20枚目 「やめてくれって言っても知りませんよ?」
旅行から無事に帰宅をし、日常へと戻ってきた俺は、夕食を作っているユリを待つためにリビングのソファーに腰を下ろした。
コートのポケットに入れっぱなしだったキーケースをシューズボックスの上に置いてこようと取り出すと、キーホルダーに目が向いてしまう。
雪の結晶の下にシャチがぶら下がっている小さなキーホルダー。
そんな可愛らしいものを付けた自分の黒革のキーケースが見慣れなくて、玄関に行くのも忘れてソファーに再び座った俺は、キーホルダーを上に掲げて照明に透かして見る。
キラキラと光る雪の結晶の下でゆらゆらと揺れているシャチをぼーっと見ていると、鈴を転がすような透き通った声で名前を呼ばれる。
わざとめんどくさそうな顔を作りながら声の方へ顔を向けると、部屋着のユリが微笑みながら近付いてきて、ソファーでくつろぐ俺の隣に腰を下ろした。
「おそろいのキーホルダー、そんなじっと見るくらい嬉しいですか?」
「…取ろうかと迷っていたところだ」
「もう~!素直じゃないんですから」
俺の頬を指でつついてくるユリから顔をそらして彼女の手を軽く払い落とす。ユリはケラケラと声を上げて笑うと、ソファー横に置いてある鞄から自分のキーケースを取り出して俺のものと並べた。
ニコニコとしながらじぃっとこちらを見つめてくる彼女の表情は、まるでいたずらを見つけて欲しい子供のような顔で、真面目な顔を作ろうとしても、ユリの可愛らしさに耐えられずに思わず口元が緩んでしまう。
「ほら、笑ってるー!」
笑ってるところをユリに指摘されて、降参したように両手を上げると彼女は腰に両手を当てて胸を張ってみせた。
それから少し視線を落として、キーホルダーについたシャチをそっと指で撫でると再び俺の顔を見てにこっとはにかんだように微笑むのだった。
「ゆーちゃんって方、大切な人だったんですか?」
急に声のトーンを落として、俺の顔色を伺うようにチラチラと目線を泳がせながらユリはポツリとそう言った。
俺が黙って彼女を見つめていると、ユリは言葉を選ぶようにゆっくりと話を続ける。
「私は…多分なんですけど直久さんの理想の女性像を模して作られたんだと思うんです。っていっても…私自身もよくわかってないんですけどね。せっかくこの姿になれてチャンスをもらえたから、命の恩人に恩返しをしようってことしか考えてなかったですし…」
「大切…だったのかもしれないな。小さい頃のことだから思い出したとはいえそこまでハッキリと覚えてるわけじゃないけど…」
話すいい機会だなと思えた。
不安そうに眉尻を下げてこちらを見てくるユリの頭を優しく撫でて、俺は姿勢を正す。
「母さんにパンツのことで気持ち悪いって怒られてる俺をさ、庇ってくれたんだ、ゆーちゃんは。それで…まぁ、ゆーちゃんは事故で死んじゃったんだけど」
ずっと忘れていたことを改めて思い出して胸が傷む。それでも、以前のように頭痛が俺を襲うことはなかった。
死んでしまったと口に出した時、眉を顰めたのを心配したのか、ユリが俺の手を取って軽く握ってくれた。
「ユリを助けられた瞬間、あの時出来なかったことを出来た気がして、後悔が少し薄れたんだ」
俺は握った手を振りほどいて、ユリの顔を見つめる。そのまま涙を浮かべた彼女の頰をそっと撫でると、ユリは俺の手に自分の手を重ねて悲しげな顔をしたまま口元だけ微笑んで見せた。
「後悔もクソも、子供だった俺があの時出来たことなんてなかったんだろうけど、それでも俺があの時手を差し伸べてればとか、急に駆け出さなかったらとか心の底には後悔とか罪悪感としてあったんだと思う」
黙って俺の話を聞いている彼女の手に力が少し篭るのがわかる。
ゆーちゃんとユリを重ねてしまったことを嫌がっていないか心配になりながら、彼女の瞳を見つめたが、彼女が何を考えているのかは分からなかった。
ゆーちゃんの面影をユリに感じながら、俺は言葉を更に続ける。
「こんな趣味でいることの罪悪感は消えないけど…少しだけ、生きることに前向きになれた気がする」
俺が頰から離そうとした手をぎゅっと抑えたユリのこちらをじぃっと見ている大きな目からは、宝石みたいにキラキラした涙の粒が零れていく。
「でも、私は、直久さんの趣味のお陰でこうして毎日楽しくて、幸せに過ごしてるんです…恩返しは出来てないけど…」
真っ直ぐに俺を見つめながらそう言ってくれたユリを、心の底から本当に好きだと思った。
「もう…十分すぎるくらいユリには助けてもらってるんだよ」
力が緩んだ彼女の手を振り払い、そしてユリの背中に手を回す。
十分すぎるなんて言ったら、彼女が消えてしまいそうだけど、言わずにはいられなくて隠していた気持ちを言葉にする。
そのままユリを少し強めに抱きしめると、彼女の体温と柔らかさが肌に伝わってくる。
「消えてほしくない」
顔が見えるように一度身体を離して、ユリの額に自分の額をコツンと当てながらそう呟いた。
間近で見るユリの頰は桜色に染まっていて、ただでさえ大きな目が驚きで丸く見開かれている。
「はぇ…」
ユリの細い顎に手を添えて、そっと厚みのある薄桜色の唇を撫でると、彼女はビクッと身を竦ませた。
「嫌ならやめる」
徐々に顔を近づけながらそういうと、ユリはブンブンと顔を横に振ってみせた。
「好きだよ」
唇をゆっくりと重ね合わせると、皮の薄い柔らかい感触と彼女の吐く熱い吐息が伝わってくる。
「ユリのことが好きなんだ」
「ぅぅ…しあわせすぎます…私も…直久さんのこと…好きです」
一度唇を離してユリの顔を見て気持ちを伝えると、ユリは耳まで顔を赤く染めながらそう答えてくれた。
「うれしいから、もっと言って」
「好き…好きです…大好きです…」
ユリのことをゆっくりとソファーに押し倒そうとして、姿勢を変えた彼女の手が鞄にあたって落ちる。
「あっ…」
散らばった鞄の中身に手を伸ばそうとしたユリの手首をそっと掴んで引き寄せた。
彼女の細い顎に手を添えて鞄に向いた視線を顔ごと自分の方に向けようとして、見覚えのないものが転がっていることに気が付いた。
「なんでしょうこれ?」
USBケーブルがついたままの少し大きいモバイルバッテリーを見て二人で首をかしげる。
水族館で鞄を落とした時に誰かが間違えて入れたものかもしれない。
落とし主には悪いが、今はどうでもいい。
ユリの顎に手を添えると、名前を呼ばれた子犬のような顔をして、彼女は俺の顔を見つめ返してくる。
「それより、今はもっとユリの好きを聞かせて欲しい」
「やめてくれって言っても知りませんよ?」
「言わないよ」
ソファーの上にゆっくりと寝転んだユリの上に覆いかぶさるようにしながら、ついばむようなキスを数回して、俺たちは目を見合わせて笑い合った。
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