからか出した密閉式ビニールを手渡してきた。


「…体液が付着するといけないので、直久さんがしていた保管方法で持ってきたのですが…」


「は?パンツのユリ?え?パンツ…最高…やっぱりこの丈の長さとセクシーさを両立できる黄金比を極めた俺にとって史上最高のデザイン…冬の日の爽やかで儚い空の色…とその空にかかる雲のように僅かながら灰色味がかった白い百合刺繍…それにこれはタグがない試作品プロトタイプ…こうして手にとって間近で眺められるなんて夢みたいだ。いや、これは夢…ユリがいるのにパンツがある?パンツの恩返しなのに?」


 密閉式ビニールを開いてパンツを手にとってまじまじと見る。

 そして、ありえない事態に混乱してきてこれが夢じゃないのかと不安になる。そうだ。こんなに都合がいいことは起こるはずがない。きっとこれはリビングで寝てしまった俺が見ている夢なんだ。

 変な汗で手のひらがびっしょりになりそうだ。でも夢の中とはいえ大切なパンツを自分の汗なんてもので汚したくないのですぐにパンツをビニールに戻して力なくソファーに腰を落とした俺の肩にユリの手がそっと触れる。


「その…恩返しをするのに恩人を悲しませるなんて恩返しじゃなーい!とパンツの神様に言われてしまいまして…その…それと、ゆーちゃんさんに…直久さんと一緒にいてあげてって言われてですね…条件付きでこうなりました…」


「…あ」


 顔を赤らめた彼女は、いつかしたみたいにワンピースの裾を捲りあげた。違っていたのは彼女が何も身につけていないことと…以前はなかった人としての生殖と排泄に必要な部位が完備されていることだった。


「ああ、よくわからないけどわかったから、しまってくれ。刺激がその…強い…」


「これで、直久さんに恩返し…出来たでしょうか?」


 俺の言葉でワンピースを元に戻したユリが上目遣いになって俺を見つめてくる。不安そうに俺の腕に手を添えてくるユリが愛おしくて、俺は彼女の頬にいつものようにそっと手を当てる。


「いや、まだ足りないな」


「ええ?」


「俺が死ぬまで、そばにいてくれないと足りない。してやりたいことも買ってやりたいこともたくさんあるんだ…」


 悲しそうな顔をしたユリだったが、その後に続く俺の言葉を聞いてぱぁっと花が咲いたように彼女の顔は明るくなる。


「はい…。…直久さんが死ぬまでずっとずっと…もう離れませんから…」



―Fin―

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