22枚目 「直くんが悪いんだよ?」

 なにか焦げたような臭いで目を覚ます。

 さっきまでの悪夢は夢で、きっと先に起きたユリが料理に失敗したんだろうなんて都合の良いことを半ば祈るように考えながらゆっくりと目を開けてベッドから起き上がろうとした。しかし、身体は自由に動かない。

 やっぱりアレは悪夢なんかじゃなかったか…とガッカリとしながらかろうじて動く首を少し持ち上げて自分自身がどうなっているのか見てみようとする。

 なんとか見えたものと、身体の感覚から予想できるんのは、俺の両手はなにかベルトのようなものでしばられ、それぞれの太腿辺りに巻きつけられているということだ。

 なんとか両手を動かそうと力を入れると、マジックテープで止められているらしいベルトがわずかに動いた気がした。

 なんとか抜け出せるかも知れない。ユリが帰宅する前にあの異常者をなんとかしないと…。

 そう思って必死に身体を捩っていると、寝室のドアが開く音がして視線を音の方向へと向けた。

 ドアが開いたと同時に入ってきた何かが焦げたような臭いと、甘ったるい香水の香りで気分が悪くなりそうになる。


「直くん、おはよう」


「…永本さん、どういうことですか?」


 笑っていない腫れぼったいメガネの奥の目元と反して、口の両側だけやけに吊り上げて扉から入ってきた永本を、なるべく刺激しないように話しかけた。

 手にはどうやらスタンガンは持っていないように見える…。これならどうにかなるかもしれない…。


「直くんが悪いんだよ?流輝彌るきやくんの生まれ変わりなのにあーんな胸しか取り柄がなさそうな馬鹿牛女にでれでれするから」


「は?」


「もうとぼけてもお・そ・い・の!一人っ子なのに妹がいるなんて嘘をつくからわたしは直くんのこと疑わないといけなかったんだよ?せっかく直くんのお母さんに電話して変な虫がいますよって教えてあげたのにコロっと騙されて帰っちゃったみたいだし。未来の姑しっかくだよ」


「…え」


「直くん宛にお母さんから小包が届いてたから。将来のお嫁さんになるんだから郵便物くらいみたっていいし、変な虫がついたら電話してあげるのが当たり前でしょ?」


 脳内が「ヤバイ」の文字で埋め尽くされて思考停止しそうになる。永本は日本語を話しているはずなのに言っていることが微塵も理解できない。いや、理解することを俺の脳が拒んでいる。

 永本の機嫌を取って油断させようという作戦すら忘れ、俺が唖然としていると彼女のパンパンに張り詰めた頬がみるみるうちに赤くなり、目と眉が釣り上がっていく。


「なんとかいえよ!謝るとかあるだろ?お前本当に流輝彌るきやくんの生まれ変わりの自覚あるの?」


 ドスドスと乱暴に歩いて近付いてきた永本は、俺の上に馬乗りになると胸ぐらを掴んで凄んでくる。ドスッという遠慮なく身体に跨がられ、肋骨と腹にかかる重圧に思わずうめき声をあげると、永本は口元だけニタニタとしはじめ、着ているコートのボタンに手をかけながら妙にくねくねした動きをしはじめた。

 コートを脱ぎ、その下に着ている黄ばんだひらひらのレースがあしらわれたブラウスを脱ぎ始めたところで俺はやっと永本のしたいことに気が付いた。

 永本の股間部が俺のズボン越しの局部に擦り付けられ、その体温が気持ち悪くて咄嗟に顔をしかめてしまうと、それを見た永本の目と眉が再び釣り上がる。


「なんだその態度は!わたしが流輝彌るきやの自覚がないお前のためにせっかく処女をあげようっていうのに嬉しそうに出来ないのかよ!お前は流輝彌るきやくんなんだからわあたしだけを見ていないとダメだ!直くん?わたしはわかってたんだよ?でも直くんがずっと気が付かないから我慢してたのにあんな泥棒女に直くんを横取りされそうになったから直くんのことをこうやって洗脳から助けないといけないの。わたしだって本当はこんなことしたくないよ。でも直くんが雌牛女の大きいだけのおっぱいに惑わされて『夜通し好きって言うつもりか?』なんて言いながらえっちなことするからわたしだって仕方なくこうやってわたしの処女を捧げることで直くんの中の流輝彌るきやを目覚めさせてあげようとしてるんだよ?」


「なんでそれをユリに言ったことを知って…」


 俺の首に手をかけながら血走ってわけのわからないことをいう永本の唾液を顔面に浴びながら、何故か部屋の中で言った俺の言葉を知っていることにさらなる恐怖を覚えてつい口が滑る。


「あの牛女が直くんを誑かす前になんとかしようと思って入れておいたの。良く出来てるでしょ?これで直くんたちの会話が聞けるんだよ。っていっても部屋の横の階段すぐ近くにいないといけなかったから直くんのことを守るの、大変だったんだよ?」


 俺の首から手を離した永本にホッとしたのもつかの間、彼女が脱ぎ捨てたコートの中からUSBケーブルがついたままの少し大きいモバイルバッテリーを取り出したのを見て、体中に鳥肌が立ったのがわかる。

 それは、ユリの鞄の中から転がり落ちた見知らぬモバイルバッテリーだった。


「直くんの純血は守れなかったけど…我慢してあげる。だからほら、おとなしくして」


 盗聴していたことを悪びれる様子もなく、ポイと盗聴器を床に放り投げた永本が体積の割には大きくない胸部を支えているブラを外すために手を背中に回す。

 徐々に強くなっている焦げたような臭いと、意味不明なことを話す永本の体温と甘すぎる香水の臭いのせいでこみ上げてくる吐き気を耐えるために顔を横にそむける。


「え?煙?」


 もう色々起きすぎてよくわからない。なんだ。何が起きてるんだ。

 そんな俺の混乱をあざ笑うように、俺の上に跨っている永本キチガイは当然のような顔をしながらベージュの毛玉だらけのブラジャーを外して、そのだらし無い上半身を俺に晒しながらこういった。


「わからないの?雌牛女が着たパンツなんて燃やしたのよ?」


「は?ふざけんな全部未使用だぞ馬鹿か」


「何その口の聞き方?なんで未使用にパンツなんてたくさんあるの馬鹿じゃない?嘘つき!着もしないパンツを集めてるなんて気持ち悪い!最低」


 パンツを燃やしたことにカッとして自分が置かれている状況のまずさも、相手が激昂すると何をするのかわからない異常者だということも忘れて咄嗟に暴言が口をついて出ると、永本は露わにした上半身の贅肉を揺らしながら顔を真っ赤にして枕元にある金属製のテーブルランプを手に持って振り上げた。

 しまった…と思うよりも早く来るべき衝撃に備えて俺はきつく目を閉じ、せめてもの抵抗で顔を横にそらす。


「…じゃあ、私に直久さんを返してください!」


 その時、聞き慣れた声がすぐ近くで聞こえた気がした。

 バチンっと大きな音がして、俺の上に跨ってテーブルランプを振り上げていた永本はカエルが潰されたような呻き声をあげながら床に転がり落ちる。


「直久さん!」


 永本が持っていたスタンガンを手にしたユリが、俺の元に駆け寄ってくる。ユリは俺のはだけた胸元や下ろされそうになっていたスウェットを見て泣きそうな顔になったが、俺が動けないことを理解すると手早く俺の拘束を解いていく。

 どうやらマジックテープで止めるタイプのの人が使うグッズらしく、あっさりと拘束は外れて、俺の身体は自由になった。

 ユリの手を借りてベッドから起き上がると、廊下に黒煙が立ち込めているのが見える。ああ…俺のパンツが燃えている…と感慨にふける暇もないなんて…。あの女絶対に許せない…。


「玄関の鍵が開けっ放しだったので変だと思ったら、話し声が聞こえたので…家もこんなんですし…」


 ポケットに入れていたハンカチを俺に渡して姿勢を低くしたユリの手を引いて、俺はまだ床に転がって呻いている永本から逃げるために玄関に向かう。

 廊下を一、二歩進んでからスマホがないことに気が付いた俺がスマホが近くにないか確認しようと振り向くと、ユリの背後でさっきのテーブルランプを振り上げている永本が目に入った。嘘だろ?復帰してからの行動が早すぎる…。


「ユリ!うしろ」


「――っ!」


「ふざけんな…っ!」


 咄嗟に声を出したものの間に合わずユリの後頭部にテーブルランプが振り下ろされる。鈍い音と共にユリは小さなうめき声を漏らして顔を歪めた。反射的に永本に向かって駆け出そうとする俺の胸を必死で押し返して歩みを止めないユリの後頭部や背中には、何度も何度も永本のテーブルランプが振り下ろされ、鈍い音が何度も響く。


「雌牛女!邪魔するな!殺してやる殺してやる!わたしと流輝彌の邪魔をしないで!この!この!あんたが直くんを変態にしたんだ!」


 永本の手が振り下ろされるたびに顔を伏せたユリから小さな呻き声が漏れる。俺はユリを押しのけて永本に向かおうとするが、ユリは永本にお構いなしに俺をどんどんと玄関の方へと押していく。普段の力では考えられないような強い力のせいで、俺は永本に殴られている彼女をただ見ていることしか出来ずにいた。


「やっと…恩返し、できますね」


 開きっぱなしの玄関の扉まで俺を押してきたユリが立ち止まって一瞬だけ顔をあげた。

 彼女の後ろで永本が再びテーブルランプを振り上げているのが見える。

 ユリの腕を引いてなんとか一緒に家から出ようと彼女の細い手首をつかもうとするのを見透かしたように、ユリは俺のことを強く突き飛ばして、扉を閉めた。


「パンツを集める性犯罪者予備軍を教育してわたしにふさわしい直くんにするんだ!どけよ!流輝彌るきやくんの趣味は乗馬とピアノなんだ!女性もののパンツを集める変態なんかじゃない!直くんはそんな変態じゃないのに!どうしてくれるんだ!」


「私は…そんな彼の趣味で助けられたんです」


 どすのきいた大声で喚く永本の方へ、凛とした表情で向き直るユリの姿を見ながら、彼女に押された勢いが強くて尻もちをついた俺は、無駄だとわかっているのに手を伸ばす。

 都合よく奇跡なんて起こるわけもなく、無常にも扉は閉まり、ガチャリ…と玄関の鍵が閉まる音と共に玄関の扉に思い切りなにか重いものがぶつかる音がした。

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